傷の幻視

(首絞めや負傷の表現有り)





「くび」

 後ろから聞こえた小さな声に、大げさなくらい肩が跳ねた。背後の人物も驚いていてはいけないと、取り繕う為に慌てて振り返る。

 少し目線を下げた先、黒髪の少女が案の定、目を丸くして此方を見ていた。

「ご、ごめんなさい。何?」
「…………首。怪我してる」

 鮮やかな色の着物の袖から、綺麗な手が絆創膏を差し出していた。もう片方の手は彼女自身の頸の後ろを指し示している。態々くれるために声を掛けたのか。

――――――――あ、ありがとう

 ありがとう、と云ったはずだ。云ったはずだったのに、彼女は矢張り怪訝そうな顔をする。
 嗚呼、声が出ない。

 気が付けば走り出していた。声が出ない侭で叫びながら、必死に前へと進んでいた。少女の、戸惑いながらも引き留める声を聞かずに、其の場から逃げ出したのだ。



『 着物姿が迫ってくる。私は必死に逃げている。足がもつれて上手く動いてくれない。喉が変な音を立てて息を吐きだしている。気持ちが悪い、倒れそうだ。止まったら死ぬ。――――――止まったら、死ぬ。

 ごめんなさいと云う声が聞こえる。御免なさいと泣く声が追いかけてくる。

いやだいやだいやだ如何して、どうしてどうして―――――友達だったでしょう!嘘だったの!全部演技だったの!貴女は何時だって、私の――― 』



 夢見が悪かった。寝汗が酷く、寒気と共に下着が張り付く感覚がして気持ちが悪い。

 あの夢は、何なのだろう。

 猿夢と云う物は聞いた事が有る。やけに現実味を帯びた夢、何度も同じ光景が現れ、少しずつ進んでいき、最後には……。

「ころされる」

 声に出すと一層恐怖感が増した。思わず肩を自分の肩を抱いて、初めて着ていた上着が無い事に気が付く。

「随分と物騒だねェ。此処じゃあ死なせやしないよ、安心しな」

 軽い音がして、カーテンが開く音がした。日差しが目を眩ませる。如何やら医務室の寝具で昼間から寝ていたらしい。あの侭倒れてしまったのか。

「ありがとうございます晶子医師(せんせい)、あの、女の子がっ、」
「慌てて喋るンじゃないよ。で、何だッて?」
「女の子が、居ませんでしたか」
「…………はぁ。『女の子』ねぇ」
「紅い着物を着て、長い黒髪の……白い花の髪飾りの」
「嗚呼!鏡花の事か。アンタ初対面だっけ?」

 『鏡花』。如何やらあの少女は『泉鏡花』というらしい。中島敦が連れてきた探偵社の新人。
 新人、と云う事は、私は初対面の筈だった。

 具合が悪くなりそうだった為、逃げる様にして立ち去った。無視する形になってしまったので、あの子は気分を悪くしてしまったかもしれない―――という趣旨の説明をする。少し虚構が混じっているが、其の侭を伝えたところで何にも為らない。女医は納得した様で、「鏡花にはそれとなく云っておく」と約束してくれた。

 疲労から体調を崩したのだろう。暇を貰い、今度こそ十分に休むために退社する。

「―――、―――」
「―――――――」

 廊下を歩くと、若い男女の話し声が聞こえた。見ると、件の少女――鏡花が敦と共に向かってくるのが見えた。彼等は自分とは逆に、社に帰るのだろう。

「――――あ」

 何か声を掛ける前に、鏡花が此方を見た。穏やかだった表情が僅かに曇る。あんな態度を取ってしまったのだ、当然だと思いながら何か取り繕う言葉を考えていると、彼女の方から小走りに近付いて来た。

「あ、あの」
「ごめんなさい」

 戸惑っていると、鏡花が綺麗に頭を下げる。着いて来た敦も「名前さんですよね」と会釈をした。

「ええと、良く判らないんですが……鏡花ちゃん、何か余計な事してしまったかもって気にしていて。然も医務室に運ばれて行ったというので心配してたんですよ」
「あ、ああ……!そうだったんですか!?」
「何か、気に障ってしまったなら……」
「違うの、あのね」

 心の底から申し訳なさそうな表情の少女に、先程女医にした『言い訳』をもう一度語る。嘘ではない、本当が判らないのだから。それに、鏡花が何をしたわけでもないのは事実だ。
 話している内に二人の表情は和らいだ。

「大事じゃなくて良かった」
「うん、ごめんね、えっと……鏡花ちゃん」

 ふるふると首を振る鏡花は、しかし何かに気付いた様に動きを止めた。ごそごそと胸元から何かを取り出す。

「これ」
 絆創膏だった。
「渡せなかったから」

 ――――首の、後ろ。紅い着物の少女。

「――――――――――――――」


『ごめん、なさい』


「名前さん?大丈夫ですか、矢っ張りまだ具合が悪いんじゃ……」

 敦の声で我に返る。慌てて彼の言葉を否定した。二人は顔を見合わせて、それじゃあと社に戻る。私も手を振った。
 その後ろ姿を見送る。紅い着物に、黒い髪はよく揺れる。私の手は、受け取った絆創膏を握り潰していた。


『ごめんね、本当は貴女を殺したくないの』

 其の声は、誰の声?



『 くびが、いたい。血が流れている。首を斬られてしまったのだ、屹度。
 それを理解しながら、妙に自分は冷静だった。

 着物姿の化け物が追いかけてくる。立ち止まっては斬られてしまうので、私は走り続ける。やがて息が切れ、私は倒れ込んだ。

 私の顔を、夜叉が覗き込む。嗚呼、今度こそ殺されるのだと思った。 』



 ――――また、可笑しな夢を見ていた。
 回らない頭で私は考える。

 あれは、私だ。

 私が誰かに殺される夢か。違う。『私が誰かに殺された記憶』だ。
 何時のだろう。首の傷と関係が有るのか。―――――――傷?

