桜が散り行く道で

 気が付くと、あの桜の下に立っていた。桃色の花を咲かせる樹は、枯れた気配など無い。

 見覚えのある光景を眺めていると、ふと、樹の下に誰かが立っているのに気が付いた。静かに幹を撫でながら、誇らしげに桜を見上げている。私はその人を知っていた。

 此方を見たその人と目が合う。あの桜と同じ日に死んだ老婆は、幸せそうに微笑んでいた。




 視界が暗転からぼんやりと光を取り戻していき、意識がゆっくりと覚醒する。
 如何やら休憩中にうたた寝をしていたらしい。仕事中に気が抜けてしまったのか。時刻を見ると丁度休憩が終わるところだった。

 彼の武装探偵社がある建築物の一階にある『うずまき』という喫茶店で働き始めてから大分経った。太宰の下に居候している身分としては自分の分の家賃を払わなくては、と思って始めたバイトだったが、今ではこの居心地の良い職場がとても気に入っていた。

「名前ちゃん、一寸良い?お使いを頼みたいんだけど」
「はい」
「大丈夫?ごめんね、あの子も今出ていて……」
「大丈夫ですよ」

 奥の部屋から表に出ると、太宰達が「おばちゃん」と云って慕っている女性店員が声を掛けて来た。購う物を確認して外へ出る。
 『大丈夫?』とは、おそらく腕の傷の事を心配してくれたのだろう。襲撃を受けた時は本当に吃驚した。まあ、私としてはこんな掠り傷よりも、他のバイトを庇って怪我をした事を『あの子』―――モンゴメリに怒られた事の方が痛かったけれど。

『貴女はもう少し自愛なさったら!?』

 お人好しって云われたけど、あの子の方がお人好しじゃあないだろうか。

 今日はよく晴れていた。そういえば何の夢を見ていたんだったか、と思った。



 バイトが終わると、店を出て、探偵社の社員寮が有る方向とは別の方向に歩き始める。暫く経つと、白い、少し古い建物が見えて来た。
 あまり広くはない庭に遊具が幾つか置いてある。其処で遊ぶ何人かの子供達が見えた。近くに行って声を掛けようとすると、先に彼方が気付く。何かの異能力でも持っているのだろうか。

「あ!名前お姉ちゃんが来た!」
「お姉ちゃん―――!」

 抱き着いてきた子供たちを受け止める。体が傾くのを何とか踏ん張った。横浜に戻って来てから度々顔を出していたが、何時の間にか此処まで懐かれてしまった。最初は知らない人間として警戒されていただけに、何故と戸惑ったのも久しい。

『名前さんと居ると安心するでしょう。案外よく見ているものですよ、子供というものは』と云ったのは此処の所長の話だ。何だか嬉しくなったのを覚えている。

 子供達と一旦別れて、建物の中に這入る。所長である初老の男性はすぐ見つかった。

「ああ、名前さん。いらっしゃい」
「所長さん、こんにちは」
「おや、少し顔色が優れない様ですが……」
「あ……大丈夫ですよ。一寸寝不足なだけで」
「そうなんですか?勉強も大事ですが、無理をしてはいけませんよ」

 心配そうな所長に、「ありがとうございます」と頷いた。

 如何やら玄関の掃除をしていたらしき所長から箒を受け取る。今できる事はこうして手伝いをする事くらいだ。
 何時かちゃんと資格を取ったら、正式に此処で働こうと思っていた。矢張り昔からの夢は叶えたい。其の為の勉強なのだから多少は力が這入ると云うものだ。



 もう暗くなった外に出ると、今はもう見慣れた砂色の外套が見えた。

「太宰さん」

 声を掛けると、夜に溶けていた黒髪が揺れる。

「名前」



「あれ、私連絡しましたっけ」
「貰ってないね。暗い中一人で帰る気だったのかい?」
「大丈夫ですよ、この前にも変な人に声を掛けられましたが」
「初耳だよ名前!?」
「その辺に落ちていた石を桜にして『次は貴方達ですよ』って云ったらお帰り頂けて」
「取り敢えず帰ったら訊きたい事と云いたい事が出来たよ……」

