かみかくしくかみか
(一)

「ミチル。いやなことでもあった?」
「うん、父さんと母さんがね、ずっとけんかしてるんだ」
「そう」
「うん、いやなんだ」
 薄紅色のつややかな貝が、カケルの手のひらの中でぼろぼろに砕け散った。足首に一定のリズムで波がぶつかって、踵にクリーム色の砂がこびりつく。カケルちゃん、とミチルはカケルの名前を呼ぶ。カケルはそれに答えることはせずに、ただ静かに海を見ていた。
 カケルに性別は無かった。
 男というにはその容姿は繊細すぎる。けれど、胸元は少女とも言いがたいなだらかさを持っていた。耳の少し下でカットされた、短い薄い色の髪の毛。耳たぶのはしがほんのりとした色に染まっていて、そのひそやかな色は手の中の貝の色に酷似している。真っ黒な瞳と同じ色の、強い癖のある髪の毛のミチルとは反対に、カケルの瞳は黒に限りなく近い焦げ茶色をしている。
 カケルは砕け散った貝の欠片をさらさらと海の上に振りかける。まるで海に魔法をかけるみたいに。さらさら。さらさら。白く形の整った指先が、海の照り返しできらりと光った。さくらの花びらのようなその粉は、水面を何度か漂った後、波にのまれて沈んでいく。ミチルがもう一度カケルちゃん、とカケルの名前を呼ぶと、カケルは「何」と淡々と返事をする。葉っぱが擦れ合うような声だった。
「カケルちゃんは、ないの」
「なにが」
 しっているくせに、とミチルが言う。なにもしらないよ、とカケルが言う。
 前だけを向いていたが此方を振り向く。オレンジと白のタンクトップ。青空を閉じ込めた短いズボン。左足がうごく。カケルの顔を影が食べた。ミチルは目を細める。色の薄い髪の毛が、夕日を孕んで金色に見える。
「僕たちって何処にも行けないのかな」
 ミチルが言う。ざばん、と波が跳ねる。何処にも行けないのかな。僕たち。

 カケルは答えない。


(二)

「カケルちゃんってなんなの」
 足をだらしなく透明の硝子テーブルにのせるカケルに、ミチルが問いかける。緑の古びた鉛筆の端っこを噛んで、原稿用紙と向き合う。カケルが噛むせいで、鉛筆の塗装は所々はげている。汚いからやめなよ、とミチルは注意するけれど、こういうときのカケルは神経質で、ミチルの話など少しも聞かないのだ。
 カケルは膝の上に置いた原稿用紙の束を両手で掴んで机に投げる。さらさらと硝子の上を紙が散らばる。さっきからしきりに手を動かしていたくせに、文字は一つも薄茶色の正方形の中に収まっていない。そもそもカケルに字はかけなかった、ということをミチルは思い出す。なんて生産性の無い行為なんだろう。文字の書けないものが、文字を書くことでは無い。文字をかくつもりのないものが、原稿に向かう行為が、だ。
「いま生産性が無いって思っただろう」
「なんでわかったの」
「なんとなく」
 カケルはそう言って鉛筆と同じ色をしたストローのさしてあるオレンジジュースを飲み干す。ぐるりと小さい丸を作っているおしゃれなストローをくわえることはせず、唇を付けてコップを傾ける。机にぼたりとストローが転がる。原稿用紙がびしょ濡れだ。なんのためのストローなの、とミチルが眉を寄せると、オレンジジュースを飲みながら瞳だけ動かしてカケルが此方を見る。不機嫌なミチルの顔を見ると、笑うように目を細めた。
 コップの底まで橙色を飲み干すと、硝子と硝子のぶつかる嫌な音。コップは静かに置きなよとミチルが言うけれど、カケルは聞こえなかったふりをするみたいに笑って誤魔化した。
「小説を書く行為に生産性を求めること、それこそ生産性が無いな」
「生産性って何なの」
「夢」
 ゆめ。ゆめ。繰り返す。
「そんなものないよ」
「ないのか?」
「無い」
 オレンジジュースおかわり、と言うカケルに「もうないよ。カケルちゃんが飲み干すから。明日買ってくる」とミチルが言う。カケルはあはは、と高く笑った。なにがおかしいのとミチルが言う。
「夢なんて無いっていうくせに、ミチルはいつも"明日"の話をする」
 ミチルが息をのむ。
 外は眩しいくらいに光にあふれているのに、部屋の中は薄暗い。なつのいろだ、とカケルが言って、原稿用紙を引き寄せる。今は春だ、とミチルが首を振る。カケルは小さく笑いを零す。原稿用紙を一枚だけ手にとって、半分に折る。もう一度半分に折る。その作業的な指先を見て、ミチルがもったいないと言う。原稿用紙だってただじゃ無いんだよ、というミチルの言葉を、カケルはやはり聞かない。
「紙飛行機を飛ばすとき、ゆくさきまで決めるタイプだろ。きみは」
「ふつうじゃないのそれ。場所を考えないで、飛ばすわけ?」
「そうだよ」
「どこをみてなげるの、じゃあ」
「どこもみない」
 だって別にとばなくったっていいんだから、とカケルはいう。
 親指と人差し指で紙飛行機を掴む。形の良くない重そうな紙飛行機が、ベランダに向かって放り投げられる。乱暴な仕草であるのに、紙飛行機が指から離れる瞬間だけは、とても優しかった。紙飛行機は、飛んでいかなくても良いというカケルの言葉に逆らうように空中を遊泳する。大きく開けられた窓の枠を飛び越えて、ベランダに侵入すると、風の抵抗を受けてふわりと舞い上がった。あ、とミチルが声を漏らす。
 紙飛行機はベランダの柵を跳び越えて、どこかに行ってしまった。

