土の湿ったにおいと、鼻の奥がつんとする草のにおいが混ざりあって、どうしてか雨の日の匂いを連想させた。服が肌に張り付いている感覚の気持ち悪さに身をよじって、薄く目を開ける。瞼の隙間から、白い光が目を突くように侵入してきて、思わず強く目を瞑り直す。ごろり、と寝返りをうってうつぶせになると、草の先が顔を擽った。
唸りながら何度か地面を転がると、今度はしっかりと目を開ける。一瞬視界が白に満たされて、そのあとぼんやりと色付けされていく。白、金色、空色。一面の青空。少しだけつめたい、心地よい春のにおいがする風が吹いていた。
草むらに投げ出された左手の上に、とげとげとしたふしぎな感覚がある。見れば、大きい茶色い色をしたカブトムシが親指の辺りにしがみついていた。石のように硬そうな色をしたカブトムシは、標本のようにじっと動かない。俺は静かに起き上がって、ゆっくりと首を左右に動かした。一帯は草に満たされていて、建物は無く、遠くの方に森らしきものが見えるだけだった。俺はあぐらをかいて、手元に視線を落とした。カブトムシは逃げようともせず、相変わらず親指にしがみついている。この辺に木は無い。森の方から此処まで飛んできたのだろうか。
「カブトムシなんて久しぶりに見た」
思わず独り言がこぼれて、慌てて口をふさいだ。周りにだれもいないと、人は大胆になるらしい。
俺は口をふさいでも、自分の声を聞いている人間などいないことを再確認して、ふうと息を吐き出した。カブトムシをそおっと右手で撫でる。カブトムシの表面は油をぬったみたいに滑らかだった。固く覆われた羽を慎重に撫でると、うっすらとこびりついていた花粉が人差し指に付着した。俺の指が通った場所だけ、ぞうきんがけをしたように綺麗になる。
ツン、と立派な角をかるくつつくと、カブトムシは角を前に突き出して威嚇をした。勇ましい姿とは想像できない、丸くて黒いおちゃめな瞳を覗き込む。ビーズみたいに固そうな瞳はぴくりとも動かない。ただじっと俺を見ている。俺も負けずにそのちいさい瞳を見つめていると、カブトムシは繊細で厳めしい腕を少しだけ動かした。カブトムシの手は酷く繊細だ。木の枝のような形をしたそれは身体の頑丈なデザインとは一転して華奢で、少しでも強く引っ張ってしまったら千切れてしまう。後退するように六本の足を動かすカブトムシに「びびったな」とからかうように笑えば、否定するように彼は軽く親指をひっかいた。
「目がさめた?」
けれども俺が安心しきって独り言を呟いていた時。唐突に、自分の声では無い誰かの声がきこえた。澄んだ声だった。心と心のあいだにするりと入ってくるような静かできよらかな声。思わず目を丸くして立ち上がるけれど、辺りには誰も居ない。口を開けたまま視線を落として親指から腕の方へのぼってくるカブトムシを見る。カブトムシはやはりおちゃめな瞳で此方を見ていた。
「おまえ?」
ないしょばなしをするように、背中を丸めてかがむと、小声でカブトムシに問いかける。カブトムシはのぼるのを中断して、角を数回動かした。
「おまえ、頷いてんの?」
俺が言うと、カブトムシはまた動きを止めて角を動かす。
「アホか」
俺は溜息をついて姿勢を正すと、カブトムシから視線を逸らした。
人影を探そうと数歩前に進むと、後ろから「こっちこっち」という声がまた聞こえた。勢いよく振り返る。けれどもやはり誰も居ない。俺は眉を寄せて、声のする方に歩いてみる。
瞬間、相手の姿が見えない理由が分かった。
一歩踏み出した足が、がくんと下がる。そこにはなめらかな斜面があった。踏み出した足が地面に触れる前に、背中が地面につく。俺はバランスを崩して、思い切り斜面を転がっていった。ぐるんぐるんと三回ほど前転しながら斜面を滑り降りる。
「いってえ……」
「わっ、大変……! 大丈夫?」
「大丈夫じゃねー……よ……」
腰をさすりながら顔を上げると、目の前には自分と同じくらいの年の男が立っていた。
焦げ茶色の瞳に、色素の薄い髪。太陽の光を受けて、ところどころ髪の毛が金色に透けていた。染めているのか、と一瞬思ったけれど、色味からして地毛だろう、と思いなおす。
