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Jewel specimen room
放課後の図書室は海に似ている。窓の少ないこの部屋はうす暗く、外から差すオレンジの光がやけに色濃く見える。私にとって片手に何冊か本を抱えて、パズルをはめるように丁寧に元あった棚へ戻していく作業は、儀式にも似た神聖さがあった。913、835、726……背表紙に書かれた数字を元に、正しい場所を探すのが好きだった。この時だけは、自由で居られる。水の中のように静かなこの場所で、私は誰の視線に犯されることなく、自由に泳いでいられる。煩わしい教室の細かいしきたりなんて、一切関係なかった。此処に居る間、私は図書委員であり、夢見菖蒲ではない。あの教室でぎこちない微笑みを繰り返す醜い少女ではない。切りそろえただけの黒い髪。ゆうれいのように白い肌。そのすべては、本を前にしてゼロになる。
 十七という歳を迎えてしまえば、私が何も特別では無いにんげんだということにはとっくに気付いていた。同い年の女の子は残酷。みんな同じ制服を身につけているからこそ、違いがより一掃露わになる。容姿、性格、全てにおいて、ありありと違いが出てしまう。魅力があるかないか、それはもう、はっきりと。
 私のことは、私がよく分かっている。いかに私が劣悪で、いかに私が醜悪で、いかに私が退屈な人間か、私はよく分かっている。退屈だった。日常の全てが。うんざりだった。ありとあらゆるあれこれが、私を窒息させようとする。醜い物は呼吸をすることすら許されないなんて、この世界は不平等だ――と思う一方で、私は差別されていたい。理不尽な人間なんてみんな死んでしまえば良い。けれども適度に不幸でいないと、私は謙虚さを無くし、さらに醜くなるだろう。だから、私は差別されていたい。重宝されたい。大切にされたい一方で、誰にも私の存在を知られたくない――。
 このまま沈んでしまいたい。
 深く口から空気を吸うと、前歯の先がじんと痺れる。脳みそがふやけるような、深い紙の匂い。埃の匂い。このまま沈んでしまいたい。紙とインクの匂いだけが充満するこの場所で、本棚が生み出す影に身を任せていたい。私は誰のことも傷付けないし、誰も私を傷付けない。誰の醜い場所も見ず、人は私の醜さにも気付かない。そうすれば誰のことだって愛していられるのだから。
 私はいつの間にか全てのパズルをはめ終えていた。腕時計に刻まれた時刻は六時。もう図書館を閉める時間だ。空になった返却ボックスをカウンターに運ぼうとすると、キャスターを動かした瞬間、下から透明なケースに入った円盤が現れた。
 しゃがんで手に取ってみたけれど、円盤にはなんの文字も書いていない。当然、ケースにもなにもない。パッと見たところCDのようだけれど、辺りを探しても歌詞カードらしき物は置いていなかった。私は自分のスクールバックにそっと円盤の入ったケースを忍ばせると、肩に掛けた。図書館の電気を消して、カウンターに置かれた小さな水槽に近づく。司書である吹雪先生が気まぐれに買ってきたグッピーは、くたびれたようにブルーライトに照らされた水槽をたゆたっていた。私は独特な匂いのする餌を適量彼らに提供すると、壁にかかっている鍵をとって、外に出ると、まっすぐ音楽室へ向かった。

