泣く犬

いずみちゃんの説明をしよう。遠野いずみ、二十ニ歳。少しだけきれいで、たれ目のお人よし。おしまいだ。いずみちゃんを言葉で表すには、それだけの語彙で十分足りてしまう。それくらい判り易くて、見たままの性格をしているとわたしは思う。第一出逢いが衝撃的だった。わたしはいわゆる家出というものに挑戦中で、ホテルに泊まるお金も尽きてきた五日目の夜、たまたま行き着いたアパートの屋上でこれから先どうしようかと頬杖をついていただけだったのに。なにしてるの、と、わたしに問ういずみちゃんの顔は真剣そのものだった。
 わたしの説明をしよう。寺島真由子、十七歳。わがまま家出少女。おしまいだ。わたしは我ながら、自分の九割が"わがまま"で出来ていると思う。たとえば今朝だってそうだ。シナモントーストが作れないというだけで機嫌を悪くして、雨の中をこうして行く宛てもなく歩いている。けれど一旦外に出てしまえば歩くというのは面倒な行為で、なぜ自分がこうまで怒ってしまったのか全くわからない。こういうことはたびたびあるので、わたしもいずみちゃんも慣れてしまっているのだけれど。ほんの些細な一言を切欠に、ただでさえ家出しているというのに更に家出をしようとしたこともある。一度目はわたしが好きなテレビ番組をつまらないわねと言ったから。二度目はわたしのことが全体的に理解できないと言ったから。三度目はわたしを不死身っぽいと言ったから。四度目は。
 まったく、彼女も厄介な娘と同居生活を始めたものだ。そしてなんだかんだで馴染み始めているわたしもまた、危ない。これでは家を出た意味がなかった。
 試してみたかったのだ。一人でどこまで歩くことが出来るか。
「まるで一人じゃないわ」
 わたしは道端でそう呟いたが、あいにく雨音に掻き消えて自分の耳に届くことさえなかった。それなのでわたしは改めて、
「正気じゃないわ!」
 と大きな声で叫んでみせた。周囲がぱちりと目を見開きこちらを見たかと思えば、好奇の視線を寄せる人物も、くすくす笑い合うカップルも出てくる。誰も近寄りはしない。わたしは妙に誇らしくなって、心のもやが晴れたようで、満足気にひとりひっそりと笑った。

 暫く歩いたところで本当に途方もない散歩をしていることに気が付いたので、ドーナツ屋でお土産を買って帰ることにした。いずみちゃんはここのシナモンドーナツが大好物なのだ。店の隣でこれ見よがしに鳴いている捨て犬が(今時捨て犬だなんて!)いたけれど、さして気には留めなかった。しかし、わたしは店に入ってすぐにその行為を後悔することになる。店内に立ち込めるドーナツの匂いを全身で嗅いで、売り場に向かおうとしたその時、一人の女店員と目が合った。わたしは彼女を凝視し、彼女もまたわたしを凝視する。そうして、先に声をあげたのは彼女の方だった。
「真由子ちゃん!」
 これはやばい。今すぐにでも逃げ去りたい。彼女はそれほど仲が良いという訳でもないけれど傍目から見れば友人くらいには思えるかもしれない、という程度の、クラスメイトだ。行方を眩ましてから早三ヶ月、どういうことかわたしはまだ家族に見つかっていない。精力的に探そうとしていないのか、相当探すのが下手なのか、わたしの隠れ方が上手いのか、あるいは「必ず帰るので、そうっとしておくように」という置手紙がよかったのか、はたまた全く探す気がないのか。なんにせよ、今彼女に見つかってしまうのはあまりよいことじゃない。なによりわたしは人と話すのがそんなに好きじゃないのだ。けれど彼女はつかつかとこちらに歩み寄り、いかにも心配しているのよと訴えるような目でわたしに問いかけた。
「真由子ちゃん、どうしたの? なんでぜんぜん学校に来てないの? それに真由子ちゃん、家だってこの辺りじゃないでしょ? ……家出してるって、ほんとうなの?」
「はあ、まあ」
 質問が立て続けに舞い訳がわからなくなったので、曖昧に最後のそれにだけ返事を返しておく。すると彼女は、どうして! と潜めるような、それでいて怒りをかすかに含ませた声で嘆くように言った。
「お母さんたちも、心配してるよ。連絡があったの。一番仲が良かったのは君だからって」
 そんなつもりは更々なかった。
「帰ったほうがいいよ、真由子ちゃん。今どこにいるの?」
「そこのアパートで……友達と。あの、ごめん、急ぐんだ。シナモンドーナツみっつください」
 割り当てはわたしがふたつ、いずみちゃんがひとつで。と、心の中で付け加える。勿論急ぐだなんてそんなのは嘘だ。本当はもっとゆっくり店内を見て自分の食べる分も決めたかったけれど、正直鬱陶しいといったらなくて、早く逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。ただアパートをばらしてしまったのは失敗だったかもしれないと後から考えはした。わかりました、と、少しの間を置いて声を落としカウンターへ向かったクラスメイトは、わたしの言葉を聞くとやる気を喪失したとでも言わんばかりに眉根を下げるのだった。