とらえどころの無い顔だった。ほくろもないし、どこかひとつのパーツがおおきいということもない。整いすぎている彼の姿は、デパートにあるマネキンを思わせる。此方に向かって伸ばされる手はびっくりするほど白い。
「誰」
俺は手に捕まって立つことをせず、自分の力で立ち上がる。立ち上がってから、自分よりも男の方が身長が高いことに気がついてげんなりした。
俺の質問に、彼はとぼけるように「僕?」と首を傾げた。おまえ以外に誰が居るのだ。まさかカブトムシには聞くまい。そう思って、慌てて手元を見る。あんなに斜面を勢いよく転げ落ちたのだ。逃げ遅れていたとしたら、もしかして彼はつぶれてしまったのではないか。俺は潰れてすり潰された彼の色と、それを見つけてしまった自分とを想像してぞっとした。けれども、カブトムシは俺の掌で潰れていることも衣服にこびりついていることもなく、とても上手い具合に俺のシャツのポケットの中に収まっていた。
おまえ運動神経良いな、と心の中で呟くと、まるで俺の心の言葉を感じ取ったかのようにカリカリとカブトムシがシャツをひっかく。
「僕は星野だよ」
男は右手で右耳に髪の毛をかけながら言った。
「ホシノ?」
俺は聞き返した。星野。当然聞いたことの無い名字だった。けれども彼は俺と同じ制服を着ていた。白いシャツに、藍色のズボン。胸元には金色のほしのマークの校章。学年バッチが示すのは第二学年。十七歳か、と思う。やはり俺と同じだった。けれども俺は、星野のことをしらない。
うちの学校の第二学年は二クラスしかないのに、名前を知らないなんてあるはずがない。けれども俺は星野のことを知らなかった。いくらとらえどころの無い顔だと言っても、同じ学年だったらなにかしら顔を合わせる機会はあるのだ。忘れるわけは無い。
おかしいな、と思いながら俺は星野の顔を見た。星野は朗らかに笑っていた。
「うん、ホシノ。きみは?」
「俺は……」
そのとき、俺は奇妙なことに気がつく。
唇は動くのに、言葉は出てこない。名前。なまえ。自分の名前。
「思い出せない」
俺は素直に答えた。
「そっか」
名前を思い出せないといっているのに、星野は別段気にしていないようだった。正直の所、俺も自分の名前が思い出せないというのに少しも気にしていなかった。なんだかそれが普通であるような心地がしたのだ。何故かはよく分からないけれど、名前が分からないことは恐ろしくなかった。
星野はじゃあ僕は君のことなんて呼ぼう、なんていいながら歩き出す。星野の歩き方はへんだった。まるで重力が無いみたいに、軽やかでふわふわとしている。前を歩く星野に、俺は何となく着いていく。最初の時に根付いていた警戒心は、いつの間にか根ごとひっこぬかれたようだった。
しばらく歩くと水のおとが聞こえ始めた。この先に川があるのかも知れない、と思う。黙って歩いていた星野が、くるりと振り向いた。焦げ茶色の瞳が、一瞬薄紅色に綻んだ気がして俺は目を丸くした。
「ねえ、じゃあ月野にしよう」
とっておきのアイディアだというように、星野が言った。
「ツキノ?」
俺はまた反復する。
「うん。僕が星だから、きみは月。いいでしょ?」
「なんだか単純な規則性だな」
「いいじゃない。規則性があった方が覚えやすい」
そして規則性っていうのは、案外大切だったりするんだ。
そんなことを言いながら穏やかに笑う男を、俺はみつめた。星野は頭の後ろで手を組んで「決まり」と言う。俺は頷いた。他に良い案はなかったし、単純だとは思ったけれど星野の意見を悪くないと思ったからだ。月は好きだった。
甘いにおいが風にのって運ばれてくる。ずうっと向こうに花畑のようなものが見えた。白とピンクと黄色の点がたくさん見える。その先には大きい木が生えていて、耳を澄ますと、さっきよりも大きく水のおとが聞こえた。
「なあ、ここ、どこ?」
その質問は無意識に出たものだった。
星野は俺の言葉に少しだけ困ったように笑って「僕にもわかんないんだ」と肩をすくめた。
「どこなんだろうね。ココ。でもいいところだね。――水のおとがきこえる?」
「きこえる」
「むこうに川があるんだ。行こうよ。おなか空いたでしょう」
