リビングのローテーブルから顔を上げてぐっと伸びをする。開いた教科書を捲りながら溜め息を零した。天下の英雄は一般科目の進みも早い。入院していた間に後れをとった座学は、学校での勉強だけではとても追いつけない。体育祭前で実技授業が増えていたのが若干の救いである。
 ノートに並んだ癖の無い文字を指でなぞった。体裁の整ったそれは名前のものとは違う。


「名前ちゃん」
 一週間ぶりに登校した日。授業間の休み時間でのことだった。
「――え、と……蛙吹、さん」
 机の前に立ったクラスメイトは、深緑の瞳をぱちぱちとさせた。
「梅雨ちゃんと呼んで」
「つ、つゆちゃん」
 実を言うとそう返されるのではないかと思っていた。同じやり取りを他のクラスメイトとしているのを何度も聞いたから。
 たどたどしい呼び方にケロ、と目を細めた蛙吹は、抱えていた数冊のノートを名前に差し出した。一番上の表紙には『数学T・A』と書かれている。
「名前ちゃんが休んでいた分のノートよ。お役に立てるといいのだけど」
 さらりと続けられた言葉に目を瞬かせる。
「……なんで」
 可愛げの無い言葉が出た。蛙吹が顎に人差し指を当てて首を傾げる。
「授業に追いつくの大変でしょう? 本当は飯田ちゃんと百ちゃんがするはずだったのだけれど、私がやりたいって言ったのよ」
 どうして? 二回目の問いかけをする勇気は無かった。
「あの、ありがとう」
「ケロケロ、分からないところがあったら聞いてちょうだい」
 朗らかに笑った蛙吹が自分の席に戻ってゆく。


 数学、現代文、英語、化学――注釈や色分けまでされたノートに分からないところなんてひとつも出てこなかった。
 体育祭が近いのに名前にどれだけの時間を割いてくれたのだろうか。出来るだけ癖の排除された読みやすい文字。教師が口頭で伝えたであろう知識、テストに出る旨予告された箇所まで注釈されている。
 休んでいた分のノートをクラスメイトから貰うなんて初めての経験だ。当然のことである。協調性も愛想も無い名前へ、わざわざ自分からノートを見せてくれるひとなど、居る方がおかしいのだ。いや、蛙吹のことをおかしいと言う気はさらさら無いが。

 名前は首を振った。集中を向ける先が無くなると、途端に妙な雑念が浮かぶ。
 時計を見るともう二十二時を回ろうとしていた。小さく腹が鳴る。明日は土曜休みだから、少し遅くなっても良いだろうと夕食をすっぽかして机に向かってしまっていた。

 冷蔵庫を覗き、名前は「うわ」と小さく呟いた。
 中はほぼ空。
 にんじんと調味料、スポーツドリンク。あとは賞味期限切れのちくわが一袋。
 最悪食べなくても良いかと諦めかけたが、冷蔵庫の上の薬が目に入る。『朝・夕食後』の文字。十数秒葛藤した後、名前はスニーカーを引っ掛けて外へ出た。
 いちばん近いスーパーは二十二時で閉店してしまう。勉強の息抜きも兼ねて少し離れたコンビニに向かうことにした。

 等間隔で並ぶ街灯の下を通る度に影が伸び縮みする。住宅街は人通りが少ない。時折タクシーや車が通り過ぎる。コンビニに到着するまでにすれ違ったのは、犬の散歩をするカップルと、ランニングをする男性ひとりだけだった。
 コンビニの明りは白々としている。名前が店内に入る前に、自動ドアが開いた。出てきた人物を見て、名前は足を止める。片手にビニール袋を持ち、片手にスマホを握ったかれは釣られたように目を上げた。

