惜しむ方法
恋人にふられたといういずみちゃんは、思っていたよりも元気そうに見えた。帰宅時のシロとの接し方が今までにない様子だったので、まさか、と思い尋ねてみたら案の定だ。しかし、正しかったのよ、といずみちゃんは言った。まだ恋人を好きだという風に見えたのに。好きであるのに別れなければならない、そこに見い出す正しさなどわたしにはまだわからなかった。なんにせよ、もう越すというのにうじうじとそれに関して悩まれていても正直困るのが本音のところだったので、よかったということでわたしはこの一件を片付けることにした。いずみちゃんとの生活は、どこか特異で、あまりにも自然で、わたしはこの場に長く居すぎた、と思う。まるでこれではなにかから逃げていただけのようではないか。なにから逃げていたのかはわからないけれど、わたしは確かに逃げ出したい衝動に駆られて、家を出た。いずみちゃんは少し変わった女性だけれど、やさしくてあたたかい。わたしはいずみちゃんが好きだ。大切な友人だと感じている。だからこそ、わたしはもう行かなくてはならないのだ。新たなる計画を脳内で練りながらも、わたしは荷物の確認を済ませた。同居を始めた時の荷物の量が既に鞄一つというものだったので、帰りもそんなに多くにはならない。二つには増えたけれど、後から少しずつ持ち帰ることも出来るし、引越し業者なんかは不要だ。これでいつでも家を出ることが出来る。そう考えて、ふとおかしくなってしまった。わたしはすっかり、完璧にここが自分の家のように感じていたのだ。本当の家に今から帰るというのに、だ。
「学校のほうは大丈夫なの?」
いずみちゃんが壁に凭れ掛かりながら尋ねた。
「大丈夫って?」
「出席日数」
「そうねえ、大丈夫じゃないかもしれない」
相変わらずのんきね。いずみちゃんはそう言うと、シロを抱き上げてわたしの傍にしゃがみ込む。
「一緒に散歩に行きましょう。シロが一番懐いていたのはあなたなのよ」
シロはいつもと違う空気を感じ取っているのか、今日は必要以上にわたしに擦り寄ってきた。わたしはそれが辛くて、どうしても頭を撫でてやることが出来なかったのだ。だから余計にシロは不安がる。けれどこうして目の前にやられてしまっては、わたしも気持ちの制御が出来ない。シロ。一度だけそう呼ぶと、わたしはいずみちゃんの膝からシロを抱き上げ、壊してしまわないように、けれど力強く抱きしめた。
「いつもの公園?」
「ええ」
今生の別れではないのに。わたしは犬はそんなに好きじゃなかったし、最初シロを拾った時だって完全なる気紛れだったと、そう思う。それでも今はこんなに愛らしい。シロはとても利口だ。犬種はわからないけれど凄くかわいいし、今から泣くぞ、という時には必ず体を寄せて一緒に泣いてくれる。実際に泣きはしないけれど、わたしは出逢ったその時から、シロが泣く犬であるということを知っているのだ。シロは泣く。悲しい時も嬉しい時も。
どうして突然帰ろうだなんて思ったの?
公園へ辿り着くまでの間、いずみちゃんはわたしに何度も何度もそう聞いた。もっといてくれたって構わないのよ、ここから学校に通えばいいじゃない。いずみちゃんらしくないね、と言うと、黙り込んでしまうのだ。わたしはそれがおかしくて、もっとからかいたい気分になったけれど、さすがに今はそれが適切じゃないことを理解していたので、やめておいた。公園の木々は青々とした葉を誇らしげに茂らせていて、シロはその下をびゅんびゅんと走っていく。リードを持っているいずみちゃんはそれに引っ張られる形になり、どこか楽しそうに笑みを零していた。
「シロ、やっぱりわたしが連れて帰ろうか?」
後ろのほうからそう聞くと、いずみちゃんはまったく心外だとでも言いたげな表情で、
「いやよ」
と言うのだった。
「わたしからシロまで奪おうっていうの?」
思わず笑うと、いずみちゃんの視線がやたらときつくなったのでわたしはそれ以上口を噤むことにした。
「遊びにいってもいい?」
わたしがそう言うと、いずみちゃんは少しきょとりとしてから、
「シロに逢いに?」
と言うので、わたしは頷く。そう、シロに逢いに。きっと逢いたくてたまらなくなるわ。
ふたりがシロ、シロと言うものだから、自分が呼ばれたと勘違いしたようで、シロは伸びたリードを縮めてまた一直線にこちらへと戻ってきた。そしてわたしの足元に顔を押し付けるようにして撫でてくれと言う。わたしは両手でシロをくしゃくしゃになるまで撫でてやった。もともとくしゃくしゃなのを、更にくしゃくしゃになるまで。
シロが好きだ。真っ白なシロ。餌を食べてしまった時には、とても悲しそうな顔をした。それは僕のものなのになんでそんなことをするの、とでも言いたげな顔だ。いずみちゃんと喧嘩をした時にも、とても悲しそうな顔をした。そして必ず仲を取り持とうとしてくれた。わたしたちはその一途さがかわいくて、ついごめんね、と謝り合ってしまう。
いずみちゃんとシロのいない生活のほうが長かったのに、まるで今までずっとそうして暮らしてきたみたいだ。確かに実家も恋しいし、そこがつまらなかった訳じゃないのに。
「いずみちゃん」
それでも、わたしの帰るべき場所はここじゃなかった。
「元気でね」
世界は、春の次には夏がくるという当たり前の仕組みの中で、今日も廻り続けていた。