報われる事のない蜘蛛の愛
(「蜘蛛の糸に絡めとられた蝶は」中原視点)
―――――哀れだ、と思った。一度抱いたその印象は今も崩れない。
地下室の衛生管理は大抵下級構成員の役目と一応は決まっている。が、大抵の構成員は現場へと駆り出され、清掃などは二の次だ。そもそも拷問や収監を行う場所を清潔になどする必要性も無い。
だから任務から帰りに偶々通り掛かった時、誰も居ない筈の収監所に人の気配を感じ、不審に思った。階段を降りていくと、新たな人物の登場に驚く声がした―――少女の物。
目が合った。大人しそうな目に小さく光を湛えた、自分と同じくらいの齢と見られる少女。
「…………っ?」
「……手前は、確か」
「……名字、です」
それが、名字名前だった。
名字名前の組織の中での立ち位置は少々、否かなり特殊だった。太宰の下に居るのは確かだが、その存在を知る者は一握りしか居ない。名前自身も知り合いは少ないだろう。
何故なら、彼女が外に出る事が殆ど無いからだ。任務にも出さず、仕事は書類仕事と一部の部署への連絡のみ。
彼女の立場を鑑みても、その処遇は明らかに可笑しかった。
試しに名前自身に訊いてみたものの、名前自身から返ってきたのは現状とはあまりにも違う言葉。
「私はあの人に嫌われていますから」
―――――嫌われている?
『…………私は、あの子の―――』
―――――哀れな。嫌われていると云うのなら、もう自由の身になっていただろうに。
「蜘蛛の糸に、引っかかるなよ」
そう云って地下を後にする。名前の視線を感じたが、説明する気にはなれなかった。自分自身にもはっきりとは判っていない事だったからだ。然し一つだけ確かなのは。
もう手遅れだと云う事だ。最初から彼女はあの男の手中なのだから。
それは彼女がポートマフィアに入る前の事だ。
「まだ頷いては貰えませんか?……もう一度確認しましょう。名字さん」
ニコニコと薄気味悪い程上機嫌そうな笑みを浮かべる男―――太宰治はそう云って足を組み直した。笑っている癖に細めた目の中に光は見えず、それが向かいに座る女性に不安と恐怖を与えているのだろう。
決して広くはない居間の中央に置かれたテーブル、其処に向かい合って座る男女を眺めてから、中原中也は静かに壁の時計を見遣った。三十分程が経過しているが、相手にとっては数時間も経った心地だろう。あの太宰を相手に此処まで粘ったのは上等だが、もう時間の問題だ。座らずに壁に寄り掛かり、その攻防を眺めてきたが、女性の方が不利なのは最初から変わっていなかった。
「ご主人の裏切りは極めて卑劣な物です。重役が集う会談の情報を漏らし、敵組織の襲撃を手助けした。準幹部級の構成員が重傷を負い、六名が死亡。本来なら拷問の後処分されて然るべきだ」
「…………」
ぐ、と言葉に詰まったかの様に唇を噛む女性。聞けば彼女も裏社会の人間だったと云う。然し夫となる人物と出逢い、結婚してからは身を引いたらしい。
だがその夫は所属する組織―――ポートマフィアを裏切り、莫大な報酬を得ようした。
「ご主人は貴女たちも捨てて逃げる気だったようですね―――もっとも逃げ切れる筈も無かったが」
「…………ええ」
女性が固い声を出した。まだ返事が出来る事に、中原は素直に尊敬の念を抱く。意思が固いのだろう。
「承知しています。夫も覚悟して居るでしょう。私も見せしめとして殺される覚悟は出来ています、だから―――」
女性の声が震えた。
「名前には。娘には何もしないで下さい。あの子は関係ないでしょう。名前は何も知らないんです」
「名字さん」
此処まで穏やかな口調だった太宰が、有無を云わさぬ声で云った。
「貴女は勘違いをしている様だ。私は話し合いに来た訳ではない。ただ決定事項を知らせに来ただけです」
太宰はもう話を終わらせに掛かっているのだろう。それを感じたのであろう女性は絶望した表情を見せる。
太宰が微笑んで、机の上に置かれた書類を示し、ペンを差し出した。
「ポートマフィア管轄内の敷地に居を移して頂き、名字名前を構成員として迎え入れます―――宜しいですね」
「…………おい、太宰」
「何?……ああ、付き合ってやったから礼を云えって?図々しいなあ」
「違えよ!!…………一体何の心算だ」
護衛として付いてくるように云われたが、実際の処、言葉だけでは脅しきれなかった場合の対処として己を連れて行っただけだろう。然しそんな事をする必要が全く感じられない。
裏切り者の名字の妻と娘に関しては、太宰の独断に寄る物だ。否、聞けば首領に直談判までしたと云うから完全な独断では無いのだろうが。
「首領が『好きにして良い』って仰っていたから好きにしただけだよ」
―――――普段の信頼が此処で役立つとはねえ。軽い口調で太宰が続ける。
