「名前ちゃん!」

 教室の扉を開けるなり何対もの視線が名前に集まった。戸に掛けた手がびくりと震え、伏し目がちな瞳が落ち着きなく彷徨う。
「ぉ、」
 顔を明るくして駆け寄ってきた麗日や芦戸がきょとんとして、名前の声を聞き取ろうと耳を寄せる。教室中の注目を感じる。塩をかけられたナメクジの気分だ。名前は小さくなりながらようやっと言葉を発す。
「…………おはよう……と、ご心配お掛けしました……」
 しん、と一瞬の沈黙の後、爆発したように教室が湧いた。
「おはよ――!!!!!!」
「よかったああ!」
「生きててよかったァ!」
「いやマジで心配したわコノヤロー‼」
「A組全員揃った――!」
 初めに勢いよく抱きついてきたのは芦戸だった。ピンク色の癖っ毛が頬をくすぐる。石鹸が強く香った。名前は目を白黒させて、細っこい腕をどこに置いたものかと悩んだ挙句、芦戸の背を柔く叩いた。かのじょの肩越しにほっとしたように笑う幾人ものクラスメイトが見える。
 黒板の前でたむろしていたのは切島や上鳴、瀬呂だ。
「元気そうでよかったぜ。相澤先生には会ったか?」
「……うん……あの、ミイラみたいな」
 上鳴が吹き出す。
「そうそう、名字もあんな包帯まみれで来たらどうするよって話してたんだぜ」
 それは……ちょっと面白いかもしれない。名前の薄い唇が微かにほころびかける。
「復帰早かったもんねー先生」
「実質一日で退院だろ?」
 面白がっている場合じゃなかった。口角を引き結ぶ。あの怪我で一日。どうやって医者を丸め込んだのだろうか。名前は神妙な顔で想いを馳せた。
 こちらを一瞥した爆豪が自席に踏ん反り返ったまま、けっと吐き捨てた。温い馴れ合いしてんじゃねぇよ、などと脳内で唾を飛ばしているのだろう。毒づく声を想像することは容易い。
 髪をぐしゃぐしゃにされ、撫でられ。ついでに不恰好なネクタイを結び直された。麗日があわあわと髪の毛を梳かしてくれる。主に芦戸と葉隠にされるがままになっていた名前だが、

「おはよ……わ、」
 教室に足を踏み入れた耳郎を見た途端、教室の盛り上がりっぷりに顔を引き攣らせるかのじょの背後に回り込んだ。葉隠があーっと残念そうに笑う。
「耳郎ちゃんに負けた〜」
「なに何の話、っていうか名前もう良いの? 体調とか……なんでウチに隠れんの? 芦戸たちになんかされた?」
 自分の背中にくっ付く名前と、何かと悪ノリしがちな友人たちを交互に見遣る。疑問符だらけの台詞が困惑を如実に表していた。
 朝一に悪いことをしたなと思いつつ、名前は口ごもる。
「……スキンシップが、ちょっと」
「ちょっとて! 言うねえ名前ちゃん!」
 けらけら笑う葉隠の声色が明るい。囃し立てる瀬呂と上鳴。堪らず駆け寄ってきた緑谷が、麗日と顔を見合わせて真ん丸の目を細めた。更には飯田の四角四面な注意が飛び、爆豪のうるせえという怒号がそれらを打ち消す。切島がフォローを、重ねて上鳴が茶々を入れた。
 耳郎の肩越しにその風景を見つめる。賑やかで、温かくて、とてもとても眩しい。
「おかえり」
 耳郎が、名前にだけ聞こえる声で囁いた。
 ああ、よかったなあと思った。目覚めてから、初めて。
「うん。……ただいま」

 帰ってこられて、良かった。



「よっしゃ、名字も復帰したし! 改めて体育祭、頑張ろうぜ」
 両の拳をがちんと突き合わせる切島に、名前は首を傾けた。肩口から髪の毛がさらりと流れる。
「……あ、わたし、体育祭出ない……」
 ぱかん、口を開けるクラスメイト達の中、
「病み上がりだものね」
 蛙吹が冷静に言った。



