あたしが金魚だと自覚したのは、透明なガラス越しに見た景色がたしかにくすんでいると気付いた日から。口からこぼれる空気が気泡となって、静かな水面に浮かび上がる、その瞬間を当たり前だと思えなくなった日からだった。
 思えば、あたしにとって生きると言うことは泳ぐと言うことと等しかった。あたしは、あの黄色く染められた水の中で一番泳ぐのが上手くて、一番呼吸するのが上手で、多分一番たくましかった。どおんどおんと何に喩えて良いんだか分からない大きい音の中で、あたしはたくさんの人間に追われた。あたしを掬おうとするいろんなひとたちの手をくぐり抜けて、あたしは誰より自由に泳いでいた。手加減なんてする必要がなかった。だってあたしは、自分の命が長くないのをよく知っていたから。あたしは、あたしのことを狙う人間の子らよりもずっと短い今を生きている。生まれ落ちたときからよく知っていることだった。別にあたしは自分の命を悲観していなかった。あたしを育ててくれたおじさまは優しい人だったし、あたしたちを売ることに誇りをもってるひとだった。あたしたちは売り物として作られた、うつくしい生き物。あたしは、あたしをうつくしく育ててくれたおじさまのことが好きだったし、あたしと一緒に生まれ落ちたみんなのことも大好きだった。
 あたしはあたしが長くないことを知っていたけれど、長く生きようとは思っていた。この水の中を一日泳ぎきって、それで死ぬんだったら悪くない。万が一誰かの手に渡ったとしても、狭い瓶の中だって、広い広い水槽の中だって、道ばたの水たまりでもちゃんと生きよう。あたしはそう思いながら、くるくると水槽を泳いでいた。
 長方形の白い水槽……ううん、水槽って言葉はふさわしくないかもしれない。どちらかというと、大きくしたプラスチックの植木鉢だ。水っていう土の中で、あたしたちは根をはるみたいに無茶苦茶に泳いでいた。ときどき身体を解放して、今なら掬ってもいいよ、みたいな仕草をして、人間の子らに意地悪してみたりした。水の中に、ポイっていう間抜けな名前の和紙が貼られたまあるい枠がばちゃばちゃ入ってきては、破れていった。たまに和紙に連れられて誰かの元へいってしまう仲間もいたけれど、あたしは平気だった。破れて窓みたいになったポイをくぐって得意げに尾びれを動かすくらいの余裕があった。水底で、ずうっと動かなくなった友達もいた。けれど、悲しんでいる暇はなかった。そもそも、可哀想だなんて思わなかった。だってあたしたちにとって、泳ぐと言うことは生きると言うことと等しいのだもの。水底で夢をみているあの子は、きっと夢の中でも泳いでる。だから、死なんかじゃないんだ、あれは。死なんか簡単な物じゃない。あたしはそう思った。多分、あれが永遠なんだって、そう思う。
 そうやって、誰よりも速く、夢の中のみんなよりもきれいに泳いでいるあたしは、くるりと回転している途中で、何かに持ち上げられて、すぐにまた水の中に落ちた。あたしは、あまりにも突然のことに目を丸くして、動くのをやめた。見えていた景色が、いつの間にかがらりと変わっていることに気付いた。あたしが入れられた小さな桶はおじさまの手に渡って、水の入った透明のビニールに入れられた。あたしは桶の中に入っていた少量の水と一緒に転がりながらビニールに入ると、ぼやけた景色にため息をつく。あたしのことを捕まえた男の子は、なんだかぱっとしない顔をしていた。けれど、目元が優しそうで、ちょっとだけ好感が持てた。何より、このあたしを捕まえたんだ。きっと、何か特別な男の子に違いないと思った。あたしは彼が用意してくれる水槽が、できる限りきれいな水で満たされてることを神さまにお願いした。
「……はい、これ」
 そうやってあたしが、捕まってしまった寂しさと、これから始まる未来へ淡い期待をしていると、驚く事が起こった。彼はあたしの入ったビニール袋を、隣に立って居た女の子に渡したのだ。女の子は、とっても大きな目をしていて、あたしは更にびっくりしてしまった。こんなに可愛らしい子にあったのは初めてだった。もしかしたら、あたしよりも可愛いかも知れない。あたしは彼女の長い睫とか、切りそろえられた前髪とか、少しだけ茶色に透ける髪の毛なんかをじっくり見た。彼女は柔らかい微笑みで彼にお礼を言っていたけれど、その表情はとっても憂鬱そうで、同情を誘った。あたしはひと目で、人混みや、彼の生ぬるい言葉や、このお祭りを縁取っているすべてに、彼女が心底うんざりしていることに気付いてしまった。あたしはついてない、と嘆息した。この子の手に届いて、自分がそんなに可愛くないことや、退屈そうな瞳を知ってしまうくらいなら、みんなと一緒に泳ぐ夢を見ていたほうがよかったとまで思った。