妻と娘の命は保障する、但し娘を寄越せ。太宰が提案していたのは詰りそう云う事だ。そして管轄内に住居を移させたと云う事は、妻自体も目の届く処に置こうとしていると云う事だった。
あの首領がそんな事を許可するかとも思ったが、この男の事だ、得意の口八丁で許可をもぎ取ったのだろう。
「…………以前ねえ、一度だけ、名字名前を見た事が有るのだよ」
ふと太宰が話し始める。その表情は、まるで宝物を見つけた時の話をする子供の様な。それでいて歪に吊り上がる口元が不気味さを増す。
「街で父親と共に歩いていた。目をつけたのはその時さ。今回の事は僥倖だった」
「ハァ?娘は一般人だろ?構成員にして如何するんだ、女にでもする気か?」
中原の疑問に太宰は、何処か莫迦にしたように笑った。
「…………女……女、ね。
…………私は、―――――」
地下を出て暫く廊下を歩いていくと、前方の壁に寄り掛かる人物が見え、中原は大きく舌打ちをした。
「やァ中也。地下に何の用事だったのかな」
態々本人に聞かれない様に此処で待ち伏せていたか。感情の無い瞳で此方を見据える太宰の問いに、吐き捨てる様に云う。
「手前の『お気に入り』に逢ってたよ。ああ、それとも嫌ってるんだったか?」
「………………」
「手前の好意は伝わっちゃあいねえ。ざまあねぇな」
「………………良いんだよ、それで」
その言葉に、訝し気に太宰を見遣った瞬間、悪寒が奔る。
―――――その時の此の男の表情を、何と称したら良いのか。
「繋ぎ止めるためだったら。あの子の意識の凡てを私に向けられるのなら。知ってる?人の心をより強く支配するのは負の感情なんだよ。恐怖だろうが嫌悪だろうが利用するさ」
此奴のそれは何だ。何の感情だ。恋慕か?愛情か?
「……………………………………嗚呼、でも」
それとも其れ等と似ても似つかない、もっと悍ましい何かか。
「足りない…………………………足りないんだ」
外側から見てもはっきりと判る程、それは決して綺麗な感情では無かった。
此奴の感情は、あの時……否、それ以前から変わっていないのだろう。
『…………女……女、ね。私は、あの子の凡てが欲しいよ。一目惚れとはこう云う事を云うんだね……その瞳に私を映して欲しい、その心に私を留めて欲しい、その体に愛を刻み込んであげたい。
私に愛を囁いて欲しいけどその声が空気に触れて拡がってしまうのが勿体無いから喉を潰してしまおうかな。あの子の目を食べれば永遠に私だけが見えるのだろうか。あの指で私の首を絞めて欲しい、爪が首に食い込んで傷でも付けば私の血があの子の中に這入るんだろうね。ああ、私の血があの子の血管を流れたらどんな顔をするかな。私の喉を噛ませて血を飲ませてみようか。私もあの子の体に傷を付けたい、だって自分の物には印を付けるものだろう。嗚呼いっそ食べてしまえれば良いのになあ…………』
―――――狂っている。この飢えた目は何だ。―――――愛?
「…………愛じゃねえよ」
太宰が胡乱な目を向けてくる。
「手前のそれは、恋慕なんかじゃあねえ」
そんなものが愛などと云うものだと認めて堪るものか。
「………………じゃあ、何なのか教えてくれないか」
小さな、小さな声で囁く様に問われる。中原は静かに顔を背けた。
「私も愛ではないと思うんだ。あの子を傍に置いたら幸福になれるかと思った。然し憎しみにも似た負の感情しか湧いてこない。ねえ中也、何故私と名前は生きているんだろう、あの子の凡てが私と別離している存在だというだけでも耐えがたい事なのに」
「…………やめろ」
「何で私は生きていてあの子も平気そうな顔をしていて出逢った時から変わらなくて。この齢になるまで生きてきたのはきっと彼女の為だったのに名前は私を見てくれないんだ。あの子の大事な物を凡て奪って壊してまた直してやったら私を見てくれるのかな」
「……太宰」
「ねえ、これは何なんだ」
―――――嗚呼、救われない。救われない。救いようの無い奴だ。
「……何に飢えてたのか知らねえが手前は慰み物になるなら誰でも善かったんだろうよ。偶々彼奴が犠牲に選ばれたって訳だ」
「…………」
「……手前のその飢餓を、名字に押し付けるな」
踵を返し、立ち去る―――――最後の一言は、何故云ったのか自分でも判らなかった。ただ時折話すだけだった後輩に情でも湧いたのだろうか。だったら、自分が太宰から名前を攫おうか。
然し、もしそれを実行しても、二人は救われないのだろう。
「…………でも、見つけてしまったんだ……だから……もう
―――――手放しはしない……例え死んだとしても」
後ろから聞こえて来た囁きが、悲しい程に其れを証明していた。
(2017.02.06)
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