「ほんとはさ、もっと怒ってやろうと思ってたんだけど」
 空になった弁当箱を仕舞いながら耳郎が呟く。その横顔は静かだった。


 名前が復帰した日の昼休み。耳郎と八百万のふたりは、教室で昼食をとっていた。名前も誘ったのだが、いつものように断られてしまったので。どうしても食事だけはひとりで摂りたいらしい。理由は聞かなかった。何であれ、無理強いする気も無い。
 あまり好ましい言い方ではないが、どこに名前の『地雷』が埋まっているかまだ把握しきれていないのだ。少し接するだけでも見え隠れする名字名前の仄暗さは、無暗に手を出してよいものではない。
 耳郎だけでなく、A組の大半が気付いているだろう。腫物扱いしている気は毛頭無いから、あくまで個々人の気遣いの範疇に収まってはいるが。
 それは八百万も同じだった。「お昼の後、用事あるから」――たどたどしい断り文句と合わない目線。明らかに嘘と分かるにも関わらず、残念ですわねと眉を下げただけで、後は何も言わず見送ったのだから。


 まじまじと自分を見る八百万に目を合わせ、耳郎はいたずらっぽく笑う。
「どんだけ心配かけさせるんだ、とか。もっと自分を大切にしろ、とかね。色々考えてたんだけど」
 妥当な苦言だ。八百万が苦笑した。
 耳郎はちらっと窓の向こうの空を仰ぐ。綿菓子のような雲が呑気に浮かんでいた。
「でもなんか違うなーって」
「違う、ですか?」
 箸を置く八百万にクッキーをお裾分けしつつ、耳郎は言葉を探す。コミュニケーションに困った事は無いが、自分が話し上手と思った事も実は無い。どちらかと言えば口下手な方だと思うし、言葉選びも素っ気なくなりがちだ。
「怒ってない……わけじゃないけど……。どっちかって言うと怖かったっていうか」
 くるくると耳朶から伸びるプラグを指に巻き付ける。八百万のほっそりとした指がクッキーの包装を破るのを眺めながら頷く。自分の吐き出した言葉に得心がいったように、もう一度深く。
「友だちが知らない間に死にそうになってたら、怖いよ」
 八百万が口を開き、暫し逡巡する。そのまま珊瑚色の唇を噤むことで続きを促した。

 耳郎は八百万と上鳴と共にUSJのエリアに飛ばされた。互いが互いに命を預け合う心強さと不安感を味わい、またそれにより深まった絆もある。同時に、自分の手が届かない場所で全てが終わる可能性を嫌という程実感した。可能性の象徴が名前だ。

「名前は強い。って、分かってるんだけどね」
 ――『怒ってもいいと思うぜ』。ヒーローを目指す者としてではなく、ただの名字名前の友だちとして。ぽんと放るような気軽さだった。上鳴は己の価値観で、誰かにとって都合のよい免罪符を配る。
 耳郎は貰った免罪符をよくよく眺めて――結局、秘めることにした。
 これから先も耳郎は勝手に名前を心配するし、怪我をしたら恐怖する。名前の知らないところで勝手に怒って泣く。
「でも、ちゃんと帰って来てくれたから、許す」
 『ただいま』と言ってくれた。怒るけど、怖いけれど、それさえ本人の口から聞けるのならば、良い。耳郎は勝手に許していつも通りに笑うと決めた。
 どこか吹っ切れたように言う耳郎に、八百万が唇を噛んだ。
「わたくし、傍にいたんです。あの黒い靄のヴィランに飛ばされる時」
 平生はぴんと弦の張ったような声音が、小さくしぼみ、昼の喧騒に混じる。耳郎は顔を上げた。
「届きませんでした」
 ぽつり、落ちた声は小さい。
 まだ一年生だ。ヒーローの卵ですらない有精卵。無力に感じることすら、もしかするとおこがましい。
 それでも耳郎たちは、可能性を知ってしまった。自分たちの手の届かない場所で誰かが命を落とす可能性を。すべてが終わった後でそれを知らされた時の無力感を。

「体育祭、頑張ろう」
 この一週間、教室で幾度も交わされた言葉を口にする。今はまた、目の前の壁を乗り越えることしかできない。
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