 はあ、と溜め息を吐く彼に首を傾げる。君は変な処で非常識だよね、なんて云われたのはいつの事だったか。

「そういえば、敦君が焼菓子をくれたんですよ」
「あの可愛らしい袋何かなって思ってたけど、敦君だったんだ」
「誰かさんが居なくなったと慌てていたので、入水しているであろう川を教えたら、そのお礼にと後から持って来てくれました」
「矢張り犯人は君だったのかい……!」
「何方かと云うと貴方の方が仕事をサボった犯人では」

 あの白い髪の少年は、今や探偵社の立派な一員になっていた。『人食い虎』がこの少年だった事に衝撃を覚えたのも今となっては良い思い出になっている。

 あの孤児院の院長が、亡くなったと知らせが這入ったのは、つい先日の事だ。

『人は父親が死んだら泣くものだよ』

 どんな顔をしたら善いのか判らない、と云った敦に、太宰が云った。
 私はその様子を遠くから見詰めながら、その言葉を噛み締めていた。



 横浜に戻って来た当初は、少しなら生きていける程度の金ならあったから、何処かに下宿でもする心算だったのだが、太宰が探偵社の社長に口利きをして、社員寮で同居することになった。何かを勘違いした国木田が怒り狂ったのは暫く夢に出るかと思った程だ。如何にかその辺で太宰に引っ掛けられた女ではない事は判ってもらえたが、今度は『太宰に何かされたら俺に云え。殴る』と静かな表情で云われた。女関係で揉め事でも起こしたのかと心配になったものだ。中っていた様だが。

 異能力を持っていると云う事で探偵社に這入るかとも云われたが、迷った末に、働きたい処が有るので、と断った。
 調査員ではなくとも、バイトでも良いと云われた。何時でも席は空いているからゆっくり考えてくれ、と云われたのは有り難いし、探偵社も良い人たちばかりだけれど、『うずまき』の方が平和で良いな……とはとても正直な本音である。


「明日、少し行きたい処が在るんだけど良い?」

 味噌汁を口に運びながら太宰が云う。此処に住み始めて初めて食事の支度をした時、味噌の量を間違えた事があった。間違えただけだったのだ。だがあの時は軽い喧嘩になった。怒り冷めやらぬ侭バイト先で愚痴っていたら『惚気話はやめろ』と云われたのは未だ納得はしていない。

「ええ、留守番は大丈夫です」
「あ、否……ごめん、君と一緒に行きたいって事なんだけど」
「成る程。大丈夫ですよ」

 頷くと、彼は嬉しそうに、良かった、と云って、二人には少し狭い卓袱台に茶碗を置いた。




「……此処は……」

 翌日、太宰に連れられて行った其処は、よく憶えている場所だった。

「憶えているかい?君がとある老婆から受けた依頼。『桜を死なせてあげる』事」

 あの老婆の桜があった場所だった。
 然し一点だけ、驚いたのは。

「桜が……咲いてる……」

 目の前には、桃色の花弁が舞い。樹の上には花が咲き誇っていた。
 太宰も隣に来て、二人で並んで見上げる。

「あの後、老婆の親族が此処に桜が無い事を寂しがってね。工事の為に切られる予定だった桜の樹を大金叩いて此処に移植したらしい」
「…………あの桜に、そっくりです」

 それは、数年前の光景と、なんら変わらなかった。まるで、あの一連の出来事など無かったかのようだ。

 然し、此処には確かに、此の樹ではない桜の樹があった。あの桜は、老婆と共に死んだ。

「……知らない人が見たら、同じ桜に見えるでしょうね」
「そういうものだろう。人だって同じさ。関係ない人間にとっては、例えば近所の住人が入れ替わっても気付かないものだよ。知っている人間にとっては、確かに別の人間なのに」