「もう少しで母さんが帰ってくる」
「そうだね」
「今日も父さんは帰ってこないのかな」
「さあ」
「興味なさそうだね」
「無いからな」
 だって別に、帰ってこなくても良い。どっちもね。カケルが言うと、ミチルは眉を寄せた。反論しようと口を開いて、強く閉じなおす。

「なあ、桜を見に行かないか」とカケルは言った。
「行かない」とミチルは首を振る。

 そう、じゃあわたしはいく。
 カケルが立ち上がる。玄関まで行くことはせず、ベランダに置いてあるビーチサンダルに足を通す。透明のゴムが親指と人差し指の間を固定する。
 まってよ、というミチルの声を聞かずに、カケルはベランダの柵を跳び越える。紙飛行機のように不規則で、危なげな仕草。慌ててミチルはベランダに出る。サンダルを履く暇など無い。細かい砂が足の裏に付着して、不健康な色のコンクリートが冷たかった。踵の骨に響く温度を感じながら、柵を両手で掴んで、身を乗り出す。勢い余って体重が投げ出されそうになると、後ろに思い切り引かれた。白いTシャツの首もとの部分がめり込んで、ミチルが噎せる。
 耳元で、ばか、という短い言葉が響いた。ごめん、と反射的にミチルが返す。

 声の方向へ首を向けた瞬間。ただいま、という怠そうな声が、玄関から聞こえた。
 つとめて柔らかい声でおかえり、と返す。何事も無かったように立ち上がって振り返ると、ズボンをぱたぱたと叩いて砂を落としながら、笑顔を浮かべた。
「母さん。今日は、……暑いね」
「そう? 春なのに、おかしなことをいうわね、ミチルったら」
 足、綺麗にしてね。大きく膨らんだスーパー袋をふたつ、冷蔵庫の前に置いて首を傾げる母親に、「勿論」とミチルは答えた。
 母親の意識がミチルからそれて、細い手がスーパー袋の中身を弄り始めると、ミチルは視線を下げた。むき出しになった肌色の足。細かい刺激。足の裏を切ったばかりの爪でひっかかれているような、かすかな痛み。右足の裏を両手で掴んで見てみると、桜色の粒が足に斑点の痕をつけていた。桜貝の死骸のようだ、と思う。

 空が青い。青い。もうどこにも、カケルの姿は無い。マンションの五階から飛び降りたって、カケルはあの紙飛行機のように、何処までも飛んでいける。

 カケルは、人間じゃ無い。


(三)

『あの子を連れて行かないので?』
「連れて行けない」
『それはまたどうして。あなたさまにできないことなど、なにひとつないのに』
「できる。けどできない。そういうこともある」とカケルは言った。
『人間みたいな事言いますね』
「わたしもながく生きすぎたんじゃないかな」
『それこそ愚かな考えですね』
「それもそうだね」
『あの子にとって、あの場所に居ることが果たして幸ひなのでしょうか?』
「幸ひ、ねぇ」
『幸い。幸せ。仕合わせ』
「……ねえ、何だと思う。わたしには難しすぎるのかも知れない」
『知りたいから彼のそばに居るのでは無いのですか?』
「どうだろう。最近は"もしかしたら理由なんて無いのかもしれない"なんて思うんだ」
『わざわざ人間を形取ってコミュニケーションを取るのは、意味があってのことでは?』
「幸いについて? 人の感じる仕合わせについて?」
『違うのですか?』
「ばかげてる」
 それは、自分自身が?それとも今の関係が?それとも今の、この会話がですか?
 若葉の奥底から聞こえる声に、笑い声を零す。若々しい緑のおくにみえる、濃い濃い黄緑色。触れてみると少し固く、人間の指で葉のぎざぎざをなぞると、『やめてください』としかられてしまった。ごめんね、と返して、足をばたつかせる。さわさわ、とそれにあわせるように細い枝がしなって、薄紅色の花がこすれ合ってこぼれた。まだ満開は遠い。時間は驚くほどあった。
『いつかは必ず、あなたのことが見えなくなりますよ』
「彼が大人になったらね」
『それまであなたはそばに居るのですか?』
「さあ。飽きたらそこまでだ」
『あなたさまの退屈が先か、あの子の年月が先か』
「……それとももっと違う答えがあるか?」
『もっと違う答え、とは?』
「さあ? ……そんなこと、わたしにもわかるまいよ。昔のわたしならば、あるいは違う答えをはじき出したのかも知れない」
『またあなたはまるで自分が年寄りであるような話し方をする。あなたなど、まだ若い方ですよ』
「そうかな。ならばわたしはほかのものたちよりも退屈が過ぎるんだろう。飽き性なんだ」
『それなのにあの子には執着するんですね』
「なんだきみ、もしかしてヤキモチでも焼いてるのか?」
『ばかげてます』
「だよね。わたしもそう思うよ」