 ああそう云えば、私の首に、傷が有ると云ったのは、誰だったか。



 少女の異能力が『夜叉白雪』であることはもう教えてもらっている。何故かその姿を私は知っていた。理由は簡単だ。見た事が有ったからだ。
 資料室の片付けを手伝ってくれ、と頼めば簡単に二人きりになれた。

「ねえ、貴女なんでしょう」

 少女の首に食い込むのは私の指だ。此の侭思い切り力を込めれば、終わる。

「貴女なんでしょう、私の夢に出てくるのは。あれは貴女なんでしょう、だから貴女が、貴女が」
「……………う、ぐ」

 喉から洩れる微かな呻き声が、まだ締めが甘い事を示していた。苦しそうに歪む顔、然しその目は私を射抜いている。似ている。夢に出てくるアレと似ている。

「……………ごめんなさい、本当は殺したくないの」

『ごめんね、本当は貴女を殺したくないの』

 自分の声が誰かの声と重なって、その瞬間、頭にガツンと衝撃が走る。
 痛い、と感じる間も無く、私の意識は黒へと落ちた。



「…………アンタ、殺されかけたンだよ。妾が来たから良かったものの…………そうかい。アンタがそう云うンなら妾は何も云う事は無い。好きにしな。

 …………悪いが妾は見た物しか信じないよ……が、この子もアンタを殺したかった訳じゃァないンだろう……見る限りね」

 また声がする。今度は夢も見なかった様だ。

 目を開けると、赤い着物が目に這入った。此方をじっと見下ろす少女が見える。寝具の横に立つ鏡花は、前屈みになって私の顔を覗き込んで居た。

「…………」

 丁度戸を開け、人が出ていく音がする。先程の声からして、おそらく女医だろうと想像は付いた。静寂に、今、私とこの少女しか居ないのだと思い知らされる。

「…………首の、怪我」

 掠れた声が出た。私が首を絞められた訳では無いのに。鏡花はそっと自身の首元に触れると、ゆるりとその首を横に振った。見ると、怪我どころか、ほとんど痕すら残っていなかった。

「…………貴女、夢って云ってた」
「……うん」
「私も夢を見た。貴女が首を絞める夢。貴女に首を絞められる夢。『ごめんね』って」

 ―――――――嗚呼。

『ごめんね、本当は貴女を殺したくないの』

 あれは私の声だったのだ。

「貴女の母親はね」
 こくり、と鏡花が頷いたのを確認して、続ける。
「私の母を、殺したの」

 判っていたの。それが仕方の無い事なんだって。私の母は本当に最低な政治家で、死んで当然の奴だって皆思ってたと思う。
 でもね、殺される事無かったじゃないって。
 だからね、悔しくて。

 彼女はね、私の親友だったの。友達だったの。それが、私の母を殺す為の布石だったとして、大事な人だったのよ。だから余計に悔しくて。

 家族を失う苦しみを、お前も味わえば良いって、思って。

『母さんの事、話したい』って云って、家まで云って。
 寝ている貴女の、首を絞めようとした。

「あとは、夢の通り。貴女の母親にバレて、白雪に斬られた。その傷はまだ残ってる」
「…………」
「私は…………二度も、貴女を殺そうとしたのね」
「…………違うと、思う」
 つらつらと話していた私に全く口を挟まなかった鏡花は、静かにその言葉を否定した。
「母が本当に殺そうとしていたら、貴女は生きていないと思う」
「……そうかな」
「…………それに、貴女は首を斬られたんじゃない。その傷は夜叉の傷じゃない」
「―――――え?」
 その言葉に目を見開く。鏡花は立ち上がり、小さな手鏡を持って来た。

「…………これは」

 私の首の後ろの傷の痕は。如何見ても―――――人が引っ掻いた痕だ。

「多分、私」
「…………あ」
「夢の中の私は、血が出る位引っ掻いて、貴女に抵抗した。貴女は血を流しながら逃げた」
 では、あれは斬られたのではなくて、殴られただけ。血が出ている処を殴られて、誤認しただけ?
 では、彼女は私を殺そうとはしなかった?

「其処で夢が終わるから、後は知らない。でも、貴女の顔を見た時、『あの夢の人だ』と思った。首を怪我しているからそうだと思って。貴女は私の事を憶えていない様だった」
「……敦君からね、聞いたの、貴女の事。ああ、あの時の子なんだって思った」
「首が痛そうに見えた」
「…………如何して」

 知らず、涙を流していた。この子は、何故。
「如何して、そんなに」
 この子は如何してそんなに、優しそうな目をしているのか。
「なんで。私を殺したいくらい憎んだって、可笑しくない。貴女はその権利が有る」
 そう云うと、彼女は矢張り小さ否定を示す。そんな気は無いと。私は貴女を憎んでいないと。

「………傷」

 呟いて、彼女は私の首に触れた。首の後ろ、私の傷が有るところ。

「痛そうだったから。貴女が一番痛そうだった。だから私は、貴女を憎む理由が無い」
「…………鏡花、ちゃん」
「私も痛かったけど、貴女も痛かった。母も屹度、貴女を傷付けた事が痛かった。ごめんなさい…………ごめんなさい」

 少女の謝罪を聞きながら、私はそれを必死で否定して、泣きながら「ごめんなさい」と繰り返していた。

 みんな痛かった。これは私の傷であり、この子の傷だった。ただ悲しかった。

 鏡花の指が静かに傷痕を撫でる。この傷は屹度、もう治らないのだと思った。

(2018.03.15)
ALICE+