 ふと、寂しく思った。太宰の例えが人だったからかもしれない。

「ねえ、名前」
「はい」
「君の代わりなんて居ないよ」

 思わず息を呑んだ。考えを見透かされた気がした。

「だから、名前……私と一緒に居てね」

 聞いた事が有る言葉だ。あの時はもっと悲痛な響きだった。
 でも、あの時と、屹度その意味は少し違う。

「君が居なくなったら、私は……」

 吐き出すような声が耳を打つ。少しの間、沈黙が降りた。『居なくなる』と云うのが如何いう意味かは判っていた。
 やがて沈黙を破ったのは、私の方だった。

「…………貴方は、死にませんよ」
「…………」
「私には判ります。屹度死にません。否、死ねませんね」

 屹度、悲しんでくれるだろうし、泣いてくれるのかもしれない。
 でもきっと、後を追う様な事はない。

「……太宰さんには、沢山仲間が出来ましたね」
 この人には、大切な存在が沢山出来た。
「だから、屹度私が死んだとしても」
「止めてくれ」
 言葉は途中で遮られた。その声は少し震えていた。

「大丈夫ですよ、太宰さん。私はそう簡単に死にません。でも、

―――私が死んでも、生きていて下さいね」

「…………非道い拷問だ」
「良い薬です。それで、まあ命日くらいは墓の様子でも見に来てください」
「…………だったら」
 風が吹いた。桜が揺れて、更に花弁が散った。


「君も、私が死んでも生きていてくれる?」

「…………貴方が、そう云うなら」


 彼の表情が、少しだけ、ほんの少しだけ柔らかくなったのを見て、私も頬を緩める。
「まあ、貴方のお墓の世話をする人が居なくなりますもんね。他に任すなどとその人が可哀想です」
「非道い!」
 思わず笑い声が洩れる。彼も噴き出した。クスクスと笑いながら、自分たちの死後の事を、世間話の様に話し続ける。

「浮気されたら泣いてしまうなあ」
「化けて出そうなのでしません。私は、貴方が良い人を見つけたら、幸せになって欲しいですよ」
「ええー本当?」
「一寸寂しいですけど」

 『一寸』、の処は一寸嘘だ。どうせ判っているだろうから見栄くらい張らせてほしい。すると、彼は腕を組み、難しい顔をして首を傾げ、「……可笑しいな」と呟いた。
「何がですか?」
「本当は、『一緒に死んでくれる?』って訊く心算だったのに」
 老婆と心中した桜のあった場所で、彼なりの告白を受ける予定だったらしい。
「ですから、心中は厭ですよ」

 何方かが死んだら、残された方は、思い切り泣くんだろう。
 泣いて、悲しんで、何故先に逝ったと相手を罵って、恨んで、呪って。

 泣き疲れたら、墓参りに行こう。そして、私は長生きするから、なんて云ってやるのだ。

 何方からともなく、並んで歩き始めた。
 あの時と同じ。二人で帰る為に。

「…………ああ、然し、以前の私の望みは少し叶っているかもしれない」
「何ですかその不穏な発言は?望みって何ですか?」
「君自身の心に訊いてくれ給え」

 得意そうな声に怪訝な顔を向けても、教えてくれない。否、私自身に訊いたって意味が無いのではないのかと思いつつ、考えてしまう。

 …………心。心か。

 何時だったか。『化け物』と呼ばれた時の、自らの手から桜が散る光景は、まだ私に影を残す。その桜の中で、私は生きていく。

 今は、其処に沢山の物が刻まれている。
 例えば、今隣に立つ人。例えば、もう隣に居ない人。


『私は、君の事が―――』


「私も、貴方が好きです」


 目を見開いた彼に、心の声が出てしまった事に気付いて、「何でもありません」と首を振った。

「えっ、一寸それは無しだよ」
「あ、急いだ方が良いのでは?午後は出ろという条件付きの休日なんでしょう?」
「本当、それ休日とは云わないよねえ……じゃなくて」
「ほら早く行かないと」
「君が走る意味は無いだろう!?待って逃げないで!もう一回云ってよ名前!」




『大丈夫。お前は生きていけるさ』

 何時か桜は散るでしょう。そうしたら貴方に逢えますか。

 でも、今そんな事を訊いたら、屹度貴方は「まだ早い」と顔を顰めるでしょうね。
 だから、もう暫く待っていて下さい。

 貴方のお陰で、この世界で、私は息をしています。


 何時かの桜の中で、私は恋をしました。


 貴方から貰った光を抱いて。
 私は、彼と歩いていきます。

(2017.03.27)
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