 まるで人間のように腐敗してて、不純物だ。ぼくたちは、わたしたちはそうであってはいけないのにね。

 若葉は答えなかった。ねえ、とさらに続ければ、もう寝たらどうですかと突っぱねられる。どうやら怒っているらしい。そうおもったあとで、これもとてもばかげてるなと思う。わたしたちは人間では無いのに、まるで人間のように振る舞う。いや、わたしが好んでそうしているから、わたしに纏わる全てのものたちは、わたしに合わせてそうしてくれているのだろう。
 でもそれではいけない、とカケルは思う。
 後ろに体重を掛けると、木からからだが離れる。あっ、と若葉が声を上げるのが聞こえた。けれどもカケルは一回転して、器用につま先で土の上に着地した。花々が小さい声であぶなっかしい、だのはしたない、だの口々に言い合ってるのに「うるさいよ」とカケルは目をとがらせる。しん、と彼女達はおしゃべりをやめて、風の動きに合わせてカケルに大量の花びらをぶつけた。人間の形をしているカケルは笑い声を上げながら、両腕をふって木から遠ざかる。


 ミチルと出会った日を、カケルは思い出していた。
 満月の日だった。彼の名前と同じ、満ち足りた夜だった。孤独の配分も、静けさの配分も、丁度良くて気持ちのいい日だった。暗すぎず、明るすぎない夜は心もからだも過ごしやすい。あたりの藍色に反する白や、薄いブルーのベールに埋もれる星はうつくしかった。ところどころに見える赤い星を見つけては溜息を漏らす。安っぽいぬるさのアスファルトを素足で歩く。全てが満たされていた、そんな夜だった。
 あの日カケルはミチルの家のベランダにたまたまたどりついた。それは本当に偶然だった。紙飛行機の行く先のように、不確定だった。小さい桜の花びらが一つ。彼のベランダに落ちる。公園で遊んでいたミチルの服についていた物がベランダにおちたのかもしれないし、母親か父親の服についた物が落ちたのかも知れない。原因は分からない。けれど、たしかにひとつ。小さい桜の花びらが玄関に落ちた。ミチルの家の、玄関に落ちた。落ちていた。それだけ。
 木そのもののカケルは、花びらの行く先、折れた枝の行く先、その身からうまれたものすべてをたどることができる。海の上でも、アスファルトの上でも、用水路の水たまりの中でも、滑り台の途中でも、だれかの肩でも。カケルはその場所で、目を覚ますことができる。
 カケルはその夜、普段なら飛んでいかない場所まで運ばれた花びらを見た。
 出来心で、たどっていく。カケルはミチルの家のベランダで目を覚ます。何の気なしに人型になって、彼の家の柵に腰掛けた。そしてカケルは、薄い硝子越しに、ひとりの男の子を見る。――ミチルだ。
 本当は見られたと気付いた時に、居なくなっても良かったのだ。
 けれどカケルには、できなかった。多分、ミチルの瞳が、カケルが人間では無いことを悟っていることに気付いたからだと思う。時が止まったみたいだった。すぐに自分の正体に気付いたミチルに、カケルは興味が湧いたのだ。
 だって、人ではないものを見たとき。それを真っ直ぐ受け止められる人はどれぐらい居るだろう?
 普通の人ならば、拒絶する。自分の理解の範疇を超える、実在するはずのないものにであったとき。人は逃げる。発狂し、恐怖を浮かべる。
 けれどもミチルは、ただまっすぐカケルを見ていた。そうして、騒ぐこと無く、窓を開けて、ささやくような声で言ったのだ。きみは誰なのか、と。
「わからない」とカケルは答えた。
 つまらない答え方だったといまでも思う。けれども彼はそう、とだけいって「名前も無いの?」と首を傾げた。
「きみはあるのか」とカケルが言うと、
「僕はミチル」とミチルは笑った。
 ひとにはみんな名前があるのだとミチルは言った。でもきみは人じゃ無いから、名前が無いのかなと。なかなかに失礼な子どもだった。多分そう言うことでは無い、とカケルは答える。
「じゃあ名前が欲しい?」
 ミチルがそっと窓をしめて、ベランダに素足で出てくる。カケルはそれをみて、足の裏が傷つくんじゃ無いかとぼんやり思った。思っただけで、口にはしなかったけれど。
 カケルは答えなかった。名前が欲しいとは思わなかった。けれども要らないとも思わなかった。ミチルは沈黙を肯定、と取ったのかしばらく考える仕草をした。カケルは彼に任せることにした。ミチルがどんな名前を生み出すのか、気になったからだ。人と話すのは初めてでは無いけれど、名前をもらうことは初めてだったから、今思えば少し気分が高揚していたのかも知れないとカケルは思う
「じゃあ今日からきみはカケルね」

