神さまになれると信じていたあの時は過ぎ去って、わたしに残されたのはただひとつの死だけだと気がついた。いや、本当はもっと以前から、そんなことはよく知っていたのかも知れない。神さまになれるなんて最初から信じてなかったのかもしれない。わたしはいつだって世界というとても大きなものの中でゆられるように生きていて、なんだかそれだけなような気がしている。
 眠っていれば王子さまがキスをしてくれるおとぎ話を信じていたわけじゃなかった。けれども愛してはいた。大きな矛盾。そう、わたしは大きな矛盾の中でいつだってゆられるように生きていて、なんだかそれだけのような気がしている。繰り返し聞こえる日常の音を、運命だって確信していたかった。わたしの唇がバラ色だったらどんなに良かっただろう。わたしの瞳からこぼれ落ちるすべてが、ゲルダの流すそれのように温かくうつくしかったら、もっときよらかな雪を抱いて生きていられたかも知れない。すべては過去へ飛んでいった。わたしは今を生きている。置き去りになったのは、あの冬に置き去りになったのは、冷たい海で死んだ山路さんだけ。

 「思い出を溶かしたら海になる」ならば、「未来を埋めたら花が咲く」のだと思う。
 ――それは、山路さんが言った言葉だった。

 山路さんはわたしと同じクラスの女の子だった。黒々とした髪。まっすぐに揃えられた長い髪。強いまなざし。白い肌。にほんにんぎょう。彼女をみたときに、その八文字が頭に浮かんだ。日本人形みたい。おばあちゃんちの居間。戸棚の近くにおかれている日本人形を思い出す。置く場所にこまって、そこに置いたのだろうなという不思議な位置にそっと佇む日本人形。彼女の瞳が苦手だった。全てを見透かされているようで嫌だったわけじゃない。"わたしのその先"を見ているようで、嫌だったのだ。知らないものを、わたしがまだ知り得ないものを、その子はとっくに手に入れているようで、怖かった。右手の全ての指をきっちりと揃えて、彼女の目に被せてしまいたかった。そうして目隠しをすれば、少しは気休めになる気がした。山路さんはいつも全てのさきを見ているような女の子だった。
 山路さんのことが苦手だった。出会った瞬間から、わたしはこの子から逃げられない気がしていた。わたしはこの子から逃れられない。どうして出会ってしまったんだろうと思った。どうして彼女と出会ったんだろう。春を憎んだ。クラス替えなんてものを憎んだ。山路さんからしたら、そんなのはとんでもない迷惑であるように思う。わたしは勝手に山路さんが苦手になり、勝手に彼女や、クラス替えや、春なんかを憎んだ。彼ら、彼女らにしたらとても理不尽なことだろう。けれど、わたしもどうしてこんな感情が自分の中に突如出現したのか、理解できなかった。直感。なんとも頼りない言葉だけれど、そうとしか言えない。

 山路さんはいつもひとりだった。ひとりで、窓の外をじっとみつめているか、わたしには読めない難しい漢字が沢山書いてある本を読んでいるかしていた。わたしは一度山路さんが以前読んでいた本を書店で見つけて、購入してみたことがある。けれどもわたしにはあまりに難解で、可哀想なことに、買ってその日に漫画だらけの本棚のはしっこにおかれることになった。
 きらきらとした漫画が並ぶ本棚で山路さんの本は異質だった。けれど、その場所から動かす気にもなれなくて、本棚の淵に斜めに寄りかかっている本を見るたび、わたしは複雑な気持ちになった。どんな気持ち、と追求しないで欲しい。わたしにもわからない、そう、複雑としか喩えようのない感情なのだ。山路さんへの感情は。複雑。難解。曖昧な言葉がたくさん存在する世界に生まれて良かったと思う。決定的な答えを出さなくても、わたしたちは想いに名をつけることができる。名付けた想いは、そのままにしていられる。名もなきものほど厄介なものは無い。だから、名付けられて良かったと、わたしは自分を誤魔化している。誤魔化すだけの言葉に感謝をする。