 すっかりふてくされたあたしは、透明な水の中をくるくる回ったり、隅の方で金魚の形をした置物になる"ごっこ"をして、彼女の周りを渦巻く冬みたいな気分の沈殿に抗った。ああ、彼女が地面にあたしを落としてくれたら、すぐに地面に水たまりを作って、そこで束の間のダンスを楽しむのに。憂鬱そうな子の近くにいると、自分まで陰惨な気持ちになってしまって嫌だなあ。
 気がつくと、あたしの視界は肌色に覆われていて、びっくりしてしまった。あんまりあたしのことを脅かさないで欲しい。予定よりも随分早く死んじゃった、とひれを動かして見たけれど、ただ単に、彼女が足の上に水袋を置いているだけだったことに気がついて笑ってしまった。彼女はとうとう彼のところを去ってしまったみたいだった。彼女にそれくらいの人間性――金魚のあたしが"人間性"なんて口にするのはおかしなことだけど――を持っているのが嬉しかった。だって、可愛いあたしのご主人がお人形さんみたいな女の子だったら、それはたいそうつまらないことだもの。
 彼女は自分の中の暗い気持ちを必死に追い出そうともがいているみたいだった。あたしは少しだけ彼女に同情した。彼女は不器用なのかもしれなかった。あたしは、人間って何だか大変そうだなって思う。もう全部投げ出して、彼女が好きな空気を吸って、好きな物を食べて、そうすれば簡単に嫌な気持ちなんて飛んでいくだろうに。彼女はそれができないみたいだった。まあ、金魚にカワイソがられたくなんかないかもしれないけど。
 あたしはあたしの可愛さが彼女をちょっとでも喜ばせられたらな、と思って、泳いでみた。ステップを踏むのが上手いって、よく仲間に褒められたことを思い返しながら、思うままにまわってみる。すると、俯いてぼうっとしていた彼女が、つんつんと少しだけ水袋をつついた。あたしは、彼女の爪に透明越しにキスしてあげた。特別大サービス。感謝して欲しい。微笑みかけたら、彼女もちょっとだけ笑いかけてくれた気がした。
 それからしばらくしてだった。"あの子"が現れたのは。
 黒い髪の毛に黒い瞳。白い肌。なんだか完璧すぎるその子は、静かに現れた。傍らに、小さな女の子を連れて。彼女を見てから、憂鬱そうだったあの子は、まるで息を吹き返したみたいに目を輝かせていた。頬を赤らめて、運命の王子さまにでもあったのかしらって顔で。あたしは驚いた。彼女の瞳の奥に燦めく輝きの正体を知りたかった。あたしはあのプラスチックの植木鉢で一番頭が良い金魚だと自覚していたし、人間の子らよりもずっとたしかなことを知っている気でいた。そう、それこそ、憂鬱を形にしたような可愛い少女よりも、ずっと聡明だって思ってた。でも、あたしは知らなかった。彼女の瞳に潜むその感情の正体が分からなかった。彼女は酷く怖がりながら、けれども完璧なあの子を見ずにはいられない、そんな葛藤の中を彷徨ってるみたいだった。どうして高揚しながらも、可哀想なくらい怖がってるんだろうとあたしは思った。怖いものがないあたしに、彼女の気持ちは分からなかった。
 あたしは自分に知らないことがあったというショックで、呆然としていた。あたしの周りで、いろんな言葉が行き交っていたけれど、ちっとも身体の中に入ってこなかった。そうこうしているうちに、あたしは彼女の手を離れ、酷く小さな女の子の手に渡っていて、あたしはもう心底疲れてしまった。生きるってこんなに疲れることなのね。あたしはずっと生まれたときからあたしのもので、これからもそう。それは分かってる。でも、あたしが物みたいに扱われていることは事実だった。掬い上げた彼から少女に与えられて、その次は小さな女の子へ。ふと、悲しくなってくる。悲しいなんて、雨の日にしか感じたことがなかったのに。心の中に雨が降ってくる。土砂降りじゃなくて、細かい雨。それがまたいやだった。土砂降りだったら、からりと晴れてくれるのに。こんなに細かい雨なら、きっと長く続いちゃう。本当に、疲れちゃった。あたしはもうこの水袋で眠ることに決めて、たまにあたしが生きているのを確認するために、女の子がばしゃばしゃと水袋を振るのも無視した。眠りが浅いのには慣れている。あたしは、生まれてこの方"深い眠り"というものを味わったことがない。だから、全然平気だった。

