何とも詰まらない恋の話

(『何とも詰まらない愛の話』中原視点)





 捨てられた猫か何かか、と中原は思った。



 最初に逢ったのが何時かなど覚えてはいない、元々数居る部下の一人に過ぎなかった女だ。最初に目に入ったのが話しかけられた時だと云っても過言ではない。

 幹部である自分に逢う機会もそうそうなかったであろうその女は、その少ない機会に如何にも『いっぱいいっぱいです』とばかりに話しかけてきた。何事かと思えば如何やら好意を告げられていたらしい、というのは辛抱強く話を聞いてやった所為、否お陰である。

 捨てられた猫みたいな目ェしやがる、そう思った。

 恋仲に為っても良い、と云うとその女は心底驚いて、泣きそうだった顔を更に歪めた。が、その中に小さく喜色も見え、『此奴は今自分の表情が判っているのか』と疑問に思ったものだ。酷い顔にしている涙を拭ってやろうとは思わなかった。何と無く、それが勿体無い気がした。

『手前、名前は』
『…………名字』
『……』
『……名前です……』


 捨て猫を拾って気が付いたのは、『此奴はちっとも飼い猫に為らねェ』という事だった。中原を見る目に怯えが混じる、とても恋人に向けるそれではない。

 否、それは怯えと似て非なるものだった。云ってみれば『怪物』へのそれ。得体の知れないものを見る時の恐怖と、隔意だ。

 不快に思うかと問われれば、答えは否だった。名前がその目を向ける時は決まって、中原が他の物を見る時だったからだ。その癖名前自身を見るとその恐怖は和らぐようだった。惚れられてるからだろう、などと呑気な事を考えている自分に気付いた時は酷く驚愕したものだ。

 単純に物珍しかったのかもしれない。恐怖とは普通、自分自身に向けられた脅威に感じるものではないのか。然し名前は、名前自身ではなく他の物に向けられる中原の視線にそれを見出している様であった。

 此奴は何を怖がっているのだろう。

 自覚しているのか如何か知らないが、名前は可也中原の懐に入り込んで居た。這入り込んで、ただ、其処に居るだけだった。見返りを求めるでもなく、自分を変えるでもなく、ただ其処に居る。
 それが或る意味肩透かしであり。


 捨てられていた猫だ。拾って来てみれば動かずじっとしている。ただ、家に帰れば其処に居るのだ。それで最低限の世話をしてやっていれば少しの鳴き声を返す。体温が有って、確かに感情が有って、生き物としての柔らかさが有って自分を待っている。猫に関心が無かった自分でも絆されて情が湧く。

つまりはそう云う事だった。そんな雰囲気だったのだ、自分の中では。

 情が湧いているので、中原は名前をよく見る様になった。機嫌をとろうとする訳でもない、相互理解を深めようという訳でもない。ただただ偶然手に入った、然し今では手放すのが惜しくなっている生き物を眺める気分で。

 眺めているだけで色々と判るものだと初めて知った。中原は何方かといえば、部下の趣向や悩みなどは呑みや食事に誘い聞き出すタイプだが、名前にそれは通じない気がしていた。


 如何やらこの女が『拾って来た猫』などと云う物では無く、『名字名前』として自分の中に存在しているらしい、と中原が自覚したのもその頃だった。


 少しばかり詰まらなかったのは、名前の方は中原の視線に一向に気付いていないらしいと云う事だった。他の物に向ける視線には隔意を顕わにする程何かを感じ取っている癖に、自分に向けられる視線も同じだと思っているのかもしれなかった。

 ただ、それは詰り、中原が名前に向ける感情が何であったとして、恐怖を抱いていないという事では無いのか。その事実はほんの少しの優越感となった。その少しばかりの優越感に浸りたくて、大凡普通の恋人ならば赦されていないであろうことも平気でやった。名前ではない女に、首筋に態と紅い痕を付けさせて。

 嗚呼、『虫に刺された』と答えた時の、名前の表情。自分の中に黒い喜びが湧くのを感じ、なんと醜い感情だろうと中原は思った。思っても、止められなかった。


 伝わるだろうか、此奴に。お前だけが特別なんだと、名前だけが『人として』己の中に巣食っているのだと。

伝わらなくて良い。ただ、何時だったか、煙草の匂いが染みついた襯衣に僅かに顔を顰めた名前の前で、それを吸った事の無い意味くらいは知ってほしい。



 親しくない他人など皆同じに見える。その差違など知った事では無い。誰にでもあるその感情が顕著であると自覚している。

 普段は視界の端に居て見えない癖に、偶に目前にしゃしゃり出てくる奴が居る。そういう奴に限って、人の形をしている所為で本当に邪魔になる。

「なァ、退いてくれねェか」

 その男もその一人だった。

「手前の所為で彼奴が見えねえンだよ。邪魔だ」

 だから頼むよと羽虫を追い払う。現実ではその男に蹴りを入れているのだが。
もう一度入れるかと思案した時、微かな物音に目を向けると名前が居た。

 状況が理解できない名前に短く言葉を告げて、また男に向き直る。上がる口角は名前には見えて居まい。嗚呼、取り敢えず煙草は消してやらなくては。男が脚元で呻くのが本当に五月蠅く、先程よりも深く脚を埋め込む。虫はやっと静かになった。

 却説、こんな処に長居する必要も無いと、名前に手を伸ばす。


「名前」


 ―――――なあ、そんなに怯えないでくれ。俺は間違いなく手前の物だよ。


 そう云ってやらないのは若しかすると、あの恐怖が彼女を支配している事に対しての昏い歓喜がまだ、自分の中に染みついて離れないからなのかもしれなかった。

(2018.04.06)
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