 考えた末にだされた名前。

 ミチル。カケル。満ち欠け。

 なんとも簡単な規則性だとおもったけれど、悪くないと思った。
 カケル。できたての名前を呼んで、ミチルはカケルの手に触れた。ミチルは手ぬぐいのような柄のパジャマを着ていた。手首の部分がぶかぶかとしていて、ズボンの裾は地面に引き摺られている。青い血管が透けそうだと思ったけれど、ミチルの肌の色は思ったより健康的だった。カケルの手首よりもずっと暗い色をしている。
「カケルちゃん。今日から僕たちは――」
 今日から僕たちは。
 その言葉の先に、カケルは静かに頷いた。

 夢など無いときみは言う。明日の話をするくせに、夢は存在しないのだと。先のことなど分からないのだと。
 この場所が嫌いだという癖に、きみはその場所にとどまろうとする。桜の所へ行こうというわたしの提案を、考えること無く断ってみせる。
 空っぽのコップ。中身の無いオレンジ。硝子のテーブル。桜貝。海。ベランダ。紙飛行機。原稿用紙。ストロー。アスファルト。桜の木。
 ミチルとカケル。
 生産性の無いすべて。言葉。温度。海。空。にんげん。月日。見えなくなる。
 飽きたらそこまで。

 もう何年も生きてきた。いろんな人間を見てきたし、いろんな人間と話したことがある。人としての一生を生きたこともある。かと思えば何百年も眠ったこともあるし、ただぼんやりと何千年も此処に立っていたこともある。わたしには目的が無い。目的が無く、明日も明後日も何もかも同一なのだ。わたしというものこそ、夢の無い、未来の無い、分からない存在なのだろう。
 一生の年月が決まっているミチルのように、生きることは無理だ。限りのある生き方、限界のある生活。コミュニケーション。死。はじめから全ての感覚はカケルの中に無い。存在しない。困ることも悲しいことも、楽しいこともなにもない。ただ、過ごすだけ。いつからこうなったのかも、自分がいつからこうしていたのかも、もう覚えていない。
「幸ひ」
 呟いてみる。真夜中。つぼみの色が夜の夕闇に飲み込まれている。そっと撫でて、桜から遠ざかる。幸ひ。
 カケルにはそれが、終わりのように聞こえる。自分が手に入れられぬ、果ての感覚。
 終わること。無くすこと。消えること。終止符。ピリオド。

――幸ひなど、この場所にはない。
 もしこの場所を幸いだというのならば、カケルにはそれさえも、欠けて見える。

 きみは満ちる。わたしは欠ける。なんてお似合いの言葉なのだろうと、カケルは思う。

 きみも永遠を生きれば良いのに。
 そうしたらわたしは、いまよりすこしだけ、退屈じゃ無いのに。

 いつかわたしを忘れるきみのそばに居ることが果たして、わたしときみにどんな影響を与えるのか、興味がある。
 目を閉じる。目を開く。わたしがいるのは彼の家のベランダだった。ばらばらになった桜の花びらを拾って、唇を寄せる。それはてのひらで桜貝となり、粉々に砕けた。波の音が聞こえて、顔を上げるとベランダは海へ変わっていた。


(四)

 ミチルはもう高校生になっていた。カケルはミチルに合わせて姿を変えたけれど、どんなに肌色をしていても、どんなに瞳に温度を含ませても、浮き世離れした感じが抜けることはなかった。
 カケルは変わらない。
 ミチルはそれがうらやましくあったし、また寂しくも在った。なぜかはよくわからないけれど、なんとなく、ミチルは嫌だった。けれどもそれは仕方の無いことだし、言ったらきっとカケルを困らせる(といっても不機嫌になるだけでミチルの言葉をまともに取り合うことはしないだろうが)から、口には出さないでいた。
 女の子なのか、それとも男の子なのかわからなかったカケルは、何故かある日突然女の子の形にかたまった。ミチルが理由を聞いたところ、スカートが履きたいから、という理由らしい。どうせ普通の人にカケルは見えないのだし、男の子の姿でスカートをはいていたって良いじゃないか、とミチルは言ったけれど、カケルはゆずらなかった。
 スカートを履くならば、女の子の姿であったほうがいろいろ楽しいんだとカケルは笑う。ミチルはよく分からなくなって、なんとなく目をそらした。深い意味は無かった。多分。

