僕と姉の話
(一)

 橙さえも陰る部屋の中はインターナショナルオレンジにも劣らない。一等うつくしい僕の好きな光の色だ。
 床にばらまいたおはじきは、まるで夜空に浮かぶ星々のように、各々全く異なるひかりを放っていて僕を魅了した。散らばったおはじきの上に無造作に寝そべる姉は、下着姿のまま置物のように動かず、その瞳はびいだまのような不安定な透明さで僕を見ている。呼吸をするたびに上下する胸、生まれる鎖骨のくぼみは、唯一姉を人間らしくした。水の中から急に地上に出された魚のような、果てない生を感じるただ残酷な呼吸。彼らのただ悲しくひらいたり閉じたりする銀色のえらは、一定のリズムを刻むだけの無音の呼吸だ。世界で一番綺麗な呼吸をするのは魚だと、僕は思う。
 僕は正座をして、姉から少し離れた場所に座っていた。畳の目が足にくっきりと痕をつけているだろうということが、確認しなくとも僕には分かっていた。靴下に僅かな汗が染みついていて、空気がそれにふれるたびに、僕はこの場所が「夢のなかではない」ということを自覚した。まるでまどろみのように此処には音がなく、においがない。在るのは明暗と、生々しい温度と、ふるびた畳のささくれだった感覚だけ。
 姉は僕がおはじきとおはじきの間に線を引いて、おはじきを弾くのを見ているのみだった。僕は慎重に、おはじきとおはじきの間を指でなぞった。緊張はしていないはずなのに、僕の指はみっともなく小刻みに震えていた。僕はすべての神経を指に注ぎ、おはじきとおはじきの間に境界をひくことで、手前のおはじきを向こう側のおはじきにぶつける権利を手に入れる。指が何処にも触れず境界をひきおわり、僕がおはじきとおはじきの間を見えないハサミで切り離したことがわかると、姉は少しだけ瞳を細めて喜びを表した。僕は出来ることなら姉のその僅かな変化をずっと咀嚼していたいのだけれども、境界をひきおわったのみではこの遊びは成立しない。僕は次の段階へと進んだ。
 人差し指の爪を親指の腹に押しつけて、親指の腹でまた人差し指を圧迫し、ぱちんと人差し指を外側に弾く。爪の緩くカーブを描いた部分が、おはじきのもっともやさしい形をした場所に勢いよく当たって、あらゆる境界を飛び越えていく。ばちばちばちん、と遠慮無しの澄んだ高い音が部屋の中に響く。僕はぶつかったおはじきを丁寧に拾い、自分の膝の上に載せた。膝の上は既に水玉模様のようなカラフルなおはじきで小さな海が出来ていた。ぱちぱちぱち、とさきほどとは打って変わり、やわらかい音をたてて、新しく手に入れたおはじきが海の水を増やす。
 姉はぼくの典礼をただ見ていた。決しておはじきに手を伸ばすことはない。あくまでこれは僕一人の遊びだとでも言うように、姉は沈黙を貫いた。この場所に音は無かった。僕はまるでこのひとときが永遠に続くものでは無いかと錯覚した。多分、この部屋に時を測るものが欠如していることが原因だと思う。僕は時間の感覚を外から入る光と部屋の中に生まれる暗闇だけで推測しながら、ひたすらにおはじきを弾き続けていた。それを姉が求めていたからであったし、僕自身が姉のために――そして自分自身のためにしていたかったからだった。
 おはじきは弾くたびに姉の方へ近づいていった。そしてしばらくすると、おはじきのほとんどは姉の骨と皮と僅かの肉で作り上げられた、陶器のような身体の下に滑り込んでしまった。姉の身体の影からみえるおはじきは薄濃く明るさを落とし、鈍く妖しく光っていた。僕の膝の上にのるおはじきと、姉の身体に触れているそれは全くの別物に思えた。僕のはあくまでただのおはじきだけれども、姉の身体の下で此方を向いているおはじきは、宝石のような高貴で無機質な光を持っていた。
 僕は姉を見た。額にかいた汗が重力に従って顔の上を這っていて、気持ちが悪い。けれども僕はそれを腕で拭うことはせず、ただ姉を見る。
 姉は静かに起き上がった。姉は汗一つかいていなかった。床に姉の輪郭を中途半端に縁取ったおはじきたちだけが残った。姉の着ている白のキャミソールの肩紐が、片方だけするりと二の腕まで落ちる。姉は片方の足を伸ばしたまま、もう片方の足を静かに立て、膝の部分に頭をのせて「続けて」と言った。
 その言葉に従順に従って、僕はまた境界を引いていく。

 すべてのおはじきを自分の膝に載せたとき、僕の膝上の海は膝から落ちるほどに広がっていた。足は既に感覚が無いくらいに痺れていて、僕はとてもくたびれていた。姉はいつのまにか、間の抜けたキャラクターが胸元に印刷されているTシャツを着ていた。僕の髪の毛は汗でぐずぐずに濡れていて、全身から特有の酸っぱい匂いが発せられていることをぼんやりとした頭で感じていた。気持ちが悪い。水風呂か、塩素の臭いがするプールに入りたい、と思った。夏は好きじゃ無い。
 「お疲れさま」と姉は言った。僕は全身の力をといて、姉を見る。お疲れ様、という一言はこの典礼の終わりの合図だった。僕は今日も無事に典礼を終わらせたことに安心した。
 姉はまるで恋人にするように――と言っても僕は『恋人』というものを物がたりのなかでしか知らなかったけれど――僕のおでこに張り付いた髪の毛をすくって、濡れた髪の毛を梳いた。姉の非の打ち所が無い形をした指が、僕の汗で湿っていく。姉はいつもやさしかったけれど、典礼が終わった後の姉はいつもよりもずっと僕にやさしかった。姉は僕にオレンジジュースの入ったガラスのコップを渡すと、「飲み終わったらお風呂に入ろうね」と微笑んで、頬にキスをした。
 僕は黙って頷くと、ガラスのコップの縁に口を付けて、一口ずつオレンジジュースを飲んでいく。からからに乾燥している喉に、オレンジジュースはあまりやさしくないのだけれど、姉はいつもオレンジジュースを僕に飲ませた。甘い味が口の中のあちこちに張り付いて、余計に喉が渇いていく。僕はオレンジジュースを時間をかけて飲み干すと、姉がいつもひとつだけコップの中に入れる氷をあめ玉のように口の中で転がした。


(二)

 姉は真夜中の散歩が好きだった。いつの間にか布団を抜け出して、家を出て行ってしまう。僕はいつも姉について行こうとするのだけれど、姉は決まって僕が寝入ったときを狙って姿を消してしまうのだ。そして僕が姉の不在に気付いて、急いで後を追おうとした瞬間に帰ってきてしまう。
 玄関に立つ僕が不機嫌に姉を睨むと、姉は「大きくなったら連れて行ってあげる」と必ず頭を撫でる。僕は最初、姉だって子どもじゃないかと、その手のひらから逃れようとするのだけれど、二度三度と姉の手のひらが僕の頭をやさしく撫でるうち、「次は連れて行ってよ」と、仕方ないなあという風に言ってしまうのだ。それは僕が姉を許したという合図だった。姉は僕がその言葉を口にすると、「そうだね」と言って僕の手を握り、部屋に戻るよう促す。僕たちは今度こそ二人で布団に入り、手を繋いだまま眠る。
 父と母は共働きで、家にはなかなか帰ってこない。帰ってきても朝方か、僕と姉が学校に行っている時間帯に帰ってきて、生活費と簡素なメモを置いて行くだけ。両親は僕と姉に関心が無かった。僕はそれを寂しく思ったけれど、姉はなんとも思っていないようだった。ただ机の上に置いてある茶封筒の中身を確認すると、つまらなそうな顔で僕たちの部屋の鍵のついた引き出しの中にしまった。

