まやかしの傷んでいく音
人体に正確な図形を描くのは案外難しい。下敷きを敷いた紙の上とは違って、皮膚は皺が寄ったり伸びたりひきつれたり、筋ばったりして平らじゃないからだ。初音は食べないから、尚更。初音は赤い色を使うと喜ぶ。他に青や何とも曖昧な緑など、ぱっと見て傷口とか痣に見えると言って。
特に三角を好んで俺に描かせた。それも綺麗な正三角形や二等辺じゃないと認めず、少しでもぶれたり歪んだりすれば油性ペンのインクが落ちるまで手首を洗った。擦れてあかぎれてもずっと。
シルエットを調節する内に図形は予定より大きくなったが、ペン先を離すと彼女は満足気に右手首を眺め回した。おかげでノートやレポート作成には全く不必要なカラーペンばかり揃ってしまった。
それにしてもインクの赤はあまりにも明瞭で、とても血液には見えない。それこそ彼女の望むような。
俺は口を開く。
「思うんだけど」
「ん、なに」
「その赤い三角って、道路工事とかで使うコーンに見えるんだよね」
「ああ…」
陽に当たらず肌が青ざめているので余計目立つのだ。我ながら間抜けな例えだと思っていると、初音は気を害した様子もなく引き継ぐ。
「それなら、標識の“止まれ”がしっくりくるな。平面だし」
じゃあ本当に「止まれ」と白抜きしてやろうかと、口にも出しはしなかった。こちらが苛立っても平静を取り繕うのは彼女が感情を見せないからだ。だから初音が何を必死に塞き止めているのかわからない。ただ服従した犬のようにへらりと笑っている。
食べても吐いてしまうのだと、ゼミの飲み会で席を立ったまま戻らない初音を、追いかけた時に聞いた。
食欲がないならせめて食べなきゃいいのに、口を開いて閉じて咀嚼して嚥下する、胃が重たくなるところまで一連の儀式のように続けないと衝動が治まらない。味は普通に感じても必要性のないエネルギーの存在に吐き気が催す。
聞いていてもいなくてもどっちでもいいような口調だった。
ハンカチを持ち合わせていなかった俺が代わりにポケットティッシュを差し出すと、やんわり断るような仕種で廊下の隅から立ち上がった。
そして差し出した手に一言、
「篝火くんのは綺麗だね」
確かに白い糸やミミズが這ったような痕の残る彼女の腕に比べれば、俺はどこまでもまっさらだった。死にたがる割に「不便だろうから」と周囲の外聞を気にする彼女の刃先は、意思と同じように揺れて迷っているみたいだった。
「インクは切り傷と違って、描いたり消したり自由でしょう」