「魚が住んでるのか」
「うん、そうみたい」
いつからここにいるんだ、と俺が聞くと「月野は?」と聞き返された。俺はわからない、と首をふる。目が覚めたら此処に居たんだ、と言うと「僕もだよ」と星野は言った。そうか、と俺は答えて、そりきり俺たちは黙った。嫌な沈黙では無かった。
星野のバッチが金色にぴかぴかひかる。星野はどこから来たのだろう、と思う。けれどもそれと同時に、自分はどこから来たのだろうと思う。けれどもそれは、名前と同じように、やっぱり重要では無いことに思えた。胸元でまた、カブトムシが窮屈そうに寝返りを打つ。
魚を捕るのは俺の方が上手かった。
水のなかを器用に泳ぐさかなを両手ですばやくつかむ。あまり強く掴むと魚は弱ってしまうから、適度に力をかけるのが良い。むかし魚には人間の手の温度は熱すぎるから、つかみ取りをすると火傷してしまうと誰かが言っていたっけ。誰だったかな。思い出せない。俺は額を滑り落ちる汗を腕で拭うと、星野の方を見た。
星野は、力の加減ができないようだった。傷つけないように力を抜きすぎるせいで、するりと手の檻から逃げられてしまう。ばしゃん、ばしゃんと何度も川に手を入れては悲しそうな顔で何も掴んでいない掌を見る。
「おまえはやさしいなあ」
俺は七度目の失敗に肩を落とす星野の後ろ姿に声をかけた。星野はゆっくりと振り向いて、困ったように笑った。水が跳ねたせいで白いシャツが所々透けている。俺ははじめからシャツを脱いでいた。川辺にある大きい石の上に、たたんで靴と一緒に置いてある。カブトムシは俺のシャツの上で悠々と俺たちをながめていた。呑気な物だと思う。
くしゃみをする星野に、風邪引くなよ、と言うと「月野はやさしいね」と言った。また星野の瞳は、薄紅に輝いている。俺は目を細めてそれを見つめながら、五匹目のさかなを掴んだ。両手に包まれたさかなは大きく手の中で暴れる。
「月野、君は優しいけれど、僕は全然、やさしくなんてないんだよ」
星野はそういって、また水面に視線を落とす。
さかなが跳ねる。
俺の頬に水がぴしゃりとかかった。
「ああっ」
星野は八度目の失敗をした。
(二)
夜が来た。
夜が来ると連れ添っていたカブトムシは森の方へ飛んでいった。挨拶をするように俺の周りを一周してから、一直線に飛んでいく。見事な物だった。そういえばカブトムシは夜行性だ、と思ってあいつも食事の時間なのだろうかと思う。それとも自分に似合いの可愛い子を見つけに行ったのだろうか。なんにせよ、達者にな、と声をかける。星野はそんな俺を見て、「またね」とカブトムシに話しかけていた。
俺と星野は火を焚いた。といっても俺は火をつけることができなかったから、星野がほとんどひとりですることになった。その間俺は川で取った魚に草むらで拾ってきた木の棒を刺す作業をする。星野は火を付けながらちらりとこっちをみて、顔を真っ青にしてまた火と向かい合った。星野はどうやら、生き物を傷つけることがだめらしい。
理由を聞くと、星野は「だって僕たちは次、さかなにうまれるかもしれないでしょ」と言った。俺はリンネなど全く信じていないから、最初星野の言っていることが分からなかった。次とはいつのことだろう、と首を捻る俺に、星野はまじめくさった顔で言う。
「月野、俺たちは死んだら、また次の物に生まれ変わるんだよ」
「死んだら……? 星野、おまえはへんなことをいう」
死んだら、そこですべてはおしまいだろう、と俺は言った。
いいや、と星野は首を振る。
「月野、俺たちの魂は永遠に続くんだよ。死んだら僕たちは、この世界のなにかにまた生まれ変わるんだ。そして死に、またなにかにうまれかわる」
「星野先生の講義が始まった」
俺は笑って、棒の刺さった魚を火の周りの石の間にさした。星野は「冗談なんかじゃ無いよ」と少しだけ怒った。俺はごめんごめん、といいながらも星野はふしぎなことを言うな、と思った。なかなかぞっとするはなしだ。輪廻。輪廻。リンネ。よく聞く話だけれど、やはり信じられない。俺は俺じゃ無い俺のことを想像できないし、星野でない星野のことを想像できない。もしも生まれ変わりのようなものがあったとしても、生まれ変わった俺たちは本当に俺たちであると言えるのだろうか。