 僕と姉はよく一緒に買い物に行った。家でも饒舌ではなかったけれど、出かけるとき、姉はいつにも増して無口だった。姉は僕以外の人間を信用していないような目で見た。子どもに対するまなざしはいつもやさしげだったけれど、大人を見るときの姉は、あのお金の入った茶封筒をみるときの、酷くつまらないものをみるような目をしていた。たまに「おつかいかい、えらいね」と声を掛けられると、姉は知らん顔をした。「ありがとうございます」と笑うのは決まって僕の役割で、姉はずんずんと先に進んでは僕がやってくるのを待っていた。
 僕と姉は買い物に行った帰り道、いつも公園によってから帰る。僕と姉が食べるぶんの食材はそう多くない。荷物を持つのも決まって僕の役割だ。僕は姉が持ってくれても良いのに、とたまに不平を漏らしたけれど、実際の所自分が荷物を持つことに不満など抱いていなかった。姉の不安定な腕がビニール袋をさげているのを想像するだけでぞっとする。姉は人間らしさが無い。故に、人間らしいものを姉が持つと、たちまちそれは不安定になってしまう。持たれている物も可哀想なくらいに居心地が悪そうだし、姉の身体はいつどこかが壊れてもおかしくなさそうに見えるのだ。
 僕は姉が重力が無いみたいに歩いているときが安心するし、まるで自分が人間で在ることを忘れたように子どもや大人を見ている方がずっと姉らしいと思う。僕はビニール袋を自分のベンチの上に置いて隣に座った。姉も続くように僕の横に座る。
 姉は公園に自分と僕以外の誰も居ないかをたしかめるように首を動かした後、「今日もおつかれさま」と言った。姉は僕以外の人が居るときに話すのを好まなかった。外に居るときは決まって僕と二人だけの時に、まるで内緒話をするようにささやかな声で話す。
 その日の姉は沈んでいる様子だった。姉は地面を這っている蟻たちを見ていた。蟻たちはまるで一つの直線をつくるように列になって歩いていた。
「知っているか?」と姉は突然話し始めた。
「蟻って足跡を残すんだって。自分の家族にしかわからない足跡を残して、家族がその足跡をたどるようにする。蟻の行列ができるのはこの足跡のせいなんだって。みんな忠実に足跡をたどるんだ。蟻は働き者だから。彼らはこの道筋だけを見て歩いている。わたしのことも、きみのことも見ないで、ただ一心に自分の家族が残した道をたどっている」
「そうなんだ……」
 僕は感心して蟻を見た。蟻は糸のような手足を器用に動かして、なにかとても小さいものを口にくわえて運んでいた。姉は蟻に視線を注いだまま続ける。
「でもね、たまに円を描いてしまう蟻がいるんだって。原因はまだ分かってないらしいんだけれど」
「円を? でも円って……いくら歩いても同じ場所をぐるぐるしちゃうんじゃ……」
「そう。蟻たちは永遠に円の中を回り続ける」
 姉の声が一段階低くなって、僕は驚いて姉の顔を見た。姉は相変わらず蟻がいる方向に視線を落としていたけれども、その瞳は蟻ではなく、なにか別の物を映しているように見えた。
「どうするの、それで」と少し怖くなった僕は姉の袖を引いた。
 姉は一瞬僕に目を向けて、すぐに逸らした。
「……そのまま自分の体力が無くなるまで歩く」
 僕は姉が反応してくれたことに少しだけ落ち着いて、また蟻を見る。蟻はあいかわらず、前を歩く蟻が歩いたとおりの道をなぞっている。均等な感覚で足を動かす彼らは、姉が口にした怖ろしい円のことなど知らない風だった。きっと彼らはこの先に自分の巣穴があり、自分の家族を待っていることを疑っていないのだろう。
 僕は想像してみた。もしこの直線が円であったなら。巣穴などその円の上にはなく、ただの道しか無かったのなら。彼らはどうするのかと。この先に巣穴、或いは自分の仲間が見つけた何か大事な物があると信じて歩く蟻。円の中の蟻は懸命に歩き続ける。自分の体力が無くなるまで。懸命に足を動かす。彼らは働き者だから。
 僕は想像の中の蟻たちに一つの答えを見つけ、たまらず姉に聞いた。その答えを否定して貰いたかったのだ。
「体力が無くなったらどうするの」
 僕の問いに姉は口を閉ざした。それは僕の中で肯定だった。姉はきっと僕が想像していたことをもうとっくにシミュレーションし、僕と同じ答えを弾き出したに違いない。僕は自分の気持ちが一瞬で沈んでいくのを感じた。
「不幸だと思う?」
 姉は僕に問いかけた。「不幸だと思う?」
 僕は正直どう答えて良いか分からなかった。僕は円の中をぐるぐる回る蟻たちを思った。彼らは彼らの信じる道を歩いている。その彼らの行動に僕は勝手に不幸だと名付けて良いのだろうか。それは僕が不幸だと口にして良いものなのだろうか。咄嗟に可哀想だと思った。だから僕の気持ちは沈んだ。けれども果たして彼らは不幸なのか。彼らはきっと可哀想だと思って歩いているわけでは無い。可哀想だという気持ちはあくまで僕のもので、それは彼らの物では無い。
「……姉さんはどう思うの?」
 質問を質問で返すのは御法度だと分かっていたけれど、いわずには居られなかった。
 長い沈黙が流れた。空が僕の好きな橙色に埋められて、ゆっくりとインターナショナルオレンジに近づいていく。もう少したてば空は茜色に変わって、光を落とした後、夜が訪れるだろう。そろそろ帰らなくてはいけない時間だ。
 雲と空の境界を探すのが難しくなった頃、姉は夕日を見ながら「わからない」と答えた。その横顔は本当に分からないと言うように困り果てたものだった。
「わからない。わたしには彼らが不幸なのか、それとも幸福なのか。わからないんだ」
 僕は姉の手を掴んで「帰ろう」と言った。足下の蟻の列を踏まないように気をつけながら、ビニール袋を持った。透明の袋を数匹の蟻がのぼろうとしていていたのを軽く払って落とすと、姉と手を繋ぎながら公園を出た。僕は心の中であの蟻たちが円を描くことが無いように祈った。

