静寂の中の騒音

窮屈な、一人暮らし用のアパートの中の一室でわたしと真由子は暮らしていた。わたしは朝はインスタントの味噌汁に白ご飯と決めていて、真由子はアイスカフェオレとこんがりきつね色にフライパンで焼いたシナモントーストと決めている。なのでわたしはまだ高校生である彼女のため、朝食を二種類用意しなければならない。もっとも、用意するというほど豪勢なものでないことは確かなので構わないことなのだけれど。味噌汁と白ご飯をテーブルの左側に置き、カフェオレに氷を入れ、最後にトーストにシナモンをふろうと瓶を手に取った時、わたしはようやくそれが昨日で切れてしまっていたことを思い出した。昨日は少し風邪気味で体がだるく、買い物を止めておくことにしたのだった。
「真由子」
「んー?」
 真由子は床にしゃがみ、足の爪に透明のペディキュアを塗りながらこちらを見向きもせずに返事をする。どうせ塗るなら色のあるやつにすればいいのに、と囁いたわたしに、これは拘りなのよと人差し指を立てて言っていたことを思い出した。
「今日、シュガートーストじゃ駄目?」
「……なんで?」
 随分と不服そうに、今度は顔をこちらに向けてそう声を落とした。このパターンは二度目だ。前は近くのコンビニまでわざわざシナモンを買いにいかされることになってしまった。
「切れてるの」
 シナモンが、そう、昨日忘れちゃってて、切れてるの。
 わたしは一応そんな風にしどろもどろに説明したけれど、どうせシュガートーストならいらないわとそっぽを向くのだろうと考え、鞄に手を掛けようとしたその時だった。真由子はまたペディキュアに熱中し始めて、まだ眉は不服そうに顰めたまま、いいよと言った。
「我慢する」
 到底我慢などは出来なさそうな顔で、だ。
 わたしたちの同居生活の理由を、一から十まで説明するのはとても面倒な作業だ。なんせわたしと真由子は赤の他人であり、年だって五つも離れているし、なにより同居生活をすることになった三ヶ月前の春まで顔を知りさえしなかったというのだから。

 わたしはその日、会社の上司にはこっぴどく叱られ、その上雨にふられた帰り道に路上に寝転ぶ猫を撫でようと思い手を伸ばしたらがぶりと噛まれ、最終的には帰宅して持ち物の整理をしたら今日持って帰ってやるはずだった仕事の資料を会社に忘れていることに気付くという散々なことが続いていた。因みにわたしは毎日のように上司から叱られてはいたものの、あんなにひどく理不尽な叱られ方をしたのは――なんでもお茶の出し方が気に入らなかっただとかなんとかで二時間ほどだ。仕事が残ってしまったのもそのせいである――生まれて初めてのことだ。なのでなんとなく夜空が見たくなって、気分が気分ならこのまま飛び降りてしまうのものいいような心地でふらりと会社へ戻るはずだった足を屋上に向かわせたのだ。すると目の前には見たこともない女性が脇に鞄一つだけを置いて、今にも飛び降りそうな格好でフェンスから身を乗り出しているではないか。自分も確かに死んでしまうのも良いと考えはしたけれど、勿論本当に死ぬ気などは更々なかった。少し自己陶酔に浸りたかっただけだ。だからそんな光景を目にしたら焦って止めようとするのは当たり前の行為であったと言える。
「……何してるの?」
 事を荒立てぬようわたしは出来るだけそうっと聞いた。女性がこちらに気が付いてわたしのほうを見る。わたしは続けた。
「早まっちゃ駄目よ、その、あなたまだ若いでしょう? いやなことがあってもきっとすぐに何か変わるし、それに……そうよ、とりあえずわたしの家でお茶なんかどう?」
 女性は非常に素っ頓狂な顔をした。目を見開き、口をぽかんと開け、不可解そうに首を傾げる。しかしそれも一瞬のことで、すぐにくっくっく、と喉を震わせ笑い始めた。そうして、
「じゃあ、あなたの家に住まわせてくれる?」
 と、一言。
「家賃も半分払うし、一ヶ月だけでもいいわ。お金はあるの。迷惑も掛けない」
「……何を言ってるの?」
 正直わたしは意味がわからなくて、頭のおかしい女なのかと思った。けれども女性は至ってまじめそうに――強いて言うなら多少口許は悪戯に歪ませていたが――言うのだ。
「いやだって言うならわたし、死ぬわ」
 そしてフェンスに足を掛けようとする。わたしは再び慌てた。
「わかった、わかった。わかったわ。いいから、早まらないで」
 咄嗟の一言だった。このまま死なれてしまってはわたしのせいになるではないか。死体を見るのはいやだし、罪も重たい思い出も、背負うのは勘弁だった。ただその光景を見た時に、なぜ話しかけずに黙って引き返さなかったのだろうと、それだけを後悔したのを覚えている。女性はまたにやりと口許に孤を描き、それからすぐに無邪気な微笑を作った。
「わたし、寺島真由子。十七歳。よろしくね。おねえさんは?」
「……十七歳?」
 二十歳は越えていると思ったのに。そう呟いたわたしに、真由子は「おねえさんって目が悪いのね」と笑った。そして一ヶ月という約束などとうに忘れ、もう三ヶ月――季節も夏に変わろうとしている今まで、真由子はわたしの家に居座り続けている訳だ。荷物は小さなボストンバッグ、それだけで飛び込んで。

 結局食卓は随分と暗いトーンで済ませられることになった。わたしは必ず今日の買い物でシナモンパウダーを買おうと心に決め、食器を水に浸ける。
「散歩に行ってくる」
「雨降ってるわよ」
「傘があるから大丈夫。夕方には帰るわ」
 そう言い残すと真由子はそそくさと席を立ち、家を出ていってしまった。恐らくまだ機嫌が悪いのだろう。わたしは折角の貴重な日曜日なのに、味の悪い始まりだと思いながらあの日のことを考える。そういえば背は百五十五センチと低く小柄な真由子であったのに、どうしても年相応に見えなかったのは雰囲気の問題だったのだろうか。短く切られていた髪の毛は当時より少し伸びた。つやつやと光る真由子の足の指先が脳裏にちらつく。