 店を出ると、まだあの犬がくんくんと鳴いている。雨にふられてみすぼらしいことと言ったら。わたしはしゃがみこみひとなでしてみせたけれど、すぐにそれを悔やんだ。汚かった。ああ、今日は悔やむことばかりだ。
「連れて帰って欲しいの?」
 わたしがそう尋ねると、犬はきゅんきゅんと声を荒立てた。ように、わたしには思えた。それなのでいやな気持ちを抑え込んで抱き上げてみる。
「おまえって、泣くみたいに鳴くのね」
 顔をくっつけると尚更悪臭はしたが、今度は悔やみはしなかった。三度ほど背を撫でると、わたしは決めた。この子をいずみちゃんの友達にしてあげようと。
「おまえ、いずみちゃんって知ってる?」
 そう問いかけると、犬は知らないと言った(ような顔をした)ので、いずみちゃんの説明をしてあげなから帰った。普段はなんだかんだで面倒見がいいし、理不尽にわたしが怒ってしまっても謝ってくれるの。やさしいおねえさんよ。だけど、だけどね、怒るとすっごく怖いの。とっても、とってもよ。だから粗相はしちゃ駄目よ。犬はわたしの話を延々と聞いていた。
「……なに、それ」
 けれど参ったことに、わたしがいずみちゃんを怒らせてしまうことになったらしい。わたしが抱きかかえている犬とそのせいで少しくしゃくしゃになったドーナツの箱を見て眉を顰める。しばらく人差し指を顎に添えて考えるポーズ――大抵こういう時人間は実際に考えはしていないのだとわたしは思う――をとった後、大袈裟にはあ、と溜息を吐いて、説明をしなさいと言った。怖いいずみちゃんだ。
「いずみちゃんの……」
 友達に。そう続けようとして、言い直した。
「わたしの友達に」
 こういうところは中々頭が良いとわたしは自分でも感心してしまう。けれどいずみちゃんの反応は決して良いと言えるものではなかった。また大袈裟なほどに大きく眉を吊り上げて、飼えるわけないでしょ、と人差し指をわたしに向ける。わたしはそんないずみちゃんを宥めるように、必死に説得をした。あの場所まで戻しにいくのは正直もう腕がつらいのだと。
「意味がわからないわ、理解できない!」
 けれどいずみちゃんにそう言葉を放たれた途端、わたしはひどく傷付けられた気分になった。そして、じゃあもういいよ、と踵を返そうと扉に手を掛ける。理解できないだなんて。別にしてほしい訳じゃないけれど、理解できないだなんて。
「……名前は?」
 すると、いずみちゃんがまた溜息を共にそう言葉を与えてくれたので、一瞬でわたしは嬉しい気持ちになった。ドアノブを放して、ぱっと振り返り、犬を地面に下ろしてやる。
「シロ」
 そう言うとシロはニ、三度尻尾を振ったのち、ててて、と家中を駆け回り出した。この掃除はあんたの分担だからね、といずみちゃんが言ったので、わたしはうんと頷く。
「それで」
「なあに?」
「どこが白いの? 黄色じゃない」
「洗えば白いよ、きっと。ただいま」
 最後にそう挨拶を付け加え、にんまりと口角を上げてみせる。靴と靴下を脱ぎ裸足になるとズボンの裾を捲り上げ、わたしはいずみちゃんにペット用のシャンプーを買って来てくれるように頼んだ。いずみちゃんは渋々それに応じてくれる。いつもそうだ。いずみちゃんの帰りを待っている間、わたしはじゃれ合いも兼ねてシロにお風呂場でお湯を掛けていた。いずみちゃんも汚いと思ったのだな、などという考えを頭の中に張り巡らせながら。