 その夜僕は姉に手を引かれて、円の上を歩く夢を見た。
 姉は円の形に描かれたインターナショナルオレンジの線の上を歩き続ける。僕は姉の手を掴んだまま、同じようにその道を歩いて行く。歩いても歩いても円の上から出ることは出来ない。僕と姉は永遠とその円状を回り続ける。足が千切れそうに痛くなり、喉が渇く。意識が朦朧としてくる。身体のパーツがすべてばらばらになってしまうようだった。けれども僕と姉は、歩くのをやめない。
 僕はふと典礼を思った。おはじきをはじく僕と、それを見ている姉。僕はあの時の気持ちと、今の気持ちが全く同じだと言うことに気付く。身体中が熱くて、汗がとめどなく流れている。どこもかしこも悲鳴を上げていることが自分でもよく分かる。けれども僕はやめようとしない。むしろやめるという選択肢自体、はじめから僕の中に無いように思えた。
 何故だろう、と自分に問いかけて、僕はすぐに答えを知る。
 ――きっと姉が此処に居るからだ。
 姉が手を引いてくれるのならば、姉が見ていてくれるのならば、すべてが終わった後に何よりも微笑んでくれるのなら、僕はいくらでも頑張れるのだ。なんだってできるとおもうのだ。僕は不幸じゃ無い、と思った。円状をひたすらに歩いた蟻たちがどんな想いだったか、僕には分からない。けれども僕は、姉と回ることが出来るのならば、この不毛な円の上は不幸では無いと思った。
 僕は手を引く姉の手を掴みながら、転んでしまう。僕は自分の最後を予感した。もう動かない身体を、姉が抱きしめている。最後に僕の瞳に映るのは姉だ。姉は幸福そうに僕を見て、けれどもとても悲しい目をして僕を見ている。姉の唇がそっと動き、空気が震える。けれども僕にはもう音が聞こえない。唇の動きだけで僕は姉の言葉を知ろうとする――。

 目を開けると姉が心配そうに僕の身体を抱いていた。
 僕は僕のうなじを支えている姉の手の温度が、全く自分の肌の温度と同じだと言うことに驚きながら、姉を見ていた。
 姉は「悪い夢でも見た?」と言う。
 僕は小さく首を振って、「悪い夢では無かったよ」と答える。嘘じゃ無い。本当だ。
「姉さん」
「うん」
「もし姉さんが歩いた道を僕も歩くとして」
 僕が口に出した数少ない言葉で、聡い姉は、僕が話しているのは昼間の蟻の話の延長だと言うことに気付いたらしかった。昼間夕日を見たときの顔と同じ顔をして僕を見下ろす姉に、僕は続けた。
「僕は不幸じゃ無いよ」
「…………」
「何度同じ事を繰り返しても、そこに姉さんが居るなら、僕は不幸じゃ無い」
 姉はそう、とだけいって僕の頭を撫でた。僕は再び眠くなって、そのままするすると目を閉じる。姉が頬にキスをしてくれた感覚を最後に、僕は再び眠りに落ちた。
 今度は何の夢も見ず、朝目が覚めたときにはもう蟻の夢を見たことも、姉と話したことも忘れてしまっていた。姉はいつも通り僕におはようとほほえみ、僕はランドセルの紐に腕を通す。

 姉の真夜中の散歩は中学生になっても続いていた。姉は中学の制服がお気に入りだった。黒のセーラーに、白のラインがくっきりと刻んである制服は姉によく似合った。姉は飽きないのかと思うほど、いつもそのセーラー服を着ていた。そして真夜中の散歩の時も、決まってその制服を着るようになった。
 僕は姉が通報されはしないかとヒヤヒヤしたものだけれど、姉は全くそんな心配はしていないようだった。姉はいつも通りふらりと家を出ては、いつのまにか僕の隣の布団で眠りについた。外を歩いてきた姉の服はいつも春の風のかおりがする。
 開けたままのカーテンから、月の白い光が部屋に差し込む。姉の白い頬をうつす。
 もし「ねえ、姉さん。そろそろやめたほうがいいんじゃないの」と僕が言ったら。姉は笑みを浮かべるだろう。笑って、それだけ。こういうときの姉は、僕の話など少しも聞かない。
 僕は姉のことを心から愛している。
 けれども、僕の知らない世界で生きる姉のことは、大嫌いだった。
 僕の見えない場所に生きる姉のことを、僕は心から憎んでいた。
(三)

 つるつるとしたバスタブの表面を、スポンジで擦る。柔らかい白い光が、小窓から差し込んでくる。何度も表面を擦りながら、無い汚れを見つける。黒ずみも、カビのあとも、水垢も見えない。けれど、ひたすらにスポンジを滑らせる。自分のからだを洗うときよりもずっと優しく、そして、ずっと無機質に。
 数年前、このマンションに引っ越してきたときから、この浴槽には一度も入っていない。けれど、僕はこの掃除を一日として欠かしたことがない。
 普段、家に帰ってこない母と父は、それでもたまにこの場所を訪れる。居なかったときの知らない空気を、触れたことの無い時の流れを無理矢理くみとるように、明るい声で。
 そして、僕の機嫌を取るために、必ず何かお土産をもって来る。それは外国の甘ったるいお菓子だったり、日本のどこかの特産品だったり、すぐ近くにあるコンビニの新発売のプリンだったりしたけれど、どれであっても、僕の機嫌が良くなることは無かった。そもそも、悪くもなっていないのだから、何をしたって同じだ。母と父は僕のことを分かっていない。僕はふたりが思っているよりも、ずっと無関心だってことを。
 蛇口を捻ると、シャワーが勢いよく吹き出す。ざあざあ、という雨のような音に耳を傾けながら、浴槽の泡を落としていく。冷たい温度に足の爪が悲鳴をあげたけれど、僕は無視していた。目を瞑ると、梅雨の景色が瞼の裏にうつった。紫陽花、かたつむり、濡れたアスファルト、洗練された雨の匂い、憂鬱そうな、姉の横顔――そこまで考えて、自分の足の下を滑っている水が、温かくなっていることに気付いた。
 振り向くと、脱衣所に呆れた表情をした姉が立っていた。何も言わずにじっとこちらを見る姉の瞳をみて、僕はガスをつけ忘れていたことを思い出す。冷たい水より、温かいもので洗ったほうが汚れが落ちるから、必ずガスをつけてから掃除をすること。姉との約束を、愚鈍な僕はいつも忘れてしまう。僕がごめんなさい、と小さく呟くと、姉はそのまま脱衣所を出て行ってしまった。
 僕はなんだか姉に見捨てられたような気がして、そのまましばらく放心していた。足の下を水が滑っていく。僕の足を縁取るように、流れが出来ていく。それを自覚した後、蛇口を捻って止めると、姉さんの後を追いかけた。在り来たりな感情だけれど、なんだか急に姉さんに見捨てられたような気がしたのだ。