 あたしはどんなに酷い環境で泳ぎ続けるか、浅い夢の中で考えていたのだけれど、あたしが思っていたよりも、あたしの生きる水槽は悪くなかった。女の子は、あたしひとりが泳ぐには広すぎるくらいの水槽を用意してくれたし、女の子の傍らでいつも静かにあたしを見ている美しい少女は、あたしの肌に合うお水を注いでくれた。あたしはいつも清潔な水で泳いでいられたし、緑色の水草は好ましい匂いだった。ただ、水をきれいにしてくれるからってあたしのために連れてきてくれたタニシたちは、増えすぎなくらい水槽に張り付いて、我が物顔であたしを見てくるからあんまり好きじゃなかった。あたしは水槽が掃除されるたび、彼らがちょっとでも減ってくれることを願っていた。多分水道に流されちゃっても、あの傲慢さならたくましく生きていけると思う。
 こんなふうに、あたしは不自由なく泳ぐ場所を得られたわけだけれど、それはそれで退屈だった。あたしはそう言えば今までに本当にひとりになったことはなかったことに気がついた。あたしの周りには、いつもあたしと同じ仲間たちがいて、噂話や、作り話をして遊んでいた。あたしたちは毎日飽きることなく話して、泳ぐ競争をしたり、誰が一番遅くまで起きていられるか、我慢比べをしていた。あたしはひとりの時間の消費の仕方を知らなかった。
 広い水槽の中で、それよりも広いこのお城みたいな家で、密やかな声や食器の音、誰かが歩く音に耳を澄まして、それに合わせて踊るのも悪くなかったけれど、良くも無かった。あたしは生きたまま、透明な水の中で標本のように自分の輪郭が掠れていかないことだけを願って、たまにタニシの子どもをつついて脅したりした。

 ある日、あたしは水槽の水を換えてもらっていた。あたしは、少女がこのたまらなく重いだろう水槽をその細腕で持ち上げているときが一番怖ろしくてたまらなかった。彼女がこの水槽を落としたら、あたしは大量の水と一緒に床に飛び散って、分厚いガラスに傷ついて、血だらけになって死んじゃうと思う。それは別にいいのだけど(いや、できれば避けたいけれど)、ばらばらになったガラスで彼女が傷ついたり、水槽の生臭いだろう水でびしょびしょになる姿を見るのはごめんだった。あたしは人間の子が傷ついたり、びしょびしょになってるのを見るのが何より嫌いだった。一度、小さい女の子が怪我をして帰ってきたことがある。あたしは玄関で泣いている彼女の、赤く赤く染まった膝を見て悲鳴をあげたくなった。あたしがあの赤色と同じ色をしているということを認めたくなかった。赤ってなんて怖い色なんだろう! あたしは、狂気ってものが色を持っていたとしたら、それは間違いなく赤だと思った。それから、少女が傘を忘れて出かけて、上から下まで雨に濡れて帰ってきたときも、同じくらい嫌な気持ちになった。濡れると人間の子はたまらなくみじめっぽくなる。濡れたくらいで彼女の完璧さは損なわれなかったし、むしろうつくしくなったようにさえ見えたけれど、それでもみじめさは避けられなかった。びしょぬれになった少女は、世界で一番可哀想にみえたし、あたしは自分の心がこんなふうにみしみし痛んだことは初めてだったから、身体に這う骨を自覚してしまったみたいで気味が悪かった。
 あたしは彼女が庭の近くにある水道へ向かうまでの道のりを、彼女以上に緊張しながら、水の中で待っている。ようやく芝生を踏みつぶして水槽が地面におかれると、息を吐く。吐いてから、ずっと呼吸を我慢していたことに気付く。何度目か分からない行為だったけれど、今日もやっぱり初めてだというような雰囲気で呼吸を再会した。
 彼女が無言であたしをちいさな桶に入れる。あたしはその小さな桶で、庭を眺めながら、彼女が水を換え終わるのを待つ。この家に来てから幾度となく繰り返されてきたことだった。けれどその日、予想外なことが起こった。