 ミチルは未だにカケルのことを「ちゃん」付けで呼ぶ。
 カケルは相変わらずミチルのことを「ミチル」と呼ぶ。

 視界がぼやける。海に立つ、いつもどおりのカケルの姿が揺らぐ。具合が悪いのか、という問いにミチルは首を振る。多分違う。けれどなぜか、カケルの姿が上手く見えなかった。
 カケルちゃんの姿が上手く見えない、と素直にミチルが言うと、カケルは驚いたように目を丸くした。そして一瞬傷ついたような顔をして、いつも通りの無表情になる。
 ミチルは普段表情を変えることがあまりないカケルの変化に、目を丸くした。カケルは口の端っこを緩める特有の笑い方をして、海を見る。
 ざばん、ざばん。春の海は寒くて、ミチルはあまり好きじゃ無かった。

「もうすぐ見えなくなるのかも知れない」と唐突にカケルが言った。
「……は?」
 ミチルの声が波の音を突き抜ける。声変わりの終わった、カケルの声よりもずっと低い声だ。ミチルは声変わりをしたとき、カケルは自分のこの声を笑うだろうと思った。けれど、カケルは珍しくその無表情をとびきりの笑顔に変えて、「良い声だ」と言った。それをぼんやりと、唐突に、ミチルは思い出していた。
 カケルの表情は見えなかった。
 ただ、膝の少し下まで、海に浸かりながら太陽を見ている。夕日が髪の毛を照らしていた。
「見えなくなるってどういうことだよ」
 ミチルの焦った声を、カケルは笑った。ミチルはカケルの反応に少しだけむっとする。
「ミチル、きみも大人になるってことだよ」とカケルは言った。
「大人には見えないっていうの?」
「そうだな…きみも知っているように、子どもでもわたしのことが見えない子はいるよ。まあそれでも、見える子のほうがおおいかもしれない。けれど、大人は違う。大人は見えない。大人の中でわたしの姿を見ることができる人間に、未だかつてわたしはであったことがない」
「何故」
「理由は分からない。けれど、多分そう言うことなんだと思う。そういう風になってるんだ」
 一息で喋ったあと、カケルはミチルの方を振り向いた。彼女の瞳は琥珀のように夕焼けを孕んできらきらとひかっていた。
 なあミチル、とカケルがミチルの名前を呼ぶ。
「"あなたさまの退屈が先か、あの子の年月が先か"、か」
 ミチルの名前を呼んだくせに、ミチルに向けての言葉では無いようだった。ミチルは黙ってカケルを見ていた。
「ミチル、きみとの時間はとても面白かったし興味深かった」
「何を言ってるのか分からない」
「怒ってるの?」
「怒っちゃいけないの?」
 なに見えなくなるって。なに大人になるって。どうしてそんなこと、大事なこと、なにもいってくれないんだ。
 ミチルが叫ぶ。カケルは困ったように肩をすくめた。何にも思わないわけ、とミチルは砂浜から海に片足をつっこむ。カケルはぎょっとして、「風邪を引く」と言った。しるかよ、そんなこと、とミチルは乱暴に答える。
「どうしてそんなこと、全部僕に黙ってるんだ」
「別に秘密にしてたわけじゃ無い。言わなかっただけだ」
「言い訳でしょ、それ」
「必要が無かったからいわなかっただけだ」
 ざばざばと海を進んで、ミチルがカケルの腕を掴む。指が肌に沈む。カケルの肌があたたかいことに、ミチルは驚いた。カケルは人間みたいだった。肌の表面には乾燥した塩がこびりついていた。きもちわるくないのかな、とミチルは思って、きっとおもわないんだろうとすぐに思い直した。カケルは人間みたいなだけで、ミチルとはやはりちがうのだ。
「もう一回言って」
「なにを」
「必要が無い?」
 逃げていただけじゃ無いの、とミチルが言う。波がゆれている。足下で細かい砂が巻き上がって、足の甲に降り積もる。固い貝の感触。桜貝かも知れない、とミチルは何故か思った。
「もう一回言って」
「必要が無い」
「もう一回言って」
「必要が無い。……もう良いだろう、ミチル。今日のきみはおかしい」
「おかしくさせているのは誰なの」
「さあ、誰だろうね」

 ミチルはその言葉を聞いた瞬間、自分のこころが一瞬で凍り付くのが分かった。
 ミチルは黙った。
 黙って――カケルを思い切り突き飛ばした。

 ばしゃん、という音を立ててカケルが尻餅をつく。後ろに手をついて起き上がる。下半身が海に浸かっていた。肘のあたりで波が揺れている。無表情だった。短い髪の毛から水がしたたり落ちる。カケルを見るミチルも、やはり無表情だ。

「カケルちゃんなんて大嫌いだ」

 ミチルがそう言った瞬間、鉄砲のような速さで大きい固まりが胸に飛び込んできた。ミチルは足を滑らせて後ろに倒れた。一瞬顔まで沈んで、起き上がる。砂の上に手をつくと、ごほごほと噎せる。目の中に海水が浸入して、酷く痛んだ。おなかの辺りが重い。やっとの思いで目を開けたとき、細い両手がミチルの喉を柔らかく覆った。
 カケルだった。
 夕日の影のせいで、表情は見えない。覗き込むように顔を寄せると、強い瞳に真っ直ぐ射貫かれた。形の整った瞳。長い睫。全てがミチルを否定し、拒絶していた。責めていた。初めて見る表情だった。カケルは強く、強く怒っていた。ミチルは息を飲む。カケルの髪の毛から、ミチルの頬に水滴が落ちる。水はミチルの顎を伝って、海の中に落ちた。