「――……アァ?」
 柄が悪い。
 不良もかくやという迫力で顎を上げたのは、上下にジャージを纏った爆豪だった。動きやすそうなランニングシューズがコンクリートをざり、と鳴らす。そういえば緑谷と爆豪の出身は隣の折寺中学だった。このコンビニはだいたい名前の出身中学と折寺中学の学区間に当たる。こうして会うのは十分に起こり得る偶然であろう。
「なんでこんな所いンだよ」
 口の端を曲げる爆豪。会釈してやり過ごそうとしていた名前は、予想外の問いかけに多少なり驚いた。
「……夕飯、買いに来た」
 消え入りそうな名前の声に爆豪は鼻を鳴らす。そうしてコンビニの敷地の端に座り込むと、スマホをいじり始めた。ブルーライトが端正かつ不機嫌な顔を照らした。
 数秒。名前が突っ立っていると、爆豪が勢いよく顔を上げて吠える。
「とっとと買い行けや!」
「……怒鳴らないで、よ……」
「ア゛ァ!?」
 沸点が低すぎる。名前は逃げるように店内に入った。
 ひと通り中を見回るも、特に食べたいものが無い。ゼリーだけで終わりにしてしまおうか。否応なしに担任教師を思い出すパッケージをぼうっと眺めていると、自動ドアの開閉を知らせる音が鳴った。
「いらっしゃーせー」
「おっっせェんだよ何ちんたらしとんだテメェは」
 爆豪の低い声を前にすると、ただ間延びしただけの店員の声ですらやたら柔らかく聞こえる。なぜまだいるのか。帰らないのか。
 爆豪が名前の何も持っていない手を見るやまた舌を打つ。棚の中からビタミンのゼリー飲料を手に取り、名前を目で促す。困惑のままに背を追うと、かれは迷いなく店内を進んだ。インスタントのお粥とサラダチキンを引っ掴み、レジにゼリーとまとめて置いた。
「払え」
 店員がぎょっとしたように名前と爆豪を交互に見遣る。
「テメェの夕飯だろうが。とっとと会計済ませろ」
 言うだけ言ってきびすを返してしまう。名前は僅かに眉を寄せたが、店員と目を合わせてはっとする。このままではカツアゲと勘違いされ――あながち間違いではないかもしれないが――警察でも呼ばれかねない。
「お会計、お願いします」
 商品を受け取り、訝し気な店員と自動ドアの開閉音に見送られて外に出る。爆豪がジャージに手を突っ込んで立っていた。かさりとビニール袋が音を立てる。ゼリーとお粥と、サラダチキン。爆豪が何かを言う前に名前は口を開く。
「……サラダチキン、あんまり得意じゃない」
「タンパク質だわ、つべこべ言わずに食え!」
 名前が小さく肩を跳ねさせると、爆豪は爪先を道路へ向ける。街灯に蛾がぶつかってジジ、と音を立てた。
「家、どっちだ」
「……左」
「何分」
「十五分、くらい」
「危機管理能力クソだな」
 何の確認だろうか。名前の困惑は予想外のひと言で色を変えた。
「送る」
「え。い、いらない」
「いるんだよクソが!」
 爆豪の右手から火花が散る。
「夜中にテメェひとりで帰らせて、なんかあったら俺のせいになるだろうが!」
「ならない、と思う……けど……」
 俯きながら精一杯拒否の姿勢を見せるが、名前が勝てるわけも無かった。


 ぺたぺたとスニーカーで帰路を行きながら、名前はちらりと隣を見遣る。薄明るい街灯に淡く輝く砂色の髪。緑谷が近くにいない時、爆豪は存外静かだ。すぐに怒鳴るし口は悪いが、瞳が痛烈な燃え上がりを見せることはない。
「……ここ、渡ります」
 青信号の下をくぐる。

 爆豪とまともに話したのは今日が初めてだった。名前も爆豪も、理由は異なるだろうが自分からコミュニケーションを取りにゆくタイプではない。実技や座学で同じグループになることも無かったから、いちばん初めのヒーロー基礎学の室内戦での印象が強い。圧倒的な戦闘のセンスと、勝利だけを追い求める苛烈さ。それから執着のような何か。
 会話が無いまま、名前の住むマンションのエントランスに到着した。鍵を取り出してエントランスの扉を開けるのを見届けると、爆豪はきびすを返した。
「あの、ありがとう」
 返答は無かった。



 サラダチキンをほぐし、お粥と一緒に底の深い皿に入れる。電子レンジで温める間、ゼリー飲料に口を付けた。
 街灯に照らされる横顔。信号の三原色を映す鋭い瞳。ふたり分の足音。
 居心地の悪さを覚えなかったのが不思議だった。

 電子レンジが鋭く鳴って、唸りを止めた。
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