 彼女が、彼女の母親に呼び止められて、水を換えている途中でその場を去った。その隙に、一匹の猫があたしのところを訪れたのだ。あたしはあたしを育ててくれたおじさまが、猫にはものすごく警戒していたことを思い出した。彼の口から聞く猫はずる賢く、残酷で、非道だった。あたしはそっと猫を観察した。もし猫があたしを捕まえようと爪を振り下ろしたら、一目散に逃げてやろうと身構えていた。けれども予想に反して、彼は気さくに話しかけてきた。
「やあ、お嬢さん。話すのは初めてだね」
 まるであたしのことをよく知っている、みたいな口調だった。
「そんなに警戒しないでくれよ。何も、取って食おうとしているわけじゃあない。そんなやばんな輩と、私を一緒にして欲しくはないね」
 猫はそういうと、あたしの近くに座って、微笑みかけてくる。
「お嬢さんのことは、よく知ってるよ。おひめさんたちが君を連れてきた日からね」
「……あなたは?」
「私はこの庭の庭師に飼われている猫さ。君に良いことを教えてあげようと思って」
 あたしは"良いこと"という響きに思わず飛びついてしまいそうになる。なんにせよ、日々に飽き飽きしていたものだから、そういった"イレギュラー"に弱いのだ。あたしは「良いことって?」と聞いてしまいそうになるのをぐっとこらえて、桶の中を泳ぎ、彼の目があたしを追わないことを確認していた。
「おやおや、用心深いお嬢さんだね」
「そりゃそうよ。突然話しかけられて、"良いことを教える"なんていわれても、信用できっこないわ」
 あたしは気のない返事をするふりをして、彼が腹を立てて本性を見せないかじっと様子を窺った。彼は困った顔をするだけで、特に何もせずあたしがどうしたら自分の言葉を信じるか模索しているようだった。
「本当に、私は君に教えてあげたいだけなんだ。君は赤色の金魚が不思議な魔法を使えることを知らないだろう?」
「不思議な魔法……?」
 あたしは急に現実味のないことを猫が話し出すものだから、思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。すぐに恥ずかしくなって、水底に沈んだけれど、彼は全く気にしていないようだった。「そう、不思議な魔法だ」と繰り返すだけだった。
「夜中のあいだだけは、君は人間の子になることができるんだよ」
 あたしは「まさか」と笑った。そんなことがあるわけがない。生まれたときから金魚は金魚、猫は猫、人間は人間と決まっている。
「それがね、赤色の金魚にはできるんだ」
 猫は必死にあたしに訴えてきたけれど、あたしは、あたしがあんまりに退屈している物だから、作り話を聞かせてくれたのだと思うことにした。だって信じるにはあまりに現実離れしているのだもの。
「おじさん、面白いお話を教えてくれてありがとう。あたし、こんなに面白い作り話、久しぶりに聞いたわ」
 あたしはそういうと、彼にさようならの意味をこめてひれで数回水を撫でた。猫はしきりに同じ話を繰り返したけれど、あたしが一向に態度を変えないのを見て、あきらめると「夜中に三回大きく円を描くように泳いで、思い切り水面へジャンプしてみなさい」とだけいって去って行った。あたしは彼のもふもふとした背中が見えなくなるまで、水をなで続けた。

 それから何回目の夜だっただろう。あたしはなんだかたまらなく泣き出したい気分になって、途方に暮れた。理由のない悲しみって一番苦痛。タニシたちはみな眠っていたし、家の中は静まりかえっていた。あたしが縋れるのは小さな小窓から見える、頼りなく欠けた月だけ。夜は悲しい気持ちになるから大嫌い。早く眠ってしまおうと水槽の隅でじっとしていたけれど、睡魔はちっともあたしに会いに来てくれなかった。
 あたしはふと、あの猫のおじさんが話していたことを思い出した。三回大きく円を描くように泳いで、思い切り水面へジャンプ。なんだかとっても間抜けだと思ったけど、暇つぶしには良いかもしれないと思って、あたしはくるくると回り始めた。くるくると回って、水面に向かって飛んでみる。すると、意識がふっと浮き上がるような、そんな感覚がした。
 馬鹿みたいな話をするけれど、これは本当の話だから、猫のおじさんにあたしが取ったような態度はとらないでほしい。あたしは、本当に人間になったらしかった。あたしは自分のすらりと伸びた手足や、その白さに驚いた。あたしはあの庭の水道の前で尻餅をついていた。あたしは、初めて水を通してじゃない世界を見た。世界は思っていたよりもずっと広くて、広くて、あたしはあたしがとっても小さかったことに気付いた。