「魂って言うのは充電式の電池みたいなもので、使い終わればまた引き継がれて充電されて、次の僕たちがその電池を使うんだ。使い終われば僕たちはまた死んで、新しい僕たちがまたその電池を受け継ぐ」
「生まれかわるなんて、俺は嫌だな」
素直に零す。星野はやはり真面目な顔で俺をみていた。さかなの焼け具合を見て棒をまわしたり、倒れすぎている物をただしたりしながら、俺は話し続ける。
「俺は俺のままでいたい。死んでも、生きても、俺のままでいたい」
「……」
「星野はそうじゃないのか」
星野はお得意の困った顔を浮かべた。良い焼き具合のものを星野に差し出すと、星野は礼を言って受け取った。俺も、良い焼き具合の物を選んで「いただきます」と挨拶をしてからかじった。星野も「いただきます」と俺の真似をするように言ってからそっとかじる。
少しの間沈黙があった。一匹を食べ終わるのは星野のほうがはやくて、俺はどれを食べて良いものか手を泳がせている星野に良い物を選んでやった。星野は「ありがとう」とまた礼を言って、二匹目のさかなの腹にかじりついた。ほのおがめらめらと燃えていて、それを見つめる星野の瞳はやっぱり紫に見えた。
俺が二匹目に手をのばしたときに、やっと星野は「僕は」と話し始める。
「僕は、生き返りたいと思う」
その声は震えていたけれど、迷っては居なかった。俺は二匹目を自分の元へ引き寄せて、目は星野にむけたまま、小さくかじりついた。
「僕は、生き返りたいと思うよ。月野。だってもし死んだとしても、また生き返ることが出来たのなら、また会えるかも知れないから」
「誰に」
「君に」
俺は驚いて、あやうくさかなを石の上に落としてしまうところだった。
「どうして」
星野は困った顔を浮かべるだろうか、と思ったけれど星野はまじめな顔のままだった。ぱちぱち、と火のはじけるおとがする。星野の焦げ茶の瞳のなかに火が映って、ゆらゆらと揺れていた。
「どうしてだろうね」
「なんだそれ」
へんなやつ、と俺は言った。星野は笑った。どう答えて良いか分からなかったけれど、俺は大事なことを忘れているような、胸の奥がせつなくなるような感情がこころのなかを早足に歩いている感じがした。
星野は三匹目にかじりついていた。よくたべるやつだと思った。
夢をみた。夢の中で俺は十歳ほどの俺とは全く違う見た目をした子どもだった。俺の意識が在るけれど、俺では無い子ども。けれどもどこかその器は正しく懐かしく、違和感は無かった。
俺の五つほど年上だろうか。黒に白のラインが入ったセーラー服を着た女の子が目の前に座っていた。正座で座るふたりの距離は狭く、ひざとひざは今にもふれあいそうなほどだった。
彼女は微笑んでいた。畳の上に、おはじきが散らばっている。障子の外から黄昏色のひかりが室内に広がっていた。いろんな色のおはじきが、そのひかりを反射してぴかぴかと光っている。
「月よ星よ、終の別れも願わくば。擲つ輪廻の理想郷にならんことを」
彼女はうわごとのように呟いて、俺の頭をそっと引き寄せると、そのまま膝の上に載せた。身体が緩やかに倒れて、いくつかのおはじきは俺の身体の下敷きになり、いくつかのおはじきは俺の身体に押されて近所のおはじきとぱつんとぶつかって飛んでいった。
彼女は俺の頭を静かに撫でた。その指先はやさしく、俺を見下ろす猫に似た瞳は夕方と夜のあいだの一等うつくしい紫のひかりを仄かに宿している。俺がさっき画用紙で作った不格好なほし形のブローチは(どうしてか作った記憶だけが俺の中に在った)ガムテープで雑に貼り付けたせいで彼女の胸元から剥がれかけていた。彼女は同じように剥がれかけていたのであろう俺のブローチにそっと触れて、とれないように軽く圧迫した。俺は彼女のブローチも貼り直そうかと手を持ち上げて、少し迷った後、膝の上に戻した。迷うように横に動く僕の瞳を、彼女は目を細めて見ている。この部屋に音は無い。
「"月よ星よと君を眺め、わたしは君の果てない幸ひを願っている"」
やはり彼女はうわごとのように、まるで呪文でも唱えるかのように言葉を紡ぐ。瞳が薄紅に揺れて、ワインの色になり、夜の色にうつろう。