「……足、びしょびしょだよ」
 慌ててリビングにやって来た僕を見て、姉さんが笑う。下を向かなくても、濃い茶色をしたフローリングに、足跡がくっきりと残っていることは分かっていた。――さむくないの? 姉さんからの問いに、首を横に振る。僕にとって大事なことは、寒いかどうかなんていう僕自身のことではない。
「赦して、姉さん」
 僕がそういって近づこうとするのを、姉さんが制した。僕はまた突き放されたような気持ちになって、口籠もる。姉さんは僕を椅子に座るように促すと、そのままどこかへ行こうとした。思わず手を掴むと、姉さんは少しだけ僕に微笑みかける。その表情を見たら、僕はもう何も言えなくなって、ただ姉さんの帰りを、このちっぽけな椅子の上で待つのみだった。
 姉さんは小さいタオルを片手にすぐに帰ってきた。そしてぼうっとしている僕の前に座ると、そっと足を拭いてくれる。驚いた僕が自分でやるといっても、姉さんは無視した。丁寧に指の間まで水分をぬぐうと、仕上げにとでもいうように、両手で僕の足を包み込んだ。僕はその時始めて、自分の足が酷く冷えていたことに気付く。僕は、姉さんの白い手が汚れ、冷たくなるのが怖かった。再度大丈夫だと口にしたけれど、やはり姉さんは無視して、僕の足をあたためてくれた。足の甲を撫でる姉の指はすべすべとしていて、くすぐったかった。僕を労る姉の表情は、まるで神さまのようだったと思う。そう感じたのは、姉がまるで祈っているかのように僕の足をあたためつづけてくれていたからだろう。姉の体温は高い方では無い。だから、すぐに姉の手の温度と僕の足の温度は同じになってしまった。いや、むしろはじめから、ほとんど同じ温度だったといってもおかしくなかった。けれども、姉は温め続けた。僕の足が少しでも温まるのを願って。祈るように、なで続けていた。僕は、この時間が永遠に続けば良い――なんて、どこかの小説で見たような、フレーズを思った。この時間がずっと続けばいい。姉さんが居て、僕が居て。僕に必要なのはそれだけだ。それは多分、これから先もずっと変わらない。ぼくはずっと姉と生きていくのだと思った。きっとそうだろう。僕は姉さんが居ればそれでいい。それがいいのだ。この世界にふたりきりになったって、構わない。そう、多分僕は、姉さんを――。
 そこまで考えて、言葉が浮かばなくなる。僕は、姉さんを。……なんだというのだろう。
 僕にとって姉さんとは、必要不可欠な人。まるで身体の一部のような、精神のようなもの。僕の心といってもいい。けれども、「僕は」「姉さんを」――そうなると、僕は自分が何も持っていない気がする。この先の言葉を弾き出せない。ぴったりの言葉が、見つからない。以前、姉さんが教えてくれたはずなのに。≪僕は、その言葉を知っているはずなのに≫。
 その時、姉さんがぼくの肩を叩いた。はっとしたように顔を上げる僕に、姉さんは「お風呂に入ろう」といった。いつの間にか、結構な時間が経っていたらしい。僕は、足を温めてくれたお礼を言うタイミングを失ってしまった。そしてそのまま、姉さんに手をひかれるままに、再び風呂場に向かった。
そして今日も、僕たちは浴槽に入らない。



(四)

 姉さんはよく、僕に友達を家に連れてこいといった。けれども、僕には友人と呼べるほど仲の良い人間が居ないので、姉さんに従うことは出来なかった。そう告げると、姉さんは決まって寂しそうな顔をした。僕は姉さんが居るから大丈夫。寂しそうな姉さんにそう言葉をかけると、姉さんは更に悲しそうに俯いてしまう。僕は、いつもこの瞬間が苦手だった。姉さんが求めるものには全て答えたいのに、それが出来ない自分が歯がゆかった。
 小学校四年にあがった歳、僕はひとつのことを思いついた。姉さんのためなら、僕はなんでも出来る。それならば、友達関係をつくるということも、努力次第でどうにでもなるのではないかと。元々、人が何を求めているのかは、話していればたいていわかることだった。今まで僕に友人ができなかったのは、僕が必要性の無い物として、他者を遠ざけていたからだ。自分から歩み寄れば、すぐにできるはず。どうしてもっと早く気付かなかったんだろう?
 朝、いつも通りに登校すると、前の席の――たしか名前は――頭の中を探ったけれど、頭文字さえ見つからない。仕方なく、消しゴムを彼の足下に落とす。すると彼は、少し迷った後、僕の消しゴムを拾って、机の上に置く。僕は消しゴムを手にとって、さりげなく彼の胸につけられた名札を見た。お母さんの字だろうか。やけに綺麗な字で、「成宮螢」と書かれている。
「……ありがとう。成宮くん」
 僕がそういうと、成宮くんは驚いた顔で僕の目を見た。そしてしばらく見つめた後、「お前、喋るんだな」と笑った。僕は「一応ね」と答えると、成宮くんが拾ってくれた消しゴムを筆箱の中にしまった。
「消しゴム落としたの、わざとだろ」
 成宮くんがなんともいえない表情で僕に語りかける。僕は黙っていた。
「お前は消しゴムを落とすなんてヘマはしない」
 僕が微笑むと、成宮くんは笑って、そのまま僕たちは会話をやめた。特に根拠なんてないのだけれど、成宮くんと僕は友達になるだろうなと思った。そして僕の直感は当たった。


(五)

 成宮くんが僕の家に遊びに来たのは、消しゴムを落とした日から一週間ほどたった頃だった。成宮くんという人間は不思議だ。これまで僕は彼という人間に興味がなかったから、全く気付かなかったのだけれど、成宮くんはどうやらクラスの中でも人気者という枠に入っているらしい。ふと気付くと、彼の周りにはいつのまにかクラスの男の子達が集まっているなんてことがよくある。時々女の子の姿もあって、僕は感心してしまった。彼らは休み時間になると、教室の後ろに置いてあるサッカーボールや、ドッジボールなんかを持って外に駆けだしていく。僕はそれを横目に見ながら、ただすごいなあという気持ちで本を読んでいる。けれども成宮くんは、いつもその輪に入っているわけではなくて、たまに僕の隣の席に座ると、何かをノートに書き記していたり、図書館でひとりぼうっとしているなんてこともあった。けれども誰も、成宮くんの邪魔はしないのだ。一緒に遊ぼうと誘うクラスメイト達も、成宮くんが今日は本を読むといえば素直にそれに従ったし、成宮くんが一緒にバスケをしようといったらみんなで体育館に向かった。僕はその一連の流れを見るたび、彼は不思議なひとだと思うのだ。
 そういえば、僕は一度、彼の名札に記された文字のうつくしさについて指摘したことがある。綺麗な字だね、お母さんが書いたの? そう問いかけた僕に、彼は自分で書いたのだときっぱりといった。僕は咄嗟に彼がついた嘘だろうと思ったけれど、彼は僕のノートを奪うと、ページのはしっこに、名札と同じ筆跡で自身の名前を書いてみせた。へえ、たいしたものだねというと、彼は少しだけ得意そうな笑みをみせた。彼は褒められることが好きだ。
 成宮くんは、みんなの前ではよく喋るけれど、僕といるときは無口だ。ふたりでいても、話すことは少ない。大抵僕は本を読んでいて、彼はノートに何かを書いている。何を書いているのかは知らない。
 成宮くんは最初、僕の家に両親がいないことを告げると、遊びに来ることを渋った。保護者のいない家に行くのはよくない、なんて道徳の教科書のようなことを言う彼に、僕はため息をついた。そのことなら、姉さんがいるから大丈夫。僕が答えると、成宮くんは「お前、姉がいたのか」と驚いていた。僕はいってしまってから、成宮くんに姉の存在を告げてしまったことが間違いのように思えた。そもそも成宮くんと仲良くなったのは、姉に会わせるためで、姉が僕の友人に会うことを望んだからそうしただけなのだけれど――それでも、何か僕は間違いを犯してしまったように思えてならなかった。

 鍵を開けて中に入る。いつもの家のドアが、今日は酷く重く感じられた。成宮くんは礼儀正しく、「お邪魔します」というと、靴を揃えて僕に続いて中に入った。部屋の奥から声は聞こえてこない。成宮くんが姉さんの姿を探すように視線を動かす。僕は黙って扉を閉めて、うす暗い部屋に電気を点ける。