 足取りが重い。ジムノペディが流れる廊下は無駄にノスタルジックで私を陰惨な気分にさせる。吹雪先生は私を憂鬱にさせる天才だ。好きだった本もピアノも放課後も、先生のせいで私は大嫌いになった。第二音楽室、という機械的な文字が目に入る。スライド式の重たいドアを開けると、先生がピアノを弾く手を止めて此方を振り向いた。
「吹雪先生」
「今日もいつも通りだね」
「ええ、先生と違って私は真面目なので」
 私は無愛想にそう返すと、先生は肩をすくめた。鍵盤に置いていた手を膝の上に移動させると、にこやかに「お疲れ様」と声を掛けられる。
「仕事をしてください」
「君がしてくれるから大丈夫」
「……あのグッピー、そろそろ死にますよ」
「君が生かしてくれるでしょう」
 私は先生を睨み付けたい気持ちを我慢して、鍵をグランドピアノの上に置くと踵を返す。吹雪先生は私をじっと見つめたまま、動かない。
「夢見」
 教室を出る瞬間呼び止められて、私は思わず立ち止まってしまう。「また明日」いつも通りの吹雪先生の言葉が教室の床に落ちる。私は視線を落とし、自分の少しだけ汚れた上履きを見つめる。床の上で充満した彼の声が、爪先から染みていくように思えた。
「さようなら」
 私はそう言って、今度こそ立ち止まらずに帰路につく。ジムノペディが流れる廊下は嫌いだ。けれど、ジムノペディが流れた後の廊下の方が、私を陰惨な気分にさせる。ノスタルジーが過ぎる。走り去ってしまいたい欲に、私の自尊心がブレーキを掛けていた。この廊下を駆け抜けた瞬間、私の心は硝子の様に砕け散り、破片は私の心に深く刺さったまま、永久に抜けないだろう。そんなのはごめんだった。先生になんて、一ミリだって傷付けられたくない。あんな人に傷付けられたくなんてない。私の心に傷一つつけてほしくない。そんな資格、あの人にはないのだから。
 グッピーの虹色を思う。多種多様な色を身に纏って、きらきらと身体をくゆらせる彼らを考える。私は一度、小学校の時に彼らを殺してしまったことがあった。水面に浮かんだゴミと一緒に間違えて掬い上げたのは、その水槽で一番うつくしい白銀を身に纏っていた子だった。雪のように白くて綺麗だから、ユキ、なんて安直な名前だったけれど、クラスの女子で可愛がっていた。水槽のすぐ隣の席だった私は、授業中にユキを眺めては、そのきらきらをうらやましく思っていた。
 青色の小さな網に引っかかっていたユキは乾燥して煮干しのようになっていて、まるで別の魚みたいだったことをよく覚えている。ゴミと一緒に掬い上げて、そのままバケツに置きっ放しにしていたのだ。ユキは何も知らずに掬い上げられ、呼吸ができずに窒息して死んだ。あの子の呼吸を奪ったのは、私だった。今でもたまに思う。あの時のユキの呼吸のこと。彼女の黒く濁った醜い姿のこと。みんなは事故だって言ってくれたけど、あれは立派な殺しだ。無差別殺人――いや、人じゃないから、正しくは「殺人」ではないかもしれないが。ひとりで校庭の桜の木の下を掘った。泣きながら、ひたすらに。うつくしかったユキからうつくしさを奪ったのは、私に他ならなかった。
 私にグッピーを生かすことは出来ない。
 吹雪先生なんて、死んでしまえば良い。


 父さんが持っている古びたCDプレーヤーで、図書館で見つけたディスクを再生しようとしたけれど、できなかった。他のCDは問題なく聴けたのに。私は半ばがっかりしたきもちで円盤をケースに戻した。一体このディスクは誰の物なのだろう。見た目からして、何か音源を焼いたのだと思うけど。ぼうっと考えて、ふと、本当にこれはCDなのだろうか、と思った。もしかしたらCDじゃなくて、DVDなんじゃないか?
 私はDVDデッキにセットして、早速再生してみる。すると、ディスクが回る音が部屋に響いた。テレビの画面に、映像が映る。息が、止まった。

 そこに映っていたのは――海だった。
 
 ただ、ただ、青い海だけが映っている。手持ちなんだろう。カメラが時折ぶれて、風の音がごうごうと聞こえる。寄せては返す波の音。カメラの持ち主が砂浜を歩く音が、時折混じる。私はただただ画面一杯に広がる青を享受することしかできない。暴力的な青。海。打ちのめされる。いつの間にか幻想と現実を隔てるスクリーンが消え、私は海の中に放り出された。青の中に沈んでいく。ありとあらゆる私の隙間から、私自身を飲み込もうと水が押し寄せてくる。呼吸ができない――いや、違う。私は、自分が"呼吸をやめた"のだということに気付く。私は、"この海に望んで落ちている"。リビングに存在していた私と、今この場所――海の中に落ちる私の差を思う。アンフラマンス。私の分離。私が私から分離し、不在の中に私がいて、私の中に不在がある――。落ちていく私は、夢見菖蒲ではない。あの教室の醜い私でも、図書館を漂う図書委員でもない。私という精神――海
でしかない。溶けて、解け、綻んで、霞んでいく。暗く冷たく優しい海へ。それは、生まれ直しているようにさえ思えた。私が私という輪郭を得て、夢見菖蒲として存在するその前。何者でもない夢見菖蒲ではなく、ただ何者かである名前のない存在へ、還って、孵っていく。

 それから――その海の動画は15分間続き、前触れもなく終わった。

 私が夢見菖蒲に戻ってくるまでの時間はたった15分間。私は、ただ青い海が映っただけの映像を見て、嗚咽するほど涙が止まらなくなってしまっていた。涙でぐしゃぐしゃになった顔を、腕で拭う。しばらく動けなかった。世界で一番うつくしく孤独な瞬間が、15分間という瓶の中に詰めこまれていた。永遠を密閉したその場所に空気はなく、ただ無限の生だけがあった、怖かった。怖ろしかった。私はDVDをデッキから取り出すと、急いで透明のケースにしまって、二階にある自分の部屋のベッドと地面の隙間に放り込んだ。もう二度と見ない。私は誓う。もう二度と見ないし、このDVDを拾ったことも忘れる。私は何も見ていないし、拾っても居ない。そう思い込まないと、私はまたあの海の音を思い出してしまいそうだった。


