斯くして退屈な日々は終わり――――

 誰かの叫びが聞こえた。
 それが、誰の叫びなのか致命的に思い出すことはできないが、しかし、叫んでいる誰かの感情と放った言葉だけは、鮮明に思い出すことができる。――――怒りだ。世界を焼き尽くしてしまうほどの強い怒り。憤怒。もはや、憎しみにも等しい声が、周囲の空気をつんざくように叫んでいた。
 この声を聞くたび、胸が締め付けられるかのようで、いつも泣きそうになった。――――いつも? そう。思い出せなくても、いつも、泣きそうになった。悲しくて、悲しくて。そして、自分に彼の怒りの原因となるそのすべてを取り除いてあげられないその無力が、さらに自分を惨めなもののように感じさせて、苦しくなってくる。おそらく、叫ぶその誰かはこんなことを零していたなどと知ったら余計に怒りを増幅させたに違いないと確信が持てるが。涙がはらり、はらりと、クレーターだらけの床を濡らしていくのを黙って眺めている事しかできないのだ。
 哀れがましいほどにまで、この世界の中で自分が無力なのだと思い知らされてしまう。

――――お願い。

 小さな声にもならない。唇がわずかに開かれて、吐息のようにするりするりと言葉が滑り落ちていくかの様だった。誰かがその声を聞き留めた様子はない。無力な声は、誰の耳にも届かず、ただ、白煙の中に紛れて消えて行ってしまう。また、涙が頬を伝って落ちる。どうして、こんなに悲しかったのか。もう、思い出せないのだ。

――――もう、やめて。

 憤怒の咆哮が、白煙の中遠くなっていく。
 冷たくなった周囲の空気に合わせて、何かが、少女の中にあった決定的な何かが凍り付てしまうような感覚があった。
 駄目。
 ああ。
 急がなくては。
 それまで悲嘆に暮れていた足が、急に力を取り戻したかのように踏み込むことができた。なぜか手に掴んでいた刀の柄を強く握り込み、刃を鞘から走らせ、障害となるものを斬ってしまおうとしたその瞬間だった。白い靄の中。誰かいると知りながらも、これまで少女の瞳には映る事のなかった誰かの、――赤い――瞳が向けられている事に気付いた。その瞳を見ると、なつかしさがあり。いとおしさがあり。そして、言いようのない悲しみだけが、少女の心を満たしていく。どうしようもない、絶望。少女を咎めるような、怒っているような赤い瞳の視線に、少女は再び、動く力を失ってしまった。
――――どうして。
 その問いかけには誰も答えてはくれない。どれほど嘆いたところで、答えをくれるはずのその赤い瞳は再び見えなくなった。消えないで、と手を伸ばした。だが、手は届かない。もう少し頑張れば、もしかしたら届いたのかもしれなかったが、何か、薄い壁のようなものが、少女とその見えない誰かを隔ててしまった。