「どこか出かけるなら言ってくれれば良かったのに」
 原稿用紙をぼうっと見つめながら鉛筆をかじっている姉さんを見て、僕は非難めいた言葉をかける。姉さんは一瞬僕のほうを見て、また原稿用紙に目を落とした。
「まさか誰かを連れてくるだなんて思わなかったから」
 姉さんはそういうと、小さく「ごめん」とだけいった。僕は姉さんにもうひと言、何事かいいたかったのだけれど、今更何を言っても仕方ないと思い直して、口を噤んだ。僕は姉さんの持っていた鉛筆を取り上げて、ボールペンに入れ替えると、そのまま自分の部屋に戻ろうとする。すると、「楽しかった?」と姉さんが僕に問いかけた。その言葉がやけに冷たく聞こえたように思えて、驚く。僕は勢いよく振り返ったのだけれど、姉さんはいつも通りの表情を浮かべているだけだった。僕は姉さんの知らない一面をのぞいてしまった気がして、少しだけ怯えた。まるで『あの瞬間』のようだと思った。僕が強く憎んでいる、僕の知らない世界の姉さんが顔を出した気がした。夜の散歩を続ける姉さんの白い手が、喉を包み込んでいるようだった。冷ややかな声に住んでいる悪意のはしっこを、たしかに感じた――ように思ったのだけれど。……なんだ、気のせいか、と少しだけ残念そうにしている自分に気付かないようにする。僕は一体姉さんにどう思ってもらいたかったんだろう。いや、姉さんを喜ばせるために成宮くんという友人を連れてきたはずだ。それは姉さんが望んでいたことで――それだけだ。それだけが目的の筈だ。確かめるように姉さんを見つめる。自分の行動と感情のひとつひとつが、パズルのピースのように頭の中でばらばらになっているように思う。何かが姉さんと僕の中でずれていくように思うのは、ただ僕が感情的になっているだけだろうか。けれど、それは決定的であるかのように思えた。これがただ僕の感情ならそれでいい。――それでいい、けれど。
 姉さんは見つめ続けている僕を不審そうに一瞥すると、原稿用紙を綺麗に折りたたんで、ポケットに入れた。僕は姉さんのポケットの中で綺麗な長方形を保とうとする原稿用紙を想った。何故かそれに自分の姿を重ねた。綺麗な形を保とうとする原稿用紙は、姉さんのポケットに入り続けているうちに、きっとはしっこがめくれて、カーブを描き、折り目が付いた場所は弱くなって、そのままいつかは千切れてしまうだろう。けれども原稿用紙は原稿用紙であり続けることしかできず、一度折られた原稿用紙はその形を保つ努力をし続けるしかない。それが望みであり、唯一の答えであるから。たとえそのまま洗濯機に入れられて、粉々の紙の粒になったとしても、もとが原稿用紙であるという運命は変わらない。僕はそれと同じだ。たとえ水の渦に飲まれて消えていくことがあっても、僕の僕自身という運命は変わらない。むしろそれが宿命だともいえる。それを悲観することはない。たったひとりでない限り、僕が姉さんのポケットの中にいるかぎり、僕は僕自身であることを悲観しないでいられる。そのはずなのだ。そう、そのはず。そのはずだ。
「姉さん、明後日は家にいる?」
 そう聞くと、姉さんは少しだけ沈黙した後、「明明後日ならいるよ」と答えた。いつもなら毎日家にいるのに、明日と明後日という空白の時間の不可解さに僕は首を捻った。まあ、明日成宮くんは塾に行くと言っていたし、遊びの誘いをするにしても、明明後日くらいが丁度良いのかも知れない。僕は「分かった、じゃあその時に紹介するね」と言って、姉さんの返事を聴く前にリビングを出た。


(六)

 僕が二回目の誘いを成宮くんに持ちかけたとき、成宮くんは訝しげな顔で「お前、何が目的なの?」と言った。僕が損得勘定抜きで誰かと付き合わないことをよく知っているらしかった。僕は「ただ姉さんに会ってもらいたいだけなんだ」と正直に告げると、彼は「結婚の挨拶じゃないんだから勘弁しろよ」と気持ち悪がった。けれど、僕がまたコーラを飲ませてあげると耳打ちすると、彼の態度は軟化した。成宮くんの家は厳しいらしく、炭酸の入った飲み物は俗物として禁止されているらしい。彼が飲んでもいいのは、お母さんがブレンドしたハーブティと青汁、牛乳だけ。そう聞いたとき、僕は始めて僕に対して無関心な両親に少しだけ感謝した。成宮くんの家は病的だ。そんなものばかり飲んでいたら、身体の中が道徳的に染められても仕方が無いと思う。僕がそう話すと、成宮くんは僕の誕生日に、成宮くんのお母さん特性の青汁をプレゼントすると約束してくれた。僕は嬉しくて涙が出そうだよ、と彼の足を踏んだ。
 放課後、いつもの帰り道をひとりで歩く。成宮くんはいつもランドセルを家においてから遊びに行くと決めているらしい。僕は彼がランドセルを置きに帰っている間、家の近くの公園で時間を潰している。幸いにも彼の家は僕と姉さんの家からさほど離れていない。川を挟んで、向こう側に渡ったところにある。僕はこの川があまり好きでは無かった。川というものはなんだかいつも気味が悪い。夜に見ても昼間に見ても、なんだか少し危うげで、得体が知れない。海と違って、川の気色悪いところは、その穏やかさにある。海は常に一定の危うさを此方に寄せては返す。けれど、川は違う。川は昼間、とても穏やかで優しいように装う。けれども一旦夜になると海と同じ凶暴性を露わにする。夜の水は気持ちが悪い。全てを捕食するような鈍い黒は、僕を嫌な気持ちにさせる。川も海も大嫌いだ。
 成宮くんは僕と会うとき、必ず橋で僕と待ち合わせしたがる。けれど僕は毎度それを拒み、近くの公園を指定する。川の上に架かる橋で人を待つなんて考えられないことだった。川がいつ僕に襲いかかってくるかじっと目を凝らしていなくちゃいけないだなんて勘弁してほしかった。気がまいってしまう。ベンチに座って蟻の巣を探しているほうが何倍も良かった。
「お待たせ」
 俯いていると、感情の読めない声で成宮くんが僕に声を掛けた。「待ちくたびれたよ」と嘘をつくと、「へえ」とだけ返ってくる。成宮くんは良い性格をしている。「いこっか」と僕が立ち上がると、成宮くんが「まあ、待て」と立ち上がりかけた僕を制した。
「なんでお前はお前の姉ちゃんに会わせたがるんだ?」
 僕は少しだけ悩んだ末、「友達を紹介しろって前から言われてて」と再び正直に告げた。友達といったとき、成宮くんが嫌そうな顔をしたので、軽く足を踏もうとすると、後一歩というところで避けられる。
「お前にとって姉ちゃんってなんなの」
 その質問に僕は詰まった。自分でも驚くくらいに、心臓がひやりとするような錯覚をおぼえた。「なんだろうね」と僕が流すと、成宮くんは僕の足を踏んだ。
「なにすんの」
 成宮くんを睨むと、彼はもう既に僕の家へ歩き始めていた。僕は彼の目を見て、彼が怯むくらい睨み付けてやりたかったけれど、その後ろ姿に射るような視線を向けるだけにとどめてあげた。