 山路さんと始めて会話をしたのは、たまらなく熱い、暑い、夏の日だった。わたしは人生で三人目にできた彼と夏祭りに出かけていた。喧噪にうんざりしたわたしはとても不機嫌だった。人が多いところは得意じゃない。大きい音も好きじゃない。そもそも、夏祭りに行こうと言い出したのは彼だった。わたしは行きたくないっていったのに――心の中では不満だけがくすぶっていて、このお祭りが終わったら彼と別れようなんて、そんなことまで考えていた。
 ああ、早く家に帰りたい。家に帰って、今日がいかに面白くなかったか、洗いざらい誰かに喋ってしまいたかった。屋台で買ったやきそばがぱさぱさしていたこと。お参りをしようとしたのに、ガラの悪い他校の男の子達がそこを陣取っていてできなかったこと。彼のトークがあまりに下手くそなこと。すべてに、わたしはうんざりしていた。
 わたしはチョコバナナを買いに行こうとする彼に、トイレに行きたいと嘘をついて、席を外した。すこしひとりになりたかった。このまま帰ってしまおうかな、と言う気持ちもあったけれど、流石にそれは可哀想だと思いとどまって、少し離れた屋台まで移動する。近くに生えている木の根元に腰を下ろして、踏み荒らされている砂の地面を眺めた。腕につるしたビニールの袋を、サンダルでむき出しになった足の上に載せる。透明の壁をすりぬけて、水の温度が伝わってくる。水越しの足の指はぐにゃりと屈折していて、自分がウーパールーパーになってしまったみたいだった。足の指のすきまを赤い金魚が一匹泳いでいるように見える。彼がとってくれた金魚。わたしは、自分の家に果たして水槽があったかな、と考えた。金魚ってコップでもいきられるのかしら。広い方が良いのかな。スマートフォンで検索しようとしたけれど、もうまばたきさえ億劫で、何もする気が起きない。このまま木の一部になれたらいいのに。そうすれば、もうつまらないすべてにうんざりすることなく、ただこうして過ぎゆく景色を眺めて、優しい気持ちで生きていられる。
 そんなことをぼうっと考えていると、ふと、背筋がぞっとするような、そんな感覚がした。わたしはさっきまでの億劫さが消え、すぐにここを立ち去らないといけないという心地が胸を支配したことに驚いた。わたしは不思議と、どうして自分がそんな状態になったのか、理解出来た。顔をあげるとそこにはやはり――山路さんがいた。
 山路さんは年の離れた女の子と手を繋いで歩いていた。よく似た白い肌。黒い髪。けれど山路さんよりも明るく無邪気だった。女の子はひっきりなしに周りの物を指さしては山路さんになにかしら問いかけているようだった。山路さんは丁寧にひとつひとつ答えてあげていた。喋っている山路さんなど、先生に当てられ、何かの問題の答えを言うときくらいしか見たことのないわたしは、先ほどまで怯えていたくせに、無遠慮な視線をふたりに向けてしまっていた。ふと、山路さんが此方を向いた。わたしは慌てて目を逸らそうとしたのだけれど、あのまっくろな瞳を此方に向けられてしまっては、もう本当に、身動きなんてとれなかった。木になりたいなんてばかなことを言っていた自分を酷く後悔する。わたしはいますぐ彼の所に戻りたくなった。
 彼女が、山路さんがじっとわたしを見つめている。わたしはその瞬間が永遠に思えた。時が止まったんじゃないかと錯覚するくらいに。このまま世界ごと凍り付いて、わたしという人間は死んでしまうんじゃないだろうかと思った。足に載せた水袋の冷たさだけが、わたしの時計の針だった。赤い金魚が冬眠してしまわないことを願う。
 沈黙を破ったのは、彼女と手を繋いでいた女の子だった。「あのひと、だあれ? カオのともだち?」ふたつに結わいた髪が揺れる。山路さんはわたしから彼女へ視線を移す。わたしはようやく呼吸をすることができた。
「うんそう。篠宮さん」
 けれど、山路さんがあまりにもあっさりと答えたから、わたしはまた息を止めるはめになる。
「……山路さん、わたしの名前、知ってたんだ」
 わたしは山路さんがわたしの名前を知っていたことに驚いて、つい呟いてしまった。咎められるかと思ったけれど、山路さんは非難するわけでも、笑い飛ばすのでもなく、少しだけ目を細めただけだった。
