始める方法
真由子がこの家から姿を消して、一ヶ月が経ってしまった。わたしは今までと何ら変化のない生活を続けている。ただ、真由子が現れる前と今とで違うことと言えば、恐らくシロの存在が大きいものになるだろう。シロは賢い。わたしが不意に寂しくなった時、一番に駆け寄ってくれる。お陰でわたしは誰にも縋るような電話をしないで済む。必要以上に祐司のあのきれいな形の手を思い出さずに済む。真由子の「もういいよ」という響きを思い出さずに済む。シロは名犬だ。そう思ったので、わたしはシロの名札プレートを「シロ」から「名犬シロ」に変えてやった。シロは嬉しそうにしている。祐司も真由子も一気にこの手の中からすべり落としてしまったわたしは、けれど相変わらずなにも失っていないかのような顔で笑う。わたしが真由子と暮らしていたことなど、知っている人物のほうが少ないかもしれない。あんなおかしな出逢い、全て夢だったのではないかと思うほどだ。全て夢。そう言われたほうがきっとまだしっくりくる。家族でもなく、友人でもなく、どうとも呼べないその位置に真由子はいた。家事にはまるで役に立たない真由子といるのが心地良いと感じるだなんて、わたしもどうかしてしまっている。しかし真由子は、おかしなほどしっかりと、明確に、わたしの感情をとらえてくれた。いらない言葉を与えようとはしなかった。それが気持ちよかったのだ。
「シロ、オサンポにいこうか。オ、サ、ン、ポ」
オサンポ――お散歩、という言葉をシロはちゃんと覚えているので、それを言うとしっかり喜んでみせる。その姿は言葉では形容し難いほどにやさしく、いとしい。シロを拾って来た当時、真由子は言った。いずみちゃんの、いや、わたしの友達にどうかと思って。つまるところわたしの友達に良いと思って拾って来た、ということなのだが。それが今ではまるで現実になってしまっているのだからおかしなことだと感じる。
「シロ、マユコに逢いたい?」
真由子に逢いたい? ――シロは尻尾を振った。マユコ、も、イズミ、も、シロはちゃんとわかっているらしい。逢いたいのね、わたしもそれなりに逢いたいわ。そう呟いたその言葉が嘘なのか本当なのか、我ながら理解に苦しんだ。
遊びにくるね、とここを出る際に言ったくせに、真由子はまだ一度も顔を見せていない。もしかしたらここにはもう来るつもりなどなかったのかもしれない。シロに逢いたくは、ないのだろうか。一応念のためにと住所を聞かされてはいたのだが、自分から足を運ぶのはなんだか違う気がしたし、プライドが許さなかった。それになによりなぜここまでわたしが真由子に固執してしまっているのかが全くわからなくて、未だに戸惑う。
真由子がこの家を出た。それだけでもう家が家じゃなくなったみたいだ。
こんな時、わたしは祐司に抱きしめられたいと思う。力強くもやわらかいあの腕で。そして大丈夫だよと背中を擦って欲しいと、そう思う。寂しくなんてないだろう、僕がいるじゃないか。――もう何年、祐司の傍でわたしは生活していたのだろう。そしてわたしは一体どれくらいの間、真由子といたつもりになっているのだろう。どちらも人生のたった一部に過ぎないというのに。
シロの首に首輪を付けて、リードを探している時に不意にチャイムが鳴った。
「はあい、今行きます」
間延びした声でそう言うと、暫く辺りを見回していたものの、わたしはそれを探すことを中断する。そして、「シロくん、リード探しておいてね」と言葉を投げ掛けて、玄関口へと向かうことにした。
「お待たせしてすみません、遠野です」
「あ、隣に越して来た者ですけど、ご挨拶に」
かちゃりと扉を開けると、目の前には華奢な体の、いつの日かこのアパートの屋上で出逢った女性がわたしがきまって使うようにしている洗剤を持って立っていた。
「ちなみに、もう一度高校二年生することになっちゃった」
冗談めかすようにそう笑った女性――基真由子を、シロが今までにない大きな動作で、体中で歓迎していた。