「やっぱり、できただろう?」
 そのとき、あの猫のおじさんがあたしのところにやって来た。あたしはありとあらゆる質問を彼にしようとしたのだけれど、あたしの口から言葉が生まれることはなかった。
「喋ることはできないよ、金魚のお嬢さん。それが魔法の代償なのさ。けれど、喋ることができなくったって、水槽の外に出られるのだから、収穫は大きいだろうよ」
 猫はそういうと、「必ず夜が明ける前に帰ってくるんだよ。そうじゃなきゃ大変なことになるから」とだけいっていなくなってしまった。あたしは突然手に入った自由を持てあましていた。だってあたしはこの庭とお屋敷の他には何も知らなかったし、見たこともなかった。あたしはこれからどうしたらいいか迷いながら、屋敷の外へ向かっていった。そうするほか、あたしには残されていなかった。
 しばらく歩いて行くと、海についた。だだっぴろい海。屋敷はどうやら小高い丘にあったみたいだった。海から屋敷はそう遠くなかったけれど、帰る時はくたびれそうだと思った。あたしは、同じ水でも海水と淡水がここまで違うんだってことに恐怖を感じた。あたしは人間のこの姿よりも、ひれのあるあの赤い身体のほうを愛していたけれど、海に触れてみると、そればかりではなかった。海水は気持ち悪くて、でも触れないではいられないような不思議な魅力があった。寄せては返す波の音は、あたしを遠くまで連れて行ってくれる気がした。あたしは、自分があの水槽に住むようになってから、どんどんつまらなくなっていっているような気がした。あの花火の日。あのお祭りの日。もしあの憂鬱そうな女の子に連れられていたら、あたしはどこで、どうやって生きてたんだろう。あたしは別に不幸ぶりたいわけじゃない。あたしは全然不幸じゃないし、酷い扱いを受けているわけじゃない。多分、あの黄色い水で、掬われる瞬間から踊りながら逃げ続けていたときよりも、きっと良い環境で呼吸している。でも、ダメだった。あたしは、どんどんあの時のあたしを亡くしていた。標本になっちゃうんじゃないかって危惧していた頃を思い返す。あの頃のあたしに、メッセージを送ってみる。あのね、標本なんてきれいなものじゃないって。あたしは、空気になるんだって。あたしでもなくなり、誰かでもなくなって、もう、何も無いみたいな透明な存在になってしまう。それは一番恐れていることだった。
 あたしは砂場にねそべって、細かい砂の感覚を味わっていた。寒かった。海は寒い。あたしは、そんな感覚さえも新鮮で、少しずつ気分が高揚してくるのを感じていた。あたしは少しずつあたしに戻り始めていた。あたしという原形を、さぐっていた。笑いたくなった。心から微笑んでみたくなった。仲間達と一緒に、おしゃべりをした夜みたいに。だけど、あたしの喉はくっと鳴るだけで、後はもう何にも動かなかった。
「ねえ」
 驚いて、身を起こす。足先に波がひっかかって、音を立てた。目の前に、いつの間にか男の子が立って居た。真っ黒い髪の毛に、真っ黒い瞳。お屋敷にすんでる、少女を彷彿とさせた。まるで彼女の双子の弟みたいだった。あたしは思わずたじろいで、逃げ出してしまいたくなる。怖いなんて、初めての気持ちだった。あたしの正体を彼が言い当てられるはずなんてないけど、それでも怖かった。人間の姿をした金魚なんて、多分化け物だ。あたしは、今あたしが人間の姿をしていると言うこと以外、あたしの姿について何も知らなかった。こんなことなら、顔のひとつでも見ておけば良かった――後悔しながら、彼と正しい距離を保っていた。
「こんな夜更けに、めずらしいね。君、このへんの子なの?」
 あたしの警戒に反して、彼はとても穏やかに話し始めた。あたしは、なんと答えて良いのか分からなくて、困った顔をするしかなかった。いや、なんて答えて良いのかはわかっていたのだけれど、伝える手段をもっていなかった。あたしは饒舌に喋ることができたけれど、字がかけなかったから、砂に文字を記すこともできない。
「そんな悲しそうな顔をしないで。……答えにくいことなら、いわなくてもいいよ」
