Star footsteps.
玄が漸く立ちあがったときには、もう冷たさにぼかされたまま、彼のにおいは捉えられない後背へ流れ、分散していくのが分かった。玄はその流れに従うようにわたしの横を通り過ぎる。消毒液のにおいだった。瞬間、赤い色を連想する。傷ついた微かな気配に囲われた、おどおどしい正体を所有したまま尋ねる。


「何故、玄だけが死ぬの」


玄は、わたしを愛しそうに見据えてふわりと笑った。その頬には色が戻っていた。


「睦月じゃなくて良かった」

「嬉しくないわ。玄はどうなるの」

「死ぬと、生まれる前に還ると聞く」

「そこは、どんなところ?」

「きっとこの場所と似ているよ。だから僕はここに残る」


睦月は生きて欲しい、と最後に嗄れた声でわたしを見つめた。
片方だけ伸ばされた玄の手を取ると、優しい彼の身へ引き寄せられる。重なる皮膚を感じながら、玄が未だ纏う消毒液のにおいを吸い込んだ。

玄は、このまま海底に沈むと言う。
沈むのに果てなどないはずだ。物体が着地をするだけで、観念は定まれない。漂うのは波間でない。唯一不安定なのは循環作用をする生物だろう。分解されない。動かない生命体であってもそれはきっと生きている。何故、あなたは死んだと言うの。
ふと、遠くから秒針の音が聞こえてきた。しかし一定のリズムを保ったままで、秒針のそれよりも鋭い響きを帯びていた。あの音をわたしは知っている。


「睦月、足音だよ。…いつか僕が君に言った言葉、覚えてる?」

「ええ、もちろん。」


生きているうちに最も多く耳にし、誰かの存在を意識的に感じるのは足音なのだと。そうだとするのなら君と二人で歩いていきたいと。玄はわたしにそう言った。
紛れもなくプロポーズだった。ゆるゆると溶かす熱のこもった言葉は重みを増し、眼球を覆う粘膜から零れ落ちる。涙を堪える事など、到底出来なかった。
誰ひとり裸足でなど居ない。丈夫な靴を履いて、かけがえのない荷物を抱え、不安ならば誰かと背負いながらともに踏みしめて。そうして熱を生みだし、生きて。
ふと、わたしは足元に意識を落とす。
海底の闇に飲み込まれたのか、玄の足がどこにも見当たらなかった。
それに気が付くと、わたしは最後にもう一度だけ玄の顔を見たくなった。玄が消えてしまう、そう思ったのだ。けれどそれは叶わず、すぐにわたしは微睡む。
意識の途切れる最後に、玄の声がした。
それは、ひとり遺されてしまうわたしへ向けた、愛に満ちた言葉だった。



指先から玄との時間が剥がされてゆく、その柔らかな痛みで目が覚める。ここが病院であるという事はすぐに分かった。四角い部屋が潔癖なほど真っ白だったからではなく、玄と同じ消毒液のにおいが、視覚よりも先に嗅覚を刺激したからであった。
衣擦れの音とともに、ゆっくりと上体を起こして、何の感慨も無くわたしは窓へ目をやった。遮光カーテンの隙間から橙の光が這い寄っている。夕暮れ時のようだった。
すべてを焼く西日ほど鮮烈なものは無いが、最期の彼を抱き締めたと同時に得た幸福感が今も絶え間なくわたしを取り巻く。
玄の生きた、夜去りの海底から、玄が死んだ、夕去りの死亡時刻へ。
形状に捉われず、あたかもほどけるように柔らかな喪失感だった。

愛とは寛大で、わたしは玄に生かされた。薄れる意識の中ではっきりと聞いた。
不幸せに気付くまでが幸せだと思われがちだけど、実は、ずっと後で振り返ってみると、不幸せに気付いた時が幸せの始まりなんだよと、彼は言っていた。
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