「いつでも何度でも君の還りを待っているよ、わたしは」
彼女は言った。今度は血の通った、彼女の言葉だった。
幸ひとはなんなのか、俺にはよく分からない。けれども俺の幸ひのある場所に、彼女が居てくれないだろうと言うことだけははっきりとわかっていた。彼女は俺を見守り、俺を眺めてくれるけれども、決して俺と落ちてはくれない。彼女は何も、失わない。それは推測では無く確信だ。俺はそれを、静かに憎んでいた。
「月の子ども、どうかまた何者かになって、また此処へ還ってきて。君が孵るそのときを、わたしはいつだって、何度でも、見守るよ。何を忘れてしまってもいい。けれど君の胸にはいつも星が、僕の、わたしの星が宿っていることだけは、どうか忘れないで」
俺は何も言わなかった。何も言えなかった。ただ瞳を閉じて、とろとろと溶けてゆくすべてに身体を滑り込ませていく。ただ生まれ落ちるそのときまでの、彼女の側に自分が在るという幸福にねむるだけ。今このときが終わればきっと、俺は綻び編み直され、俺で無い別のものへと生まれ直してしまうのだろう。そして彼女の事をすべて忘れて、俺はまた新しいなにかとなって生きていく。俺は自分の目から涙がこぼれていくのを、薄い意識の中で感じていた。彼女の顔はもう見えない。俺の器は満たされて、そして急速に失っていく――。
「月野?」
飛び起きると、ふしぎそうな目で星野が此方を見ていた。星野の姿をみて、自分が酷く落ち着くのがわかる。ああなんだ、居るじゃ無いか。そう思って、誰が?と自分に問いかけた。誰がって、あの子だ。俺は思って、その"誰か"の顔をもう覚えていないことに気付く。探していた?誰が?誰を?なんのために?俺はさっきまで一体、何を見ていた?――何も、思い出せない。
「月野? 寝ぼけてるの?」
「なんでも、ねえよ」
誤魔化すように笑うと、星野は心配そうに俺を見た。真白のシャツが濡れている。
「……また捕ってたのか?」
「うん。でもやっぱり全然捕れないや。難しいね」
「ああでも捕るのはコツが居るから――」
――を。その、名前を言おうとして口が空回りする。何度口を動かしても、それは答えにならなかった。なんだっけ。昨日、食べた、あの…、あの?
あのって、…何?
「月野?」
「――……ああ」
思い出せない。
(三)
俺は急速にいろんなものを忘れていった。わすれていったものは、この不思議な世界から形だけを残して消えていった。穏やかに、それは砂時計の砂がさらさらりと落ちていくように、静かに別の場所に積もり失せていく。この世界が失われるわけじゃない。この世界を構成するすべてのものは、ただなまえを失うだけで、形を失うことは無かった。ただあるだけで、名前が分からない。それだけだった。何も困ることは無い。悲しくは無かった。ただひたすらに自分の中身が減っていくことを感じているだけで、ちっとも怖ろしくは無かった。むしろ俺は中身が減るたびに、自分の中が何か別の、とてもきよらかなもので満たされていくようなここちがした。
星野はただ日に日に名前が無くなっていく世界を見ていた。彼が何を考えているのかは俺には分からなかった。星野は多分、俺が何を失っても何も失っては居ないのだと思う。なぜだかそんな確信を持っていた。俺はそれをうらやましくも、不幸にも感じていた。そして多分、少しだけ憎んでいた。
何も変わらないように夜が来て、何も知らないように朝が来る。そして俺はなにかの名前を失って、自分の中身を減らしていく。身体は少しずつ軽くなり、それはありのままの俺の形へ変化していくように思えた。
夢をみた。夢の中で俺はカブトムシだった。俺の意識が在るけれど、俺では無いカブトムシ。けれどもどこかその器は正しく懐かしく、違和感は無かった。
俺は木の蜜を熱心になめていた。そのすぐ横で、大きい翅を持った蛾が呼吸するように身体を震わせながら、同じように木の蜜を啜っていた。まるで猛獣の顔の様な模様の翅は、きらきらと小さい薄紅にひかる粒子に覆われている。俺はカブトムシの瞳はこんなに綺麗にものを見ることは出来ないだろうと違和感を感じながら、木の枝のような手足を動かした。蛾が動くと、ほし型の模様が見えた気がした――。