「笑わせる。何も知らないくせに」
「何も分かろうとしていないくせに。わたしが何者かも知らないくせに。きみが、お前が生きている時間など」
 カケルは言葉を切った。
 首を覆う両手に力は無かった。俯いて、もう一度ミチルを突き飛ばすように胸に手をつく。ドン。ドン。ノックするように、きっちり二回。そして、あっさりとミチルの上からどいて消えてしまった。
「カケルちゃん」
 ミチルはカケルを呼ぶ。けれどもそこには海と、夕日と、一つの桜の花びらがあるだけだった。流されないように右手で掴むと、水にふやけたそれは粉々に千切れて、波に攫われた。 口喧嘩で何度も、嫌いだと言ったことはあった。言われたことも、あった。けれども一度として彼女はあんな風に怒ったりしなかったのに。


(五)

「カケルちゃんってなんなの」
 足をだらしなく透明の硝子テーブルにのせるカケルに、ミチルが問いかける。緑の古びた鉛筆の端っこを噛んで、原稿用紙と向き合う。カケルが噛むせいで、鉛筆の塗装は所々はげている。汚いからやめなよ、とミチルは注意するけれど、こういうときのカケルは神経質で、ミチルの話など少しも聞かないのだ。
 カケルは膝の上に置いた原稿用紙の束を両手で掴んで机に投げる。さらさらと硝子の上を紙が散らばる。さっきからしきりに手を動かしていたくせに、文字は一つも薄茶色の正方形の中に収まっていない。そもそもカケルに字はかけなかった、ということをミチルは思い出す。なんて生産性の無い行為なんだろう。文字の書けないものが、文字を書くことでは無い。文字をかくつもりのないものが、原稿に向かう行為が、だ。
「いま生産性が無いって思っただろう」
「なんでわかったの」
「なんとなく」
 カケルはそう言って鉛筆と同じ色をしたストローのさしてあるオレンジジュースを飲み干す。ぐるりと小さい丸を作っているおしゃれなストローをくわえることはせず、唇を付けてコップを傾ける。机にぼたりとストローが転がる。原稿用紙がびしょ濡れだ。なんのためのストローなの、とミチルが眉を寄せると、オレンジジュースを飲みながら瞳だけ動かしてカケルが此方を見る。不機嫌なミチルの顔を見ると、笑うように目を細めた。
 コップの底まで橙色を飲み干すと、硝子と硝子のぶつかる嫌な音。コップは静かに置きなよとミチルが言うけれど、カケルは聞こえなかったふりをするみたいに笑って誤魔化した。
「小説を書く行為に生産性を求めること、それこそ生産性が無いね」
「生産性って何なの。あ、やっぱり答えなくていいや、こういうんでしょ」

「夢」
 カケルとミチルの言葉が重なる。にやり、とカケルが目を細めて、ミチルは目をそらす。

「今の歳になってまた考えてみたけど、そんなもの、やっぱりないよ」
「ないの?」
「無い」
 オレンジジュースおかわり、と言うカケルに「もうないよ。カケルちゃんが飲み干すから。明日買ってくる」とミチルが言う。カケルはあはは、と高く笑った。なにがおかしいのとミチルが言う。だってずっと昔と一緒だから。ミチルが言う。
「夢なんて無いっていうくせに、ミチルはいつも"明日"の話をする」
「それ、聞き飽きたよ。どうせ僕は矛盾してます」
「いいよべつに。人間らしくて良い」
 ミチルが息を飲む。
 外は眩しいくらいに光にあふれているのに、部屋の中は薄暗い。なつのいろだ、とカケルが言って、原稿用紙を引き寄せる。今は春だ、とミチルが首を振る。カケルは小さく笑いを零す。やっぱりなにもかわらない。原稿用紙を一枚だけ手にとって、半分に折る。もう一度半分に折る。その作業的な指先を見て、ミチルがもったいないと言う。原稿用紙だってただじゃ無いんだよ、というミチルの言葉を、カケルはやはり聞かない。これもまた、いつも通りだ。
 この間の喧嘩なんて何も無かったみたいだ、と思う。
 カケルが親指と人差し指で紙飛行機を掴む。形の良くない重そうな紙飛行機が、ベランダに向かって放り投げられる。紙飛行機は空中を遊泳する。大きく開けられた窓の枠を飛び越えて、ベランダに飛び込むと、風の抵抗を受けて舞い上がった。あ、とミチルが声を漏らす。
 紙飛行機はベランダの柵を跳び越えられず、地面に落ちた。
「今日きみの母さんは帰ってくるのか?」
「帰ってこない」
「父さん……は帰ってこないか。そういえば別居したんだったな」
「そうだけど。何で今更そんなことを聞くの」
「気になったから」
「そう」
 カケルちゃんにとっては、どっちでもいいんじゃないの。ミチルが言うと、カケルはその通りだよと答える。矛盾してるよ、とミチルが指摘する。「人間らしいか?」とうそぶいて、カケルが鉛筆をくるりと回す。半回転した鉛筆が、人差し指に当たってかつん、と硝子の上に落ちた。

