幼馴染、来る!

 青い空を一羽の鷹が駆け抜けていった。
 それを、部屋のベランダから眺めていた小さな黒いスーツを来た赤ん坊は、かぶっていたハットを引き寄せて、深刻な表情を浮かべた。鷹は迷わず、赤ん坊――彼の名前はリボーンという――の近く、ベランダの柵に止まると、胸元にかけられていた手紙を見せる。賢い。この手紙のやり取りのために調教されていたに違いないと思わせる鷹の動きを、リボーンは大した気に留めず、赤ん坊らしからぬ動きで、手紙を器用につかみ取り、蝋封を確認した。
「――――九代目か」
 ボンゴレの蝋封。これを使うことができるのはファミリーのトップである九代目ことティモッテオただ一人である。――――現状は。もしも、リボーンが家庭教師をしている沢田綱吉が、ファミリーのボスになると宣言してくれれば、彼も使うことができるのだが、今の状況ではそれも厳しいだろうと、ふう、とため息を付きながら、定期連絡とは違う、急な九代目の手紙を開封するために、一度部屋の中に戻った。
 中学生の男子らしい、わずかにとっちらかった部屋。ベッドとデスクが一つずつあり、テレビには出しっぱなしのテレビゲームが繋がれ、飲みかけのペットボトルが床に転がっていた。
 一年経って、いくらか変わったかのようにも、変わっていないようにも見えるその部屋は綱吉の状況をそのまま現していると、リボーンは思いながら、綱吉がいないのをいいことに、デスクを占領し、懐からペーパーナイフを取り出すと、丁寧に封筒の折込部分を切って、中から便箋を取り出した。便箋は三枚。一枚目は九代目らしい丁寧な字で綴られた時節の句である。リボーンや綱吉が息災であることが何よりも喜ばしく、イタリアではミモザの花が至るところで見られるようになり、春が待ち遠しいことが書かれていた。そして、二枚目。こちらは死炎印と呼ばれる、ボンゴレの特殊な印が押されており、リボーンが手紙を開くとぼう、とオレンジ色の炎が宿った。ボンゴレの秘術とも言える死ぬ気の炎である。これが押されるのはボンゴレファミリーのボスが勅令を用いるときや、情報が本物であることを証明する時だ。それだけ、重大な情報がリボーンにもたらされようとしているということに、リボーンは知らずのうちに緊張し、帽子の下で、わずかに眉間にシワを寄せた。

――――さて。リボーン、君がボンゴレ十世こと綱吉君の家庭教師になって一年になろうとしている。長きに渡り、君を一所にとどめてしまう愚行だが、私は決して間違っていないと今でも思っている。君から送られてくる、綱吉君の成長ぷりに目を見張るばかりだ。どうか、このまま、綱吉君とそのファミリーの教育を頼みたい。

 リボーンは文字を追って、少しだけ口元を緩める。改めて頼まれるまでもなく、綱吉がボンゴレのボスにふさわしくなれるよう今後も教育は続けていくつもりだ。リボーンは小さく、遠きイタリアの地にいる友、ティモッテオを思って任せておけ、と呟く。そして、手紙はまだまだ続いていることを思い出して、読み進める。

――――今回、私が君に筆を執ったのは他でもない。君に、もうひとり教育をつけてほしい子がいるからだ。君も、一度出会っていて、短い間だが、教鞭を執ってもらったことがある。覚えているだろうか、美しい星の瞬きを。

「……星の瞬き?」
 リボーンは顔をしかめた。九代目が勅令にも似た手紙で抽象的に、人物についてぼかすのは珍しいことだった。まるで、口に出すことを、いや、文字にすることを憚っているかのような行動に、リボーンは訝しんで続きを読むことにした。

――――記憶を失い、美しい星は瞬くことをやめてしまった。ボンゴレでは、彼女の名前を出すことは半ば禁忌と化している。だが、綱吉君にこそ、彼女は必要だろうと私は思っている。本来なら君が日本に向かった時、彼女も綱吉君といるはずだったが、手違いで彼女はイタリアにいた。
――――きっと、君と会えなかっただろう。

――――彼女は、もう、全てを失ってしまった。悲嘆に暮れることも、怒りに身を任せることも、絶望することさえ、彼女はもう自分の思う通りにはならないのだ。私は、それが哀れでならない。どうか、我が友よ。彼女にもまた、生きるための力を与えてあげておくれ。そして、綱吉君同様、不慮な事故が彼女を襲わないよう、見守っててあげてほしい。

――――彼女の名前を記しておく。
彼女の名前は――――。

「リボーン!」
 下の階から声が聞こえた。綱吉の声だ、どうやら、菜々とでかけ先から帰ってきたらしく、ランボやイーピンの声も聞こえる。それに混じって、ママンこと、菜々の声も。それに聞き慣れない少女の声がリボーンの耳に飛び込んでくる。気配は、随分と覚えがあったが。手紙の先を読むまでもなく、リボーンは九代目の頼みを理解して、手紙をさっと燃やした。こういったものは残すべきではない。九代目のためにも、自分のためにも、だ。リボーンはソロでヒットマンをしていたときから、そうやってきたのだった。
 そうした後、階段をやけに遅く上がってくる足音が聞こえ、そして、綱吉がためらいもなく自分の部屋のドアを開けて入ってきた。デスクの上にリボーンがちょこんと座っているのを見て、拍子