 一昨日と同じようにドアを開ける。この間よりドアは重くなかった。「姉さん」と僕が部屋に向かって呼びかける。返事はないけれど、この間と違って、彼女がちゃんとそこにいる気配だけはしていた。僕が入るように勧めると、成宮くんは「お邪魔します」と丁寧に呟いて、中へ足を踏み入れた。床が彼の体重を受けて小さく軋むのを聞き、僕は自分の内側が緊迫していくのを感じる。衝撃をあたえると固まるゲル状のカイロみたいだと思った後、自分の語彙の無さに辟易した。
「姉さん。成宮くんが来たよ」
 僕が再度声を掛けると、姉さんが酷く大儀そうに部屋の奥から出て来る。姉さんはいつも音を立てずに歩く。吸い付くように床に触れる姉さんの足を見ていると、成宮くんが姉さんのほうに一歩踏み出す。姉さんは成宮くんをじっと見つめていた。まるで彼の中の彼を見ているような遠い目だった。成宮くんが姉さんを見る。ふたりはただ何も言わず、静かに視線を交わしているだけだった。こういうとき、僕が間に立って紹介すべきなのだろうか。微妙な空気感がリビングを満たしている。沈黙に堪えきれなくなって僕が口を開くと、その時、成宮くんが言った。
「……お前の姉ちゃん、今日も出かけてるんじゃん」


(七)

 成宮くんが帰った部屋はうす暗かった。何を話したか、何を食べたか、何を飲んだのか、何も思い出せない。ただただ成宮くんの発した言葉だけが頭を反響して、あとはもう考えられなかった。考えたくなかった。成宮くんにも怪しまれたと思う。今の僕はいつもの僕ではない自覚があった。姉さんがいつも通りなのがおかしいのだ。僕は腹立たしかった。何故姉さんはいつも通り、表情を変えずに僕と成宮くんを見つめていたのだ。
「……いつまで怒ってるの」
 姉さんが、お湯の張っていない浴槽に沈んでいる僕に問いかける。
「怒ってなんかない」
「怒ってる」
「だとしたら、そうさせたのは姉さんだよ」
 ぴかぴかに磨かれた浴槽から、微かに洗剤の匂いがする。姉さんは静かに縁を跨ぐと、僕の入っている浴槽へ侵入してきた。
「本当は知ってたんでしょ」
 見ない振りをしてきたのは、君だよ。姉さんの紫色の瞳が、僕を射貫く。今この場所で姉さんを責めているのは僕なのに、姉さんは僕を責めていた。そう、いつだって姉さんは僕を責めている。僕のことを憎んでいる。
「本当は知ってたでしょ」
「何を?」
「すべてを」
 姉さんが笑う。酷く歪な笑い方だった。泣きたいのか、怒りたいのか、憎んでいるのか、救われたいのか。この世にある全ての感情の具現。かもしれないと思った。姉さんは正しい。姉さんは嘘つきだ。そして僕は、
「……馬鹿にしないでよ」
 馬鹿にしないでよ。姉さん自身が姉さんを拒絶し、否定するなんておかしい。僕はいつだって姉さんを思い描いてきた。信じ続けてきた。肯定し続けてきた。"姉さんの存在を、確かなモノにしてきたはず"だ。だって僕は姉さんのことを――僕は、姉さんのことを――また言葉が詰まる。思考が躓く。深みにはまっていく。その先に進めない。進むことが叶わない。僕が僕自身の深知から逃げてきたとして。それを止めるために、姉さんが成宮くんを此処に呼んだのだとしたら? 姉さんのしたいことはいったいなんなのだろう。何故姉さんは、成宮くんを呼んだのだろう。
「……姉さん。僕に隠し事を、していないよね」
 僕は姉さんを見つめた。姉さんはいつの間にか笑うのを辞めていた。姉さんは酷く暗い目をしていた。今まで見たことのない――知らない色をしていた。姉さんは答えなかった。僕は姉さんの手を掴んだ。いつも僕に触れてくれる優しい手。いつか、僕の足を温めてくれた無条件の白。今すぐそれに触れたかった。そうしないと、姉さんがこのまま、ばらばらになって消えてしまいそうだった。僕は姉さんを抱きしめて、暮れなずむオレンジに照らされていた、陶器のようなすべて。おはじきを飲み込んだ骨。その全てを感じていたかった。けれども、できなかった。
「もうすぐなんだよ」
 姉さんは微笑んだ。いつもの優しい笑顔だった。僕のことを愛している微笑みだった。この人は、僕のことを愛しているのだと思った。心から憎み、心から信じ、求め、愛し、嫌っているのだと。何も聞きたくなかった。何も見えなくなったっていい。何も感じなくなってもいい。――けれど、姉さんを失うことだけは堪えられなかった。
「もうすぐっていつだよ」
「もうすぐはもうすぐ。……少しだけ先」
 いつだって姉さんは先の話ばかりする。不確定な話ばかりをする。僕は大嫌いだ、そういうの。大嫌いなんだ。確かなモノだけを享受していたい。不確かなモノは信じないでいたい。ただ僕の手のひらにある、それだけを大切にしていたい。それだけしかできない。今も、昔も、その前だって、僕はずっとそうだ。
 僕には見えている。僕には視えている。姉さんの色素の薄い髪の毛も、その人形のようにうつくしい容姿も、指先も、温度も、なにもかも僕の目には見えているのだから。だから、良いのだ。何も怖くない。姉さんがいれば、もうそれだけでいい。他には何も望まない。――だから。だから、お願いだ。それだけは奪わないで欲しい。他の何を差し出したって構わないから、姉さんだけは奪わないで。
 この円の中を回り続ける僕たちを、終わらせる資格なんて、この世界の誰にもない。
「うんざりだよ」
 僕は浴槽の磨かれた婉曲に寄りかかった。強く目を瞑る。何も考えたくなかった。もうこれ以上、歩き続けることを阻害されたくなかった。
「――被害者ぶるな」
 その時、頭上から冷たい雨が降ってきた。僕はぎょっとして身震いをしたけれど、雨はやまなかった。起き上がって浴槽から出ようとする僕の首に手が掛けられた。姉さんだった。
「お前は――何も分かってない。何も、分かってないよ」
 もうおしまいなのだと姉さんが泣いた。僕の頬に落ちてくる雨粒が、姉さんの涙なのか、シャワーから発せられる水鉄砲なのか、僕には分からなかった。分からなくてはならないのに、全然分からなかった。姉さんのいうとおりなのかもしれない。僕は、何も分かっていないのかも知れない。――けれども、何を?
「僕は、僕から見える姉さんしか分からない」
 僕がいくら姉さんという人間の全てを理解しようとしても、僕は僕にとっての姉さんという側面しか、側面でしか姉さんを推し量ることができない。僕は僕にとっての確かなモノしか享受できない。不確かなモノは信じられない。ただ僕の手からこぼれ落ちる、あらゆる何かのことなんて、どれだけ大切にしたくたってできない。
 今も昔も、その前だって、僕はずっとそうだ。
「でも分かりたいんだよ、姉さん。姉さん。僕は、そうやってこの道を、ずっと歩いてきたんだ」
 耳元で聞こえる仮初めの雨音がうるさい。絶え間なく降り注ぐ水のせいで、姉さんの表情が見えない。僕は姉さんの白い頬に触れた。姉さんの頬は温かかった。僕の首を姉さんがへし折ってくれたらいいと願っていた。死にたいわけじゃない。でも、姉さんがそうしたいなら、そうすれば姉さんと一緒にいられるなら、それでも構わないと思う。
「お前は何もかも知ってるよ。……"満"」
 姉さんが僕を抱きしめる。顔に絶え間なく雨粒が当たる。窒息してしまいそうに苦しかった。僕は金魚のように口をぱくぱくとさせていた。ひとつひとつの呼吸が、とてもうつくしいものに思えた。音はない。魚になれたらと思った。そうしたら僕も少しだけうつくしくなれると思った。姉さんのように。――遠くで、水の流れが聞こえる。