「カオにもともだちがいたんだね」
 山路さんの妹(と仮定しておく)はわたしの目の前にやってくると、山路さんよりいささかきらきらした瞳で、わたしの瞳を遠慮無しに覗き込んだ。同じ色、同じ形のひとみなのに、すこしも山路さんに感じる居心地の悪さは感じない。わたしは何もせず、ただ彼女の目を彼女と同じように見つめた。
「カオみたいな目してる」
 山路さんの妹は、そう言って笑うと、わたしの手首にひっかかっていた赤い紐を奪った。つながっている水の袋も、そのまま奪われていく。高く持ち上げられたふくろの中で、赤い金魚がせわしなく泳ぎ始める。そんなに動くなよ、死んじゃうから。わたしはそう思いながら、彼女の手に握られた赤い紐を目で追った。
「これ、欲しい!」
「ダメだよ、ウオ。それ、篠原さんの金魚だから」
 ウオ。頭の中で、変換してみる。魚。山路さんの名前は、香魚子。この子の名前はなんだろう。ウオだから、魚子かな。だとしたら、山路さんから一文字ひいただけのようで、少しだけ不憫だ。魚菜、魚乃。なんだろう。そもそも、宇緒、とかかもしれない。頭のはしっこで全然関係のないことを考えられるのは、わたしの特権だ。欲しい、ほしい、とぐずっているウオちゃんを見て、わたしは「いいよ」と言う。いいよ、あげる。
「え、本当に?」
 山路さんがわたしに問いかける。へえ、山路さんってこんな話し方するんだ。わたしは頷くだけ。いいよ、あげる。心の中で、もう一度だけ呟く。ウオちゃんは喜んで、わたしに感謝の言葉を継げると、代わりにこれあげる、とわたしの手に何かを握らせた。それから何かウオちゃんと山路さんと話した気がするけれど、もううろ覚えだ。多分また学校であおうとか、ウオちゃんがわがままいってごめんだとか、そんな挨拶だったと思う。わたしの近くにいたウオちゃんが山路さんの元に戻っていった時、わたしは山路さんが一歩もわたしのほうへ近づいてきていたいことに気付いた。山路さんはわたしが苦手意識を感じていることを、とっくの昔から知っているのかも知れなかった。わたしはさっきまでの、平凡で、変哲のない、安全な時間を思った。まるで幻みたいな一瞬だった。すぐにわたしは身体が山路さんというひとを再び怖がりはじめていることを自覚して、悲しくなった。わたしは走って彼の元に戻って、そのわたしと似ているようで全く違う身体に抱きついた。彼は何かあったのかとわたしを心配する言葉をかけた。ずっと連絡してたんだけど、返事がないから――慌てる彼の穏やかなテノールを聞いていると、泣いてしまいそうだった。わたしはなんでもないのだと答えようとしたけれど、とても信じて貰えそうになかったし、わたしの喉は魔女に言葉を奪われてしまったみたいに何の言葉も生み出さなかった。身体は酷く震えていた。
 彼は、なんとかしてわたしを落ち着かせようとしたけれど、手にはふたりぶんのかき氷があったから、できずにいた。背中を撫でることも、強く抱きしめることもできなくて、途方に暮れている彼を見ていると、悲しくなった。派手なピンクとイエローがかかったかき氷が、もうほとんど溶けていることに、胸が締め付けられそうになった。彼が大丈夫だから、という。全然、大丈夫なんかじゃない。わたしは、こんなにわたしに優しくしてくれるあなたからもらったものを、たやすく人にあげてしまったし、わたしは多分、あなたのことを、全然好きじゃない。涙がこぼれてはじめて、唇から「ごめんね」という言葉が作られた。その真意を、きみはしらない。誰も知らない。わたしさえも。山路さんなら、その先をしっているのだろうかと思った。彼がぎこちなく抱きしめてくれる。浴衣をシロップで汚してしまわないように、慎重に。首筋から少しだけ汗のにおいがした。
 目を瞑って、水の揺らぎを思い出す。赤い金魚が、ゆらり。彼に抱きしめられながら、わたしはずっと握りしめていた手をそっとほどく。手のひらには真っ赤なビー玉がひとつ。夜の暗闇を吸い込んで、まるで彼女達の瞳の色のようだった。

 それからしばらく山路さんと話すことは無かった。相変わらずわたしは彼女に怯え、彼女は難しい本を読み、窓の外の景色を見つめていた。当然のように月日は流れていった。春に買い換えたばかりの白いソックスはゴムが緩くなって不格好になっていった。わたしは冬休み中の自分の怠惰のせいで、少しだけ太くなったウエストをしきりに気にしていた。休み明けの一月の末。春休みまでの短い時間が酷く億劫だった。

 「思い出を溶かしたら海になる」ならば、「未来を埋めたら花が咲く」のだと思う。
 ――それは、山路さんが言った言葉だった。

 あまりに唐突な問いだった。
 昇降口で靴を履き替えようとしたわたしは、忘れ物に気付き、人生で五番目の彼に少しだけ待っていて欲しいと謝って、慌てて教室に戻った。その日はやけに夕焼けの色が濃くて、まるで夏みたいに教室がオレンジだったことを覚えている。あわてて机の中を探そうとして、わたしは違和感に気付いた。いつもと同じ、真っ黒の髪。真っ黒の瞳。山路さんだった。
 わたしはまた、固まってしまった。窓の外を見ていた山路さんがゆっくりと振り向く。わたしはいつだって、山路さんが此方をむくまでの動作の全てを、咀嚼しなくちゃいけなかった。教室がオレンジ色。山路さんは黒。わたしは多分、何色でもない。
「篠原さん」
 名前を呼ばれる。やっぱり、覚えているのだと思った。山路さんはどうしてわたしの名前なんかを覚えているのだろう。ウオちゃんはわたしと山路さんが似ていると言った。はっきりと、否定できる。そんなことは絶対にない。わたしは、わたしはこんなに、"うつくしくない"。
 無様なわたしは、掠れた声で、当たり障りのない挨拶をする。「忘れ物をしちゃって」なんて、言い訳めいた言葉を吐く。
 「そうなんだ」と山路さんが微笑む。そして、唐突に、あまりに唐突にこういった。
「ねえ、篠原さん。思い出を溶かしたら、何になるとおもう?」
 「思い出」とわたしはまた無様に繰り返した。「思い出」。反芻すると、「そう、思い出」と山路さんが繰り返した。
「……海になる」
 わたしは答えた。ほとんど直感だった。思い出を溶かしたら。それは海になるだろう。わたしは言葉にしてすぐ、後悔した。あまりに突飛な答えだとしたらどうしよう。ふざけていると思われても仕方ない。もう少し考えさせて欲しいと言おうとした瞬間、山路さんが「そうね」と納得したように"笑った"。
「わたしも、そう思う。思い出は、溶かしたら海になる。そして――」
 "思い出を溶かしたら海になるならば、骨を埋めたら花が咲くのだと思う"。
 山路さんがわたしに問いかけをしたのは、それが最初で最後だった。

 山路さんは、春休み中、まだ春がやってきていない冬に、冷たい海で死んだ。理由は分からない。事故だというひともいたし、自殺だという人もいた。あとから、山路さんの妹――ウオちゃんが病気だったということと、彼女が死んでしまったと言うことを知った。元々長い命じゃなかったらしい。長いってなんだろう。短いってなんなんだと思った。命には長さがある。それはただしいかもしれない。けれどわたしは、ウオちゃんたちより生きているんだろうか。長く。生きてるんだろうか。そう思った。
 わたしは山路さんのお葬式に参加した。山路さんの瞳はもう見えなくて、それなのに、わたしは今までよりもずっと苦しかった。わたしは、山路さんのお母さんだというひとから、あの日の金魚をもらった。ウオちゃんがずっと育てていたらしい。わたしは受け取れないと答えたのだけれど、山路さんのお母さんは、この金魚が死ぬところを見たくないのだといった。わたしはそれもそうだと思って、家に持ち帰った。めぐりめぐってわたしのところに金魚は帰ってきた。へんなの、と思った。水の入った水槽は酷く重かった。もう何番目かわすれてしまった彼に手伝ってもらって、家に運んだ。彼は少しだけ金魚を気味悪がったけれど、そんなことはしょうがないことだった。わたしは彼と、近いうちに別れるんだろうな、とうっすら思う。
 濁ってしまった水槽の水を見つめる。使っていない倉庫から新品同然のバケツを引っ張り出して、水をためた。しばらく置いておいたら、水を換えてあげよう。そう思いながら、あの日よりも太った金魚を見る。金魚はじっと水底で何かに堪えるみたいに呼吸をしていた。じっと見つめていると、目が痛くなって、なんだか水のような物が、ひっきりなしにこぼれ落ちてくる。どうしたんだろう。水槽に触れながら、呟いてみる。いったい、どうしちゃったんだろうね。
 わたしは山路さんが苦手だった。山路さんが怖かった。山路さんのすべてが嫌だった。たまらなく、たまらなく、怖かったのだ。
 金魚は淡水魚だから、海に行けなかったのだろう。山路さんとウオちゃんは、海へ行った。わたしは淡水魚だから、海には行けない。けれど、思い出だけは、あの場所に溶かせるだろうか。この瞳から落ちる雫は、多分山路さんとのすべてだ。わたしの瞳に映った思い出。そのすべて。
 ねえ山路さん。わたしは花になれるだろうか。あなたと出会ってからわたしは、憎むものが増えていくばかりだよ。


 神さまになれると信じていたあの時は過ぎ去って、わたしに残されたのはただひとつの死だけだと気がついた。いや、本当はもっと以前から、そんなことはよく知っていたのかも知れない。神さまになれるなんて最初から信じてなかったのかもしれない。わたしはいつだって世界というとても大きなものの中でゆられるように生きていて、なんだかそれだけなような気がしている。
 眠っていれば王子さまがキスをしてくれるおとぎ話を信じていたわけじゃなかった。けれども愛してはいた。大きな矛盾。そう、わたしは大きな矛盾の中でいつだってゆられるように生きていて、なんだかそれだけのような気がしている。繰り返し聞こえる日常の音を、運命だって確信していたかった。わたしの唇がバラ色だったらどんなに良かっただろう。わたしの瞳からこぼれ落ちるすべてが、ゲルダの流すそれのように温かくうつくしかったら、もっときよらかな雪を抱いて生きていられたかも知れない。すべては過去へ飛んでいった。わたしは今を生きている。置き去りになったのは、あの冬に置き去りになったのは、冷たい海で死んだ山路さんだけ。
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対向車線上のあの子