 彼はそういって、「隣に座ってもいい?」とあたしに問いかけた。あたしは頷いた。はい、かいいえ、ですむ質問は良い。彼はあたしの隣に腰掛けると、あたしに柔らかく微笑みかけて、それきり何も言わなかった。あたしは彼が何かを話してくれるのを期待していたけれど、何かを彼が話してくれても、あたしは相づちを打つほかないということが分かっていたから、黙ってくれていた方が楽なのかも知れないとも思った。あたしたちはしばらく黙って海を見ていた。
 そうこうしているうちに空がだんだん色を変え始めて、あたしは驚いた。もう、朝が来てしまう。あの猫のおじさんが、朝には屋敷に戻らないといけないといっていた。あたしは急いで立ち上がると、丘の上に走ろうとした。すると、彼があたしの手を控えめに掴む。
「また会える?」
 彼の問いかけに、あたしは思わずYES――と答える代わりに頷いてしまった。なんでそんなふうに返事をしたのかは分からない。でも、あたしは彼のことを気に入っていた。一緒に過ごしている少女や女の子に似ていたからかも知れないし、或いは彼の生み出す沈黙が単に苦しくなかったからかも知れない。単純に、はじめて言葉をかけてくれた人間の子だからかもしれない。とにかく、あたしは明日の約束を交わしてしまった。明日かどうかは分からないけど、多分明日だ。
 あたしは一目散に丘の上に走りながら、自分の心が躍っていることに気付いた。この気持ちは何なんだろう。あたしは少しずつ変わり始めていた。あたしの輪郭を、たしかに抱きしめながら。

 その日から、あたしと彼は夜になると海で待ち合わせをして、沈黙を共有したり、言葉を交わしたりした。交わす、といっても、あたしは頷くことしかできなかったけれど、彼はあたしの表情から多くの物を受け取ってくれた。あたしは彼の話を聞いて、喜んだり、泣いたり、怒ったり、忙しかった。彼はそんな私を歓迎してくれた。彼とあたしはとっても仲良しだったし、深く分かり合っていたように思う。
 彼は身体が弱くて、日中は外を出歩けないらしい。あたしは、彼の境遇に自分を重ねた。あたしはきわめて健康だったけど、日中はあの水槽のほか、どこにも行けない。多分、それが魚として生まれたあたしの定めだろうし、あたしは泳ぐことも、金魚であるあたしも大好きだったけど、不自由さを感じていた。あたしは広い世界を見たかったし、いろんなものに出会いたかった。あたしの欲求を満たすには、あの直方体のハコは小さすぎる。
 あたしは毎日彼の身体が良くなるように願ったし、反対に、彼が夜にしか出歩けませんようにと願った。あたしは自分の劣悪さにうんざりした。あたしは彼が自由を手に入れるのを願う一方で、あたし以外のものに出会わないように願っていた。あたしには彼しかいなかったから。けれど、なんて劣悪な願いなんだろう。あたしは、神さまが何で魔法という不思議な力をあたしに与えてくれたか分かった気がした。多分、あたしがとっても強欲だったからだ。お屋敷に住んでる小さなあの子が、童話を読んでいたことがある。そこに出て来る魔女はみんな強欲で、劣悪で、たまらなく邪悪だった。そして最後には殺されてしまう。ねえ、なんで魔女はいつもやつけられちゃうの? ――そう質問した女の子に、「因果応報なのよ」って、少女がいってた気がする。なんだかちょっと可哀想だねって女の子は言ってたけど、あたしは少しもそう思えなかった。全然可哀想なんかじゃないし、当たり前だ。魔法なんてずるだもの。魔法なんてずるを使って、それを悪いことに使うんだもの。殺されて当然だ。あたしはそう思った。強欲で、狡猾な魔女には相応しい最後だ。
 あたしはこのまま魔法を使い続けたら、もしかしたらあの魔女みたいに殺されちゃうのかも知れないって思った。でも、別にそれで良いと思う。あたしは一日でも多く彼に会えたらそれで良い。他には別に、何も求めない。あたしは最後まで踊り続ける。
「ねえ」
 彼があたしに呼びかける。優しい瞳を、あたしに向ける。あたしを、見てくれる。あたしは「なあに」と返事をする代わりに、かれに微笑みかける。世界で一番可愛い笑顔を向ける。彼があたしを見て、微笑み返してくれる。
 あたしはこれ以外、何も要らない。

 あたしは、桶の中を泳いでいた。いつもの水替えの時間だ。その日は天候があまりよくなくて、あたしは雨が降りませんようにと願っていた。あの子が風邪を引いたら大変だ。