(八)

 次の日、成宮くんに呼び出された。空き教室はほこり臭くて嫌いだ。使われ続けている教室よりも、古びていくのが早く思える。成宮くんはいつにも増して難しい表情をしていた。眉間に皺が寄っている。僕は人差し指でそれをほぐしてあげたい衝動にかられたけれど、やめておいた。成宮くんに何を聞かれるかは大体予想が付いていた。
「もう一度聞くけど」
 成宮くんはそう唐突に始めた。もう一度聞くけど。
「お前にとって、姉ちゃんってなんなの?」
 その表情が、昨日よりもずっと真剣で、ずっと慎重なのがおかしかった。これじゃあまるで本当に友達みたいだ、と思って、今更かと思い直す。僕と成宮くんは多分、本当に友達なんだろう。本当の友達ってなんだかよくわからないけれど、この言葉がきっと正しい。僕は彼の友達で、彼は僕の友達だ。
「姉さんだよ」
 僕は答えた。姉さんは、姉さんだ。それ以外でもそれ以上でもなく、この言葉よりふさわしい関係性を、僕は知らない。ずっと知らないでいたい。だって僕と姉さんには、それしかないのだから。
「嘘だね」
 成宮くんはいった。
「嘘つき」
 成宮くんはそういって、僕を睨んだ。冷ややかな瞳だった。
「そうやっていつまでも自分の事を騙し続けられると思ってるのかよ」
 成宮くんは僕を真っ直ぐ見つめていた。僕は成宮くんと目を合わせられなかった。その時点で、答えなんて物は分かりきっていた。
「じゃあ、成宮くんはなんだと思ってるの」
「イマジナリーフレンド」
 いまじなりー・ふれんど。頭の中でひとつひとつの言葉が分解されて、的を射ない。なにそれ、と呟く。乾いた唇が擦り合う感触が、気持ち悪かった。この部屋は酷く乾燥している。加湿器、買ってくれないかな。せんせい。そんな場違いなことを、頭のはしっこで考える。
「言葉のままだよ」
「……姉さんのこと、僕の想像だって言いたいの?」
 僕が生み出しているものだって、そういいたいわけ。自分の言葉がとげを持つのがわかったけれど、どうしようもなかった。僕は成宮くんと向かい合った。成宮くんの目は相変わらず真っすぐだった。僕の無表情な顔が、彼の目に歪んで映っている。
「馬鹿にしてるわけじゃない」
「そんなの分かってるよ。馬鹿にしないで」
 成宮くんが驚いた顔で僕を見る。それがあまりにも心底驚いた、というような表情だったから、僕は「何?」と言葉を投げる。
「お前がそこまで俺の事を信用してるとは思ってなかった」
 言葉に詰まった。そんなのはさっきから、僕が僕自身に驚いていることだ。僕は成宮くんの言葉に対して、反応をせず、「想像なんかじゃない」と話を戻した。
「でもお前の言う"姉さん"は俺には見えない。――"この世界の、誰にも見えない"。でも、幽霊でもない。つまり、それがどういうことかってことくらい、分かるだろ?」
「君が幽霊なんて言葉を使うの、初めて聞いた」
「話を逸らすな」
「……分からないよ」
 僕は微笑んだ。きっと、情けない顔をしていたと思う。
「僕には分からない。イマジナリーフレンド、なんてものも分からない。姉さんは姉さんで、僕には見える。僕にとっては、たったひとりの姉さんなんだ。姉さんが居るから僕は存在できる。だから――」
 ――だから。僕から姉さんを奪わないで。
 成宮くんが、傷ついた顔をする。成宮くんは今、傷ついた。それは、僕が成宮くんの言葉で傷ついたと言うことに――この話は僕にとって、大いなる痛みだと言うことに、成宮くんが気付いたからだった。そう、この話は、僕にとってもっとも、僕自身の心の表皮に触れるものだ。
 だからどうか触れないでいて。永遠なんてないってこと、僕はとてもよく知っている。きっと、僕と同い年の子のなかだったら、いちばんになれるくらい、よく知っている。だから、どうか知らない振りをしてほしい。君が僕の友達であるなら、なおさら。
 僕はね、成宮くん。
 心の中で呟く。僕はね、成宮くん。誰と一緒に居てもつまらないし、誰と居ても、ずっとひとりぼっちだ。昔からずっとそうだった。両親は、確かに僕の肉親だったけれど、両親という肩書きがある他人だ。他人のくせに家族で、僕はずっとそれが息苦しい。彼らは僕を育ててくれたけれど、それは多分、僕が生きていけるだけの援助をするというだけで、世間で言う「家族らしいこと」は、僕と両親の間にはどうしても存在できない。僕が努力してもそうだし、母さんや父さんが努力しても同じことだった。僕たちは悲しいくらい別々で、どうしようもなくぎこちなかった。よく、家族以外はみな他人だという人がいる。でも、僕にとっては誰であっても他人だ。たしかに母と父それぞれの血をひいているのかもしれない。僕の目は母さんにそっくりだったし、うなじから肩、背中のラインは幼い頃の父によく似ている。けれど、それだけだ。形が少しだけ似た別物。僕は母さんではないし、父さんではないのだから。
 僕は母さんと隣で寝ていても、たったひとりで眠っている気がするし、父さんと一緒に手を繋いでも、たったひとりで歩いているように思う。今までずっとそうだったし、多分これからもずっと同じことだと思う。僕は永遠に孤独で、ある意味でそれを望んでいる。
 今此処で生きている、という実感がいつだって薄い。「僕」を生きている、という感じがしない。微笑みながら――誰かと喋りながら、僕はそんな「僕」を遠くから見ている気がしている。現実で呼吸する僕を、眺めている僕。言葉が上滑りしていく。だんだん、僕は僕から離れていく。そして、ただ意識があるだけの幽霊のようになっていく。地上から、身体が離れ、僕は無重力の中で、ただまばたきをくりかえす産物と化していくのだ。
 「姉さん」と出会ったのは、そんなときだった。