景色は動いた。今度、俺は鳥だった。空をぐるぐると飛んでいる。自由だった。風の音が聞こえ、海の香りがした。生ぬるい温度の中、隣を白い鳥が飛んでいた。泳ぐように飛ぶその鳥は此方を見て、微笑むように一度だけ鳴く。その瞳はやはり紫に光り、その胸元にはほし型のマークが刻まれている。また景色は動いていく――。
俺は満員電車の中に居た。つり革に捕まる、黒に白のラインの入ったセーラー服を着ている女の子が向かいの窓に映っている。長い黒髪に、使い古した茶色のバック。"わたし"だ。
目の前に、本を読んでいる男の子が座っていた。眼鏡の奥の穏やかな瞳が、活字をなぞる。ああたぶん、薄紅。ああやっぱり、紫色。男の子の短い髪がさらりと動いて、眼鏡越しに瞳と瞳がかち合った。瞳の奥に蜜が見える。瞳の奥に空があり、胸元にはやはり、ほし型のバッヂ――。
「月よ星よ、終の別れも願わくば。擲つ輪廻の理想郷にならんことを」
うわごとのように呟いて、わたしは彼の頭をそっと引き寄せると、そのまま抱きしめた。眼鏡が腹部に当たって、かしゃりと音を立てて床に落ちた。わたしも彼も動かない。がたんごとん。電車の音が遠くに聞こえる。鳥の鳴き声がきこえる。おはじきの映す夕焼けの温度が肌に染みる。木の蜜の甘い匂いが、今この場所で香っている。足下にレンズのとれた眼鏡が落ちている。
彼はわたしの腰に腕を回す。わたしは彼の頭を撫でた。周りにいつの間にか人は居なかった。彼の指先はやさしく、わたしを見上げる猫に似た瞳は夕方と夜のあいだの一等うつくしい紫のひかりを仄かに宿している。わたしはもう視線を迷わせることはしなかった。カブトムシの目のように微動だにしないわたしの瞳を、彼は目を細めて見ている。この場所の音は消えた。
「"月よ星よと君を眺め、わたしは君の果てない幸ひを願っている"」
わたしはうわごとのように、まるで呪文でも唱えるかのように言葉を紡ぐ。彼の瞳が薄紅に揺れて、ワインの色になり、夜の色にうつろう。
「いつでも何度でも君の還りを待っているよ、俺は」
わたしは静かに首を振る。
「お前は何も失わないだろ、星の子ども」
彼はとても傷ついた顔をしてわたしを見た。けれどもわたしは、むしろ彼が傷つくことを歓迎していた。わたしは彼に傷ついて欲しかった。何も失わない彼のこころが、少しでも欠ければ良いと思った。
幸ひとはなんなのか、わたしにはよく分からない。けれどもわたしの幸ひのある場所に、いつだって彼は居てくれない。彼はわたしを見守り、わたしを眺めてくれるけれども、決してわたしと落ちてはくれない。彼は何も、失わない。
わたしはそれを、静かに憎んでいた。
「……月の子ども、どうかまた何者かになって、また此処へ還ってきて。君が孵るそのときを、俺はいつだって、何度でも、見守るよ。何を忘れてしまってもいい。けれど君の胸にはいつも星が、俺の、僕の星が宿っていることだけは、どうか忘れないで」
彼は懇願するように言ったけれども、わたしは何も言わなかった。何も言えなかった。ただ瞳を閉じて、とろとろと溶けてゆくすべてに身体を滑り込ませていく。ただ生まれ落ちるそのときまでの、彼のそばに自分が在るという幸福にねむるだけ。今このときが終わればきっと、わたしは綻び編み直され、わたしで無い別のものへと生まれ直してしまうのだろう。そして彼の事を――"彼ら"のことをすべて忘れて、俺はまた新しいなにかとなって生きていく。俺は自分の目から涙がこぼれていくのを、薄い意識の中で感じていた。彼女の顔はもう見えない。蛾の鱗粉のきらめきも、あの鳥の鳴き声ももうない。わたしの器は満たされて、そして急速に失っていく――。
(四)
目を覚ますと、体中が痛かった。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
けれどもまわりといったらまっくらで、星野がつけておこうといった火はいつの間にか消えていた。俺は寝ぼけ眼で星野の名前を呼んだけれど、星野がいたはずの場所はからっぽだった。星野はそこに居なかった。