「桜を見に行かないか」と原稿用紙を見ながらカケルが言った。
「いいよ」とミチルは答えた。
「そうか、ならわたしは一人で……え?」
 言葉を止めて、顔を上げる。自分で言ったくせにカケルは驚いた表情でミチルを見ていた。
「いいよ。見に行こうよ、桜」
「……いや、やっぱ無かった事にしてくれ。やめておいたほうがいい」カケルは首を振った。
「自分で誘っといて?」
「帰ることができなくなるかもよ」
 カケルはミチルの目を見なかった。ミチルはすぐに、それが本当のことだと言うことに気付いた。
「カケルちゃんは、僕をどうしたいの」
「どう、ってなんだ」
「カケルちゃんは僕のことを攫いたいの?」

 気付いていたんだな、とだけカケルが零す。それきり、ミチルの問いかけにカケルは沈黙した。長い間部屋の中に静寂が座っていた。時計の針の音がうるさく感じるほどの、居心地の悪い静けさだった。
 長い時間を掛けてやっと、カケルは口を開いた。ストローを口に含んで、底に溜まった薄いオレンジの膜を吸い取ろうとする。ズー、ズー、という下品な音がした。ミチルはすぐにカケルからコップ取り上げた。カケルは「悪かった」と降参するように手のひらを左右の耳の横で広げる。

「わたしの仕事は、いまミチルがいったように人を攫うことなんだ。…わたしのことが見える人間を連れ去ること。きみのように隙だらけの子どもとかね。日常に嫌気がさしている人間、ふしあわせなひと。日常に飽き飽きしている現実逃避者を連れて行くこと。それがわたしの仕事だ。そういった"幸ひ"を知らない人間を、しあわせにするという名目で永遠に閉じ込める。桜にしてしまうんだ。若葉や、木の皮や、根っこ、桜の花びらなんかにしてしまう。彼らは死ぬことは無い。わたしが生きている限りずっと」
「ならどうしていまのいままでしなかったの。機会はいくらでもあったはずでしょう」
「わからなかったから」
 おまえがしあわせなのか。きみにとってのしあわせがわからなかったから。カケルは言う。
 嘘だ、とミチルが言う。
「嘘つき」
「嘘じゃ無い」
「でも全部じゃ無い、もううんざりだ」
 ミチルが立ち上がろうとする。その瞬間、腕を引かれる。
「もうここには来ない。さようなら、ミチル」
 もうわたしを、カケルと呼ばないでくれ。
 僕はフローリングに尻餅をつく。ベランダに紙飛行機と、桜の花びら。


(六)

『やはりあの子を連れて行かないので?』
「連れて行けないんだ。もうきみも分かっているんだろう?」
『それはまたどうして? ――とは言わないでおきます』
「きみも察するようになったか。それともきみの内側に、人間が残っているのか?」
『いや、きっと無いと思いますよ』
「……きみはわたしに連れてこられて、仕合わせか」
『愚かな問いですね』
「それもそうだね」
『あの時の私にはその選択肢しか無かった。だから選んだ。それだけのことです』
「そうか」
『でも、今私はあの時より生きていると思うようになりました』
「生きている?」
『ええ。こうしてあなたと居ることを何よりも誇りに思う自分が居るのです』
「それは……」
『何故、と聞くのは無粋ですよ』
「……きみはたまに難しいことを言うね。けれど、わたしはきみのそういう所が気に入って、きみの手を掴んだんだ」
『後悔は?』
「するわけない。ばかげてるな」
『ならばやはり、愚かな問いでしたね』
「そうだな。おろかだった。おろかだった。きみたちにも非道いことをした。彼にも」
『ならもう一度会いに行くべきです』
「できるかな」
『できるできないではなくて、するんですよ――ほら、』
 迎えが来ましたよ、と若葉が言う。カケルは顔を上げる。木の上から、坂を駆け上がってくるミチルを見た。