 成宮くんが、よく待ち合わせに指定する、大きな橋を渡った先に桜並木がある。川に沿ってたくさんの桜が植わっていて、ずうっとその道を歩いて行くと、坂道を上がったところに、とても大きな桜の木が根をはっている。この街に昔からある桜の木。
 僕が姉さんと会ったのは、その大きな桜の木の下だった。
 あの日、桜を見にいったことに深い理由は無かった。ただ、小さい頃、春には必ず、家族三人でこの場所に訪れていたことを思い出して、寄っただけ。学校帰りに、夕焼けに染まった桜の木の、甘いような、爽やかなような、なんともいえない香りをかいで、ぼうっとしていたとき。姉さん――"その子"は、僕の前に姿を現した。
「久しぶり」
 彼女はそういって、僕に微笑みかけた。焦げ茶色の瞳。夕焼けに照らされた髪の毛は、色素が薄いせいか、金色に見えた。
「久しぶり」
 会うのはたしかに初めてだったはずなのに、何故かそうは思えなくて、思わずそう返してしまった。彼女は微笑んで、桜の木を見上げる。彼女の頭上から、桜の雨が降り続ける。その薄紅が、ただひたすらにまぶしい。雪のように舞い続ける花びら。胸が苦しい。頭が痛い。胃が痛い。この世界の苦しみが、僕を静かに切り刻んでいるみたい、なんて大げさだろうか。大げさだ。けれど、そう思わざるを得ないくらい、僕は多分、苦しかった。
 口の中がクランベリージュースを飲んだ後みたいに渇いている。彼女が微笑んでいる。泣いてしまいそうだった。僕は多分、僕は多分、この時のために生きていた。
「一緒にいてくれる?」
 彼女が言った。僕は頷いた。「いくらでも」いくらでも、一緒に居る。
 だから。お願いだからもう、僕をひとりにしないでくれ。

「……永遠なんてあると思ってんの?」
 成宮くんが机の上に座って、足を組む。うっすらと机に積もった埃が彼のズボンと、いやに繊細な形をした指を汚すのを見て少しだけ不快になった。成宮くんはなんでもないことのように、手をぱんぱんとすりあわせて埃をまき散らす。
「ないよ」
 僕は更に不快になって顔を逸らした。
「じゃあ」
「でも、僕が永遠だって言ったら、永遠なんだよ」
「……意味わかんねえ」
「わからなくていいよ」
「なあ」
 成宮くんが僕の手を引く。僕は、彼の燃えるような瞳を見ていた。黒々とした、星みたいに燃えている、瞳。
「どんなにその場所に居たくても、最後は帰ってこなきゃいけないんだよ」
 ふと、成宮くんが好きになる人のことを考えた。成宮くんは運命なんて少しも信じてないし、きっとこの先信じることもない。憧れるなんて愚かなこともしない。空は飛べないし、魔法は使えないし、僕たちが生きるこの瞬間は瞬間でしか無く、一秒前は帰ってこない。もう二度と。成宮くんにとってたしかなのは、この手のひらの感触だけなんだろう。僕はほこりっぽいこの部屋を思う。時の流れていない場所のように、ひっそりと呼吸を止めているこの部屋を考える。成宮くんはほこりっぽいこの場所で、時間の止まっていない生きたひと。僕もそうなのだと思う。僕たちはいつか教室に戻らなくちゃいけない。僕たちの教室に帰って、授業を受けて、つまらない家までの道を歩き続けて、変わらないように見えるその景色の些細な違いを、まるで間違い探しのようにぼんやり享受しては少しだけ笑って、家に帰る。そうやって動いて、少しずつ、本当に少しずつ変わっていく。だから、僕は分かってて、聞くのだ。
「……なんで?」
 なんで、そうじゃなきゃいけないんだ。僕は、ずっとそうしなきゃいけないんだろう。永遠なんてなくていい。そんなの欲しくない。僕が欲しいのは、姉さんと一緒にいること。それだけ。
「お前は生きてるから」
 成宮くんが言う。
「姉さんといられないなら、生きてたって仕方ない」
 僕が言う。
 成宮くんが僕を睨む。手を離す。目を瞑る。息を吸い込んで、もう一度、目をあける。
 そして、興味を無くしたように、僕を見ると、ひと言だけ、言った。
「じゃあもう、勝手に死んじまえ」


(九)

「なかなか過激なことを言うんだな。成宮くんは」
 サラダを食べながら、姉さんがまるでひとりごとのように言う。椅子の上にあぐらをかいて、ミニトマトに遠慮無くフォークを突き刺している姉さんを見ていると、自分がとてもくだらないことで悩んでいるように思えて、笑えてくる。いや、笑えないんだけれど。
 姉さんはミニトマトを口に運ぶと、顔を顰めて、「不味い」とため息をつく。
「そういうこといわないでよ」
「だって不味いから仕方ない」
「じゃあサラダじゃ無くて、他の物を食べれば良いじゃない」
「肉は嫌いだ」
「魚は?」
「好きじゃない。知ってるだろう」
「それにしても……最近、食が細くない?」
「ダイエットしてるからな」
 ダイエット、なんて姉さんから一番遠い言葉だ。姉さんの四肢は余分な肉が無く、むしろもう少し食べた方が良い、と常日頃から思っている。元々姉さんは食べても太らない体質だし、気にする必要は無いのに。
 姉さんはまだサラダが半分くらい残ったボウルを僕の手元におくと、「あげる」といって、リビングを出て行こうとする。
「いらないよ。……どこいくの?」
「散歩」
 まただ、と僕は思う。姉さんの真夜中の散歩は、ずっと続いていた。雨が降っても、風が強い日も、どんな日だって姉さんは出かけていく。僕は良い加減辟易していた。けれど、僕がいくら渋っても姉さんは意志を曲げない。だから――。
「じゃあ、一緒に行く」
 僕は空っぽになった自分のサラダボウルを見る。投げ出されたフォークの先を、イタリアンドレッシングが汚していた。張り付いた黒こしょうの粒を横目で見て、立ち上がる。姉さんは驚いたように僕を見つめていた。長さもハリも変わらないスカートのひだが揺れる。僕を失った椅子だけがそのまま、フローリングに座っていた。


 春の終わりの匂いがする。姉さんは漂うように道路を歩いていた。いや、踊るようにといったほうが正しいかも知れない。ローファーが鳴らす不規則な高い音は音楽を奏でているようだった。僕は自分のスニーカーのこすれるような雑音を呪う。
「眠くないか」
「眠くないよ。幾つだと思ってるの」
「幾つだったかな」
 姉さんが後ろを歩く僕を見る。その目は酷く懐かしげに揺れていて、驚く。僕を見ているはずなのに、僕を見ていない――なんとなく、そう思った。
「ねえ、姉さん」
「なに?」
「前に言っていた、"いつか"って、いつ?」
 姉さんが立ち止まる。いつの間にか、僕の大嫌いな川の近くまで来ていた。弓なりにかかった橋が、月のひかりに照らされて青白く光っている。人影は無かった。世界に、僕と姉さんしか居ない。そんなありきたりで、ロマンチックな発想が浮かぶ。場違いだった。
「君は、生きていたいと思うか」
 姉さんが呟く。
「どうしたの、急に」
「わからないんだ。ずっと」
 ――死ぬってことが、いったいどういうことなのか。
 橋に埋め込まれた小さなガラスの欠片がきらきらと光っている。色とりどりのそれは、夜のヴェールに包まれて、どれも暗く揺れていた。
「死んだこと、ないから、僕にも分かんないよ」
「でも、よく知ってるでしょう。どういうことか」
 姉さんのスカートが揺れる。僕は、目を細めてそれをみている。
「死んだときにしか知り得ないじゃない」
「でも、お前たち――"人間"は、よく知ってるでしょう」
「……姉さんは、自分がまるで人間じゃないみたいな言い方、するね」
「だって――」
 姉さんが振り向く。言葉を飲み込んで、少しだけ俯くと、僕に微笑みかけた。

「なあ、いつか、桜を見に行こう。あの日みたいに」
 そう言って、姉さんは僕の手を引いて、元来た道に戻っていく。僕は”いつか”この橋を渡る日を想いながら、帰路についた。

 姉さんは、未来を信じないくせに、未来の話をする。

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