名前を思い出せなかったときには味わうことの無かった、絶対的な不安感が渦巻く。星野。俺は呼ぶけれど、やっぱり星野はどこにもいない。星野、どこだ。星野。
俺は走り出していた。自分が居る場所が今どこなのか、分からないくらいに走った。そして、石に躓いて転んだ。びしゃん、と水の中に足が沈んだ。いつの間にかこんなところまできていたらしい。此処が何という場所だったか、俺はもう名前も思い出せない。
「星野」
俺はもう一度彼の名前を呼んだ。星野。
両手で顔を覆った。星野。
どうしてお前は、何も忘れないのだ。どうして俺が居るこの場所まで、落ちてきてくれないのだ。どうしてお前は、俺を迎えに来てくれないのだ。どうして俺とともに、忘れてくれないのだ。どうしてお前は、星のまま、俺に忘れられぬ証を刻み、俺がお前の元へ還る日を一人この場所で待っているのだ。どうして俺からなにもかもを奪い、なにもかもを満たして、またお前の居ない世界へ送るのだ。俺がお前のことを何度も忘れてしまうその時を、どうしてお前は静かに見ている。次に出会っても俺はお前のことなど、たとえ現世でお前の魂を見ようとも、気付くことなど無いというのに。ただ残酷ななにものでもない月の光で、生きることしか出来ないというのに。
へそのしたまで浸かった水は冷たかった。もうすべて混ざって溶けて、俺の魂がこの場所で忘れられれば良いと思った。俺はもういつだって、いつまでだってこの場所で星野と生きていきたい。
「月野」
聞こえた声に、はっとする。顔を覆っていた手をそっと顔から離す。顔を上げる。
「星野」
星野が立って居た。満天の星空を背中に背負って。俺は息を深く吸い込んだ。噎せそうだった。俺は星野を憎んでいる。それなのに俺は、星野の失われぬ魂に待っていて貰えることが、待っていて貰えたことが、たまらなく嬉しいのだ。夜に紛れて、俺の瞳から落ちる涙に星野は気付かない。気付かなくて良い、と俺は思った。
「ねむれなくて、星を、みてて」
俺が黙っていると、怒っていると思ったのだろうか。星野は言い訳をするように早口であれこれ話した。俺はそんなのどうだってよかったのだけれど、星野は少しも分かっていないみたいだった。俺は仕方なく、星野にまっすぐに手を伸ばした。
星野が一番最初に、俺にしたことだ。
俺は一番最初に、その手を拒んだ。
けれども今俺は、星野に手を伸ばしている。
星野は驚いたように俺を見て、それから半ば反射的に俺の手を掴んだ。温かい手だった。俺は星野の手を借りて立ち上がると、俺より大きい星野の身体に抱きついた。俺の身体は十の少年になり、星野の身体は十五の少女の姿になる。俺の身体はカブトムシになり、星野の身体は蛾となって、俺の身体は鳥になり、星野の身体も鳥となる。俺の身体はわたしになり、星野の身体は男の子になった。そうして俺たちは今の姿に戻り、ただ星と月の輝く空の下、ふたりだけの世界に立つ。
「月野?」
「……いまなら、星野が生き返りたいと言った意味が分かる」
涙が声ににじんでしまって、俺は恥ずかしいとおもったけれど、星野はやはり気付いていないみたいだった。星野の身体はひどくこわばっていた。緊張しているのだと思うと、なんだかおかしかった。
「俺は何度だって生まれ変わって、そうしておまえに会いたいよ」
たとえどんな形になったって、おまえのことを愛している。
言葉ははじめから俺の中にあったようにこぼれていった。その全てを、星野は拾い集めていく。
「月野」
星野が俺の名前をよぶ。星野が与えてくれた月の名前。
ここはきっと、うつくしい理想郷だ。俺は永遠に此処に生きることは出来ない。此処で待つ星野の魂に添うことが出来ない。星野がいくら、星の子どもがいくら俺のそばに居てくれても、月の子どもの俺は星を見つけ出すことが出来ない。
「どうしてお前は俺と落ちてくれないの」
俺は月野に問いかけた。もうお互いの姿などよく分からなかった。
「……僕が君を愛しているからだ」
「つきの」
「うん」
「おれはおまえを、にくんでいるよ」
「……うん」