「何故来た」
 木から飛び降りる。桜の木を見上げるミチルの前に。ミチルはとっさに受け止めようと走って、失敗した。勢い余って地面に尻餅をつく。腕の中にはカケルがいる。何故来た。カケルはあきれた顔でミチルに再度問いかける。ミチルは「何故って」と非難するように彼女を見て、口を閉ざす。カケルが穏やかに微笑んでいたからだ。
「何故って、あいたかったからじゃ無いの。カケルもずっと、それで僕に会いに来ていたんでしょう?」
「ばかじゃ無いのか」
 そんな笑顔で言っても否定にはならないと思う、とミチルは思った。頬がじんわりと熱を持つ。
「人のファーストキス奪って逃げるのって、あれだよ、セクハラ」
「わたしも初めてだったから手打ちだと思った」
「なにその理屈、おかしい」
 手打ちってなに、勝手にしておいて、とミチルが言う。嫌だったのなら謝る、とカケルが言う。月が丸い。まあるい月。暑くも寒くも無い温度。初めて会ったあの夜のようだとカケルは思った。嫌だとミチルが言うはずが無いと知っていて、カケルはこんなことをいう。カケルはいつだって嘘つきだ。
「僕は見えなくなるのかな、きみのことが」
「なるだろうね」
「ならないといい、なんていわないんだね」
「気休めは言いたくない」
 それに見えたとしても、わたしときみは結局一緒に居られない。ミチルは言う。
「お前はわたしと違って成長が早いし、寿命も短い。いつかわたしを置いてきみは死ぬんだろう。わたしはそれに耐えられるか分からない」
「耐えて欲しい……といったら?」
「その前にきみはわたしのことが見えなくなる。こうして話すことも、触れることも無くなるだろうよ」
「わからないじゃない」
「いや、決まってるんだ」
 こればかりはもう、どうにもならないんだよ。そう笑って、カケルが立ち上がる。腕の中から居なくなる。ミチルの視界はぐらりと霞む。目をこすって、首を振った。

「僕、攫われても良いんだ」
「そのためにここにきたんだ。僕、カケルの見えない世界なんかで生きていたくない」
「いままでずっと、ずっと一緒に居たんだ、これからも一緒に居よう。僕、きみとなら永遠の中を生きても構わないと思う」
「カケル、僕はきみに夢など無いと言ったね。でもできたんだ。きみが僕を攫おうとしていたと言ったその時に。僕は初めて明確に、自分の意思で夢を持ったんだ」
「でもずっと、きっと最初からあったんだと思う。きみが言うように僕は明日を信じるようにきみとの未来を信じていたんだ」
「ねえカケル、僕を連れ去ってよ。ここから。僕をきみと同じ永遠に住まわせてよ。きみの一部で構わない。一生一緒に居よう、カケル」
 カケルがミチルの頭に手を伸ばす。その指が髪の毛を撫でる。
「それで充分だ」
 カケルの言葉を聞いた瞬間、ミチルは手を伸ばした。行かないで、と叫ぶ。
「きみはそこで生きていなくちゃ行けない。生きなきゃダメだ、ミチル」
「嫌だ」
 風が吹く。強くふく。桜の花びらが一斉に舞い上がる。足下に白が積み重なる。桜の海に沈むようだった。沈んでも良い。沈んで欲しい。ミチルは目を細める。わからないよ、と叫ぶ。いつかわかる、とカケルの声が遠ざかる。目が霞んでいく。
「きみは選択肢を持っている。夢を持っている。わたしはきみを、連れて行くことが出来ない」
「きみは連れて行くには多くの物を持ちすぎている」
「きみは永遠といったね。永遠の中でわたしとひとつになれたらと」
「でもわたしたちはもうとっくに、永遠なんだよミチル。きみとわたしはとっくに、もうずっと前から一つなんだ」
「ミチルとカケル。満ち欠け。わたしたちはいつだってずっと、永遠の中を生きている」
「欠けたわたしを満たしてくれるのはいつもきみだった。ミチル。わたしはきみのことを、……そうだな、人間らしく言うのならば」
 きっと愛していたんだと思う。夢を持つきみを。
 カケルが笑っている。もうそこに、桜は無い。
「きみがいつか全てを失う日があったら今度はわたしがきみを満たそう。けれどもきっとそんな日は来ないね。来ないことを願っているよ。けれどもきみが死んだその時は、わたしがきっと迎えに行く。きっとだ。ミチル、忘れないで」
 桜が降る。降り積もる。白と薄い唇の色に埋もれていく。カケルの姿はもう見えない。けれどもわかる。カケルは見えなくとも、ずっと自分のそばに居るのだと。

「ああでも口付け、あれは良かった。もう一度くらい、しておいてもよかったな……」

 声が消える。
 目を閉じる。目を開く。ミチルがいるのはベランダだった。ばらばらになった桜の花びらを拾って、唇を寄せる。それはてのひらで桜貝となり、粉々に砕けた。波の音が聞こえて、顔を上げるとベランダは海へ変わっていた。
 ミチルは砕け散った貝の欠片をさらさらと海の上に振りかけた。まるで海に魔法をかけるみたいに。さらさら。さらさら。血の通った指先が、海の照り返しできらりと光る。さくら色のその粉は、水面を何度か漂った後、波にのまれて沈んでいく。そしてまた、何事も無かったように景色はベランダへ戻っていった。

「カケルちゃん。今日から僕たちは――ひとつだよ」
 そうだよね、カケルちゃん。
 名前を呼べば、どこかで葉っぱが擦れ合うような声が聞こえた気がした。
prev top next