――――返して。
――――あの人を、返して。


* * *


 右京紅葉は目を開けた。
 どうやらいつの間にかうたた寝をしてしまったようだ。ぼんやりと見える、見慣れたようで見慣れない景色を眺めて、今まで見ていたものが夢であったと理解する。白い部屋に一つだけ置かれている備え付けのパイプ椅子に腰かけていて、わずかに崩れた体勢を自分で治すと、静かにため息をついた。
(……夢。……夢か)
 夢を自覚し、首をふるとその内容は自然と霧散していった。残ったのは、言いようもない寂寥感と孤独感だけ。夢の内容を思い出せないが、その光景は懐かしいものを見たような気がした。と入っても、思い出せないものにいくら思いを馳せたところで、思い出せるようになるとは限らない。
 紅葉は夢について考えることをやめ、手元に広げられたままだった本を閉じる。その本の表紙はイタリア語で書かれており、豪華な装丁のものだったが、丁寧に扱うような様子はなく、少し乱雑に近くに置かれていた鞄に突っ込んだ。そして、ぐるりと白いばかりの部屋へ視線を辿らせる。中央には白く清潔なシーツがシワひとつなく敷かれている簡素なベッドがあり、その脇に木目調の暖かな色合いの床頭台が置かれ、唯一白い部屋の中に色味があった。その他は特筆するようなものは置かれていない。広めの個室であることを除けば、ごく一般的な病室だった。
 ――――そう、ここは病室なのだ。
 紅葉はこの病室で一年過ごした。何の病であったのか、結局わかったことはあまり多くはない。だが、一つだけ明確についている病名を上げるとするならば「解離性健忘症候群」――――ストレスやトラウマをきっかけにして、自身が何者であったのかというパーソナル情報を忘れてしまうという健忘症候群の一種だ。この病名から察する通り、紅葉は自身の記憶がない。もっと厳密に言えば、六歳からの記憶がまるでなく、自分が紅葉だという情報は他者から教えてもらったものだった。紅葉はこの病名について聞かされたのは、イタリアに来た時だが、記憶の欠落そのものは、居候先のある日本にいる時からずっと感じていた。紅葉は日本にいる時に、時折感じる強い頭痛と記憶の欠落を原因に大きな病院にかかったのだが、その病院で診察した医師は早々に、そういった脳の病気に詳しい医師として、現在の主治医を紹介してくれた。しかし、彼は日本に中々来ることができず長期的な治療や診察は難しいという話になり、彼の活動拠点であるイタリアにある病院に、紅葉が入院することとなった。
 それが十三歳になる年の春のこと。そして、今十四歳になる春を迎え、紅葉は漸く退院することが許された。――――というよりも、どれだけ療法を重ねても、紅葉が紅葉であった事実を思い出すことができなかったのである。他者から教えられた事実として、自分が紅葉であることは理解していても、そこに感情を伴った経験が何一つ存在していない。六歳より以前の記憶がない。それ以降の記憶ですら「記録」として何が怒ったかは理解していても、感情が伴っていない。ただ、映像が流れていくのを見せられているだけの気分なのだ。紅葉という自身を形成するための経験がないことにより、非現実的な自己乖離が紅葉を悩ませ、しかし、それを直すための手段はどこにも存在せず。紅葉の脳は、正常な十代の脳だと診断され続けた。
 正直、周りが悩むよりも紅葉はそんな自分を割り切っていたし、それでいいとすら思うようになっていたのだ。それを強がりだとか、本当は辛いだろうに、という悲観した目線を向けてくる看護師などはいくらでもいたが、紅葉としてはそれすらもどうでもいい絵画や映画でも眺めているようなものだ。どういう形であれ、生きているのだから、そうやって生きるしかない。紅葉は十四歳を前にして、すでに老成してしまっている。
 そういった紅葉の事情や、脳の異常がない事、治療を続けても改善がないことを理由に退院が許され、そして、紅葉は今日、退院する。迎えが来るまでは部屋でおとなしくしていよう、などと甲斐甲斐しいことを思ってみて、鞄に入れただけだった本を取り出したところまでは良かったのだが、そこからはうたた寝し、なんとも言えない夢を見る始末。
(……疲れてたのかな)
 ぼんやりと考えながら、紅葉は当座の衣服だけを詰めたキャリーバッグの上に腰掛ける。耐水性、耐衝撃性、防塵性に優れた頑丈が売りのキャリーバッグは紅葉が座ったくらいでは、タイヤがわずかに動くくらいで、本体はびくともしない。そもそも、紅葉は十四歳になる子供にしては一回り程度小さく、体重も随分と軽いので、キャリーバッグをどうこうできるような体格ではなかった。
(……迎え、まだかな)
 本はしまってしまった。アルバムも、日本へ送るためのダンボールの中なので、先程運び出されてしまった。ボードゲームの類もそちらだ。他に暇つぶしできるものはなかっただろうか、と考えるが、しかし、やめた。椅子代わりのキャリーバッグの上で膝を器用に抱えると、紅葉は目を閉じる。

――――俺は、誰?