゚。

 その夜、海の夢を見た。
 砂浜で目を覚ます。星のような形をした砂が横向きに寝転がっていた私の側面にぴったりとくっついていた。
 私は自分の身体が自分で無い物のように思えた。柔らかい夜の闇に浮かび上がる白い手足も、切ったばかりの髪も、全て自分のモノであるはずなのに。しばらくぼんやりと海を見つめる。打ち上げられた迷いくじらのように呼吸が苦しい。夜の海は不気味だ。
「紫黄水晶(アメトリン)」
 ふいに背後から声が掛けられて、心臓が縮みあがる。振り返ると、そこには蜂蜜色の髪の毛をした、眼鏡の男の子が立って居た。……いや、女の子かも知れない。中性的な顔立ちだから、どちらか分からない。けれど、どちらでも良い気がした。
「琥珀(アンバー)」
 私は知らないはずの彼――或いは彼女の名前を口にしていた。
「こんな真夜中にどうしたの。……眠れないの?」
「少しね」
「ふうん。まあ、いいけど。どれくらいこうしてたわけ。風邪引くよ」
「15分くらいかな。……琥珀は?」
「散歩」
 琥珀はそう言うと「じゃ、せいぜい体調を崩さないようにね」と私に手を振って、そのまま森のある方角へ歩いていってしまった。彼は本当に自由だ。海を漂う流木のように、掴めない――そこまで思って、自分のことをゆっくりと思い出した。私の名前は、アメトリン。紫黄水晶。うでにはめられた天然石のブレスレットは、私の名札だ。金色のプレートチャームに書かれているのは、624。私の部屋番号。私はさえない"    "ではなく、アメジストとトパーズを兼ね備えたうつくしい石、紫黄水晶としての私。海の音が聞こえる。私は私という肉体から分離して、新しい私になった。望んで落ちた海の先のこの場所は、酷く暖かく、私に無関心な月の国。
「琥珀」
 遠くなる彼の背中に声を掛けると、彼は勢いよく振り返った。耳が良い。
「私の瞳は何色」
「菜の花の色」
「私の髪の毛は」
「むらさきいろの紫陽花の色」
 何、いきなり。当たり前のこと聞かないでよね。おまえ、なんかおかしくない? 無遠慮に言う琥珀から目を逸らして、私は砂浜に立ち尽くし、ただ海を見ている。足下に、黒いカメラ。
「ねえ琥珀」
「なあに」
「あなたって好きな人、居る?」
 もう一度、琥珀の居る陸を振り返る。爪先に押し寄せる、波の冷たさ。ぼやける全て。ブレスレットに刻まれているのは、624号室。


゚。

 足取りが重い。ジムノペディが流れる廊下は、今日も無駄にノスタルジックで私を陰惨な気分にさせる。吹雪先生は私を憂鬱にさせる天才だ。好きだった本もピアノも放課後も、先生のせいで私は大嫌いになった。第二音楽室、という機械的な文字が目に入る。スライド式の重たいドアを開けると、先生がピアノを弾く手を止めて此方を振り向いた。
「吹雪先生」
「今日もいつも通りだね」
「ええ、先生と違って私は真面目なので」
 私は無愛想にそう返すと、先生は肩をすくめた。鍵盤に置いていた手を膝の上に移動させると、にこやかに「お疲れ様」と声を掛けられる。
「仕事をしてください」
「君がしてくれるから大丈夫」
「……あのグッピー、そろそろ死にますよ」
「君が生かしてくれるでしょう」
 私は先生を睨み付けたい気持ちを我慢して、鍵をグランドピアノの上に置くと踵を返す。吹雪先生は私をじっと見つめたまま、動かない。
「夢見」
 教室を出る瞬間呼び止められて、私は思わず立ち止まってしまう。「また明日」いつも通りの吹雪先生の言葉が教室の床に落ちる。私は視線を落とし、自分の少しだけ汚れた上履きを見つめる。床の上で充満した彼の声が、爪先から染みていくように思えた。
「さようなら」
 私はそう言って、今度こそ立ち止まらずに帰路につく。ジムノペディが流れる廊下は嫌いだ。けれど、ジムノペディが流れた後の廊下の方が、私を陰惨な気分にさせる。ノスタルジーが過ぎる。走り去ってしまいたい欲に、私の自尊心がブレーキを掛けていた。この廊下を駆け抜けた瞬間、私の心は硝子の様に砕け散り、破片は私の心に深く刺さったまま、永久に抜けないだろう。そんなのはごめんだった。先生になんて、一ミリだって傷付けられたくない。あんな人に傷付けられたくなんてない。私の心に傷一つつけてほしくない。そんな資格、あの人にはないのだから。
 向かいから、同じクラスの橘いつきが歩いてくる。ジムノペディがノクターンに変わる。私は窓から見える太陽の光が、静かに落ちていくのを見た。菜の花と紫陽花のむらさきが溶け合って、いつかは夜になる。アメリカンナイト。小さく呟いてみる。所詮夜景は疑似でしかない。時刻は18:37。夜を泳ぐにはまだ、早すぎる。

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