星野が俺の身体をだきしめる。俺はもうすぐ転生が近いことを知る。この感覚は、覚えている。とても心が安らかで、輪郭が自然と世界ととけあっていくかんじ。ああ本当に俺は何度も、何度も星野に出会って、なんども生きて、死んで、また理想郷で出会って、そしてまた生まれ落ちるのだ。今回も、きっと次も、この人は俺と落ちてなんてくれない。――それでもいい。
「"僕は、生き返りたいと思う"」
俺の声は震えていたけれど、迷っては居なかった。
「星野がそう言ったように、俺も、生き返りたいと思うよ。星野。もし死んだとしても、また生き返ることが出来たのなら、また会えるかも知れないから」
「誰に」
星野が泣いている。泣かないで、と頬を撫でることはもう出来なかった。
「――君に」
俺は最後にそう答えて、目をつぶった。川はいつの間にか、ふかい湖になっていた。
最後に、カブトムシの羽音が聞こえた様な気がした。そして俺は、すべての言葉を失った。いつだって星野が与えてくれる、俺の月の名前さえも忘れて。
俺は水のなかに沈んでいく。深く、深く、沈んでいく。水面から遠ざかれば遠ざかっていくほど、ひかりは水の揺らぎと混ざっていく。俺は少しずつ俺の原型を無くしていく。
水のなかに、ホシノが落ちてくる。さかなのようなしなやかな動きで、俺の手を大切なもののように、両手で包み込んだ。
「ごめんね」
「きみがもしカブトムシになるのなら、君が成虫となって初めて口にする蜜のあじが、何よりもあまいことを願ってる。きみがもし鳥になるのなら、きみが初めて飛び立つその時に見る空の色が、何よりもうつくしい青色であることを祈るよ。そしてもしきみが、人間に生まれるのなら」
「また僕のために僕を探して」
何度だって僕は、君に会いに行く。僕は君のための迷子でいたい。君がいつか迎えに来てくれる日を、永遠にこの場所で待っている。星野、僕は少しもやさしくなんてないのだ。だけれど嘘じゃ無い。どんな姿に君がなったとしても、君を愛している。
君だけを。君だけを愛している。まぎれもない、君自身を、僕は愛している。
永遠に、と男は言う。形を無くした白い魂は、優しい藍色に溶けて落ちていく。そして水底で、月の光をまとって、ぱちん。はじけた。
男もまた、沈んでいく。桜色の煌煌とした光が、理想郷の中で静かに消えていった。
(五)
青い空が教室の窓の四角に切り取られていた。白色に黒のラインの入ったセーラー服は夏模様をしている。私は頬杖をつきながら、さえない緑をしている黒板を見ていた。先生がドアを開けて教室に入ってくると、その後ろから、自分と同じ服を着た女の子が教室に入ってきた。
胸元には金色のほしのマークの校章。学年バッチが示すのは第二学年。
「転校生の星川さんだ。みんな、仲良くするように」
テンプレートな先生の言葉を頭の隅っこで咀嚼しながら、女の子を見る。焦げ茶色の瞳に、色素の薄い髪。窓硝子越しに差し込んでくる太陽の光を受けて、ところどころ髪の毛は金色に透けていた。染めているのか、と一瞬目を細めたけれど、色味からして地毛だろう、と思いなおした。
とらえどころの無い顔だった。ほくろもないし、どこかひとつのパーツがおおきいということもない。整いすぎている彼女の姿は、デパートにあるマネキンを思わせる。びっくりするくらい、肌が白かった。
「星川です。どうぞよろしくお願いします」
彼女は綺麗に頭を下げた。澄んだ声だった。心と心のあいだにするりと入ってくるような静かできよらかな声。先生が、私の隣の席に座るように促す。彼女はうつくしい姿勢のまま私の元へ歩いてきた。新品の制服の色が、目に痛いくらいにまぶしい。そっと握手を求めるように、私に手が伸ばされる。私は頬杖をついたままその手を見て、「誰」と言った。
「私は……」
彼女が自分の名前を口にする。私は心の中で、彼女の名前を繰り返した。
「君は?」
ああこの子の瞳、光を受けると桜色に見える。なんて、ぼんやり考えた。
――窓の外を、一匹のカブトムシが飛んで行く。
鳥の声がどこからか聞こえて、私は微笑む。その手に手を伸ばして。
なぜだかはわからないけれど、そうしなくちゃいけないような気がした。
「私は――」
月よ星よと君を眺め、わたしは君の果てない幸ひを願っている。