 自分への問いかけ。答えてくれる誰かがいるわけではないが、それでもこの問いかけを続けることは紅葉自身が「自分は右京紅葉である」という自覚を持ち続けるためには必要で、主治医から提案された方法だった。
――――右京紅葉。日本の並盛に住んでいる十四歳。女。今年の春から、日本の並盛中学に編入するために、今日、日本へ帰ろうとしている。

 ちゃんと答えられたことに満足して、紅葉は目を開ける。それと、ほぼ同時に部屋がノックされる。
「紅葉、いるか?」
 聞こえてきたのは男性の声だった。快活で、明るいような声音は紅葉にも聞き覚えがあり、どうぞ、と素直に答える。扉はその答えからほぼ間を開けずに開かれて、現れたのは金髪の好青年だった。左腕に特徴ある入れ墨をしているその青年は紅葉が器用にキャリーバッグの上に三角座りをしているのを見つけると、少しだけ驚いた顔をした。
「おいおい、危ないだろ」
「キャリーバッグは、耐荷重100キログラムになってるから、大丈夫。ディーノ」
 紅葉の答えに、困った顔を見せた男――――ディーノはイタリアでの後見人のようなものだ。まだ二十二歳と若いが、どうやら会社を経営していてやり手だと聞いている。彼は紅葉がイタリアに来た時に紹介され、それ以降、一年、色々と面倒を見てもらった。必要なものの手配や、帰りの支度、退院の手続きも、ディーノとその部下の方でしてくれたようで、ディーノは紅葉の病室がすっきりと片付いていることに満足気に頷いた。
「……まあ、キャリーバッグの耐荷重については置いとくとしようぜ。紅葉は軽いだろうし、問題はねぇだろうけど。――――いや、この話はやめだ。片付けも済んでるみてえだし、早速退院しようぜ。もう、手続きも終わらせてきたんだ」
 ディーノは先程よりもずっと人好きのする笑みを浮かべる。手続きが終わっているということは、そのまま帰っても問題ないということだ。手続きの間中、エントランスでぽつんと待っていなくていいというのは非常に助かる、と紅葉はわずかに視線をディーノに向けた後、床に転がしてあった鞄を掴んで持ち上げた。
「おっと、そういうのは男に任せるもんだぜ?」
「別に大した入ってないし」
「そうじゃねえよ。エスコートは男の嗜み。イタリア人だぜ、俺」
 ディーノは言い終わるより先に、紅葉がそれまで座っていたキャリーバッグの持ち手を掴んで、紅葉を先行するように歩き出す。紅葉はその後ろを追うように、病室から出ようとして、そしてふと足を止める。後ろ髪を引かれるような懐かしさはなく、しかし、一年を過ごした部屋への愛着のようなものは紅葉の中に存在していたらしい。
「――――さよなら」
 誰に向けた言葉だったのか、紅葉はわからない。それでも、言わなければならないと紅葉の口が勝手に紡ぎ出した別れの言葉。その一言を告げれば、紅葉はもうこの病室に用はない。
 目指すはイタリアのはるか遠く。空の向こう側の日本である。
(元気にしているだろうか)
 紅葉は鞄の中から、ひとつ手紙を出し、その中身を取り出した。写真だ。――――一軒家をバックにして、優しげな女性が一人と、その息子と思われる制服姿の少年が一人。そして、それをぐるりと取り囲む仲よさげな友人たちと思しき姿。

(――――漸く。漸く、ここから帰ることができる)

 紅葉は遠くを見上げるようにして、病院の窓から空を見る。
 その向こう側にあるのは退屈とは無縁の日々。
 そして、紅葉にとっては運命との邂逅となることを、まだ誰も知らないのだった。