 すると、猫のおじさんがあたしの元へ寄ってきた。彼はなんだか疲れている様子だった。まるで悪い病気にでもかかってしまったみたい。あたしは心配になって「どうしたの?」と問いかけた。
「最近少しばかり疲れやすくてね」
 彼はそう言うと、ぐったりしたようにあたしのそばで伏せた。あたしは早く温かいところで眠った方が良いと促したけれど、彼は動かなかった。
「君に伝え忘れたことがあって、話しに来たんだよ」
 そう言って、彼は「人間の男の子とは深く関わっちゃいけない」と急に切り出した。あたしは即座に「どうして?」と聞いた。彼はしばらく悩んだ末、重々しく答える。
「君の姿には魔法が掛かっているといっただろう」
「ええ」
「夜明けになると、その魔法が解ける。だが、他にも魔法を解いてしまう方法があるんだよ」
「……どういうこと?」
「童話でもあるだろう。魔法が解ける場面が。それは、何も"悪い魔法"にだけきくものじゃない」
 あたしはさっと顔を赤らめた。あたしはその方法をよく知っていた。
「だから、ほどほどにするんだよ。赤いお嬢さん。折角手に入れた自由を、手放すことにならないように……」
 猫のおじさんはそういうと、姿を消した。あたしは、なんだかもうおじさんには会えない気がして、引き留めたけれど、おじさんはもう行ってしまった後だった。

 その日、あたしは暗い気持ちで彼の元へ向かった。雨は降らなかったけれど、あたしの心には再び細かい雨が降っていた。別に、彼とロマンスを思い描いていたわけじゃない。あたしは金魚で、彼は人間。それは変えられない事実だ。あたしはたまたま魔法が使えて、たまたま彼と出会っただけ。それだけだ。あたしは、彼が他の女の子と仲良くするところを想像してみた。細かい雨は勢いを増すいっぽうだ。
 彼はいつも通り海辺に居た。彼はいつも通りあたしに微笑みかけてくれる。けれど、あたしは上手く笑い返すことができなかった。
「いったいどうしたの。君らしくない顔だよ」
 彼はすぐにあたしの異変に気付いて、背中をさすってくれた。あたしは、いつもは心地良く感じる彼の手を拒んでしまった。彼は一瞬だけ悲しそうな顔をして、あたしの隣に座った。あたしはわんわんと声を上げて泣いてしまいたかったのだけれど、できなかった。あたしはどこにいっても不自由なんだろうか。本当に、嫌になってしまう。
 彼はあたしの悲しみが去るように必死に寄り添ってくれた。あたしはそれが余計に悲しくて、うつむいてしまう。しばらく沈黙があたしたちの間に寝そべった。あたしは今日はもう帰ってしまおうと思った。これ以上、醜い顔を彼に見せるわけにはいかなかった。あたしはごめんねと言葉にする代わりに、傍らに落ちていたうつくしい貝殻を彼に渡した。きれいなきれいな貝殻だった。彼ははっとしたようにあたしを見た。あたしは、その場を走って去ろうとした。――その時だった。彼があたしのことを強く、強く抱きしめた! あたしは、その時、自分の瞳から涙がこぼれおちるのがわかった。あたしは、あたしの心の中に巣くっていた全ての悲しみが去ったのを感じた。あたしは、その時初めて、あの憂鬱そうな女の子の内側に居た感情を知った。怖くて、けれども触れずには居られない感情。――恋。
 あたしは、彼に話してしまいたかった。あたしが感じているありとあらゆる感情の全てを。あたしが抱いているすべての愛を。彼への気持ちを。けれども、それは無理だった。あたしは自分の口が、ぱくぱくとしか動かないことを憎んだ。それこそ金魚みたいに、ただぱくぱくと口を動かすだけ。両の腕に力を込めることさえ満足にできない。あたしはなんて無力なんだろう!
「君のことが好きなんだ」
 彼がそういった。あたしは、あたしもだと答えたかった。せめてその言葉に頷きたかった。深く深く頷いて、あたしのすべてを彼にあげたかった。――けれど。
 ずるり、と彼の身体から力が抜けた。あたしはなんとか彼を支えようとしたけれど、無理だった。彼は青い顔をして浜辺に倒れた。あたしは驚いて、彼を揺り動かす。けれど、彼の顔はどんどん青くなっていくばかりだった。
 罰が当たったんだ、と思った。強欲な魔女は最後に必ず死ぬと決まっている。もし死ななくても、とても酷い目に遭うと決まっている。神さまは、強欲なあたしに怒ったのだ。彼の愛を手にし、自由を手にし、全てを手に入れたあたしに罰を与えた。あたしのせいだ。全部、全部あたしのせいだ!
 あたしは自分の強欲さを呪った。猫のおじさんの言いつけを守って、もうこれ以上彼に会わなければ良かったのだ。そうすれば、彼はこんな目に遭わなかった。あたしが会いたいと願ったせいで、彼は死んでしまうかも知れない。そう思うと、涙が止まらなかった。あたしは一番大好きな人を、あたしの魔法で殺してしまう。
 あたしは懺悔した。神さま。どうかお許し下さい――もう、あたしは自由なんていらない。自由なんて欲しくない。もう願ったりしない。だから、どうか彼を助けて下さい。
 あたしは再び猫のおじさんの言葉を思い出す。魔法を解くもう一つの方法。彼は、あたしの魔法で死んでしまう。――それなら。
 彼にそっと口付ける。あたしは、もう何も願わない。欲しい物は全て手に入った。だからもう、悲しくなんてない。
 あたしは意識が遠のいていくのを感じる。それに比例するように、彼の顔に生気が戻るのが見えた。よかった、と呟く。どうか、この優しい人が救われますように。あたしは悪い魔女だけど、悪い魔女に騙された善人は、いつだってしあわせになるのだから。

 目が覚めたとき、一番に見えたのは馴染みの水草だったことを、よく覚えている。
 タニシたちは今日も水槽のはしっこに集まって、かちかちと殻を鳴らしている。他にすることがないのかな、と思いながら、水面に上がっていく気泡を眺める。あの夜のあと、あたしはいつもの"あたし"に戻っていた。屋敷に帰ってきた記憶は無い。いったい、あれから何があったんだろう。ただひとつ確かなのは、あの日を境にあたしが魔法を使えなくなったことだ。あたしはあの日を境に、ただの赤い金魚になった。後悔はしていない。――けど。水槽の分厚いガラスに触れてみる。彼がどうなったのかだけ、気になっていた。元気になっただろうか。彼の病気が良くなっているといい。
 あの日を境に、屋敷にはいろんなことが起こった。あの小さな女の子が病気で死んでしまって、完璧な少女はさらに人間らしさを失っていった。あたしは何もできなくて、ただ泳ぐだけしかできなかった。あの子はたった一度だけ、あたしの前で泣いた。あたしに「遠くに行きたい」と言った。あたしは、心底あの子が可哀想だった。あの子の近くに、あの子を助けて上げられるひとがひとりもいないことが苦しかった。あの憂鬱そうな女の子はどうしているだろうと思った。この子の悲しみを解いてあげられるのはあなただけなのに。
 がちゃり、と音を立てて玄関の扉が開いた。そこに立っている人を見て、あたしは愕然とした。そこに立って居たのは――"彼"だった。
 屋敷の奥から、少女が出て来る。馴染みの黒髪。黒い瞳。彼を見て、いらっしゃいと微笑んだ。――そんな。あたしは、驚く。彼と彼女は、知り合いだったのか、と。
 彼は、彼女に微笑みかけた。とても、とても柔らかく。あたしはそれを見て、"既視感を覚える"。あたしは、この笑顔を"よく知っている"。
 あたしは彼女を見た。少女を見た。今まであたしの水槽の水を換えてくれた、あの子を。彼女は、変わらず微笑んでいた。"あたしと同じ笑顔で"。
「やっと見つけた。……ずっとお礼が言いたかったんだ。助けてくれて、ありがとう」
 彼が"私に話しかけるみたいに"彼女に話しかける。まるで昔からそうしていたみたいに、手を握る。彼女が、まるであたしみたいに、彼を抱きしめる。全てに嘘なんてなくて、そう、あたしが入り込める隙間なんて少しもない。
 あたしは思い出す。悪い魔女は最後、酷い目に遭う。死ななくても、もっと酷い目に遭う。死んだ方がましだってくらい、酷い目に。
 ふたりが手を繋いで家を出て行く。少女が求めた「遠く」に。多分もう、二度と帰ってこない。あたしは自由を失って、あたしは彼を失った。全てを失ったあたしは、水槽の中。もう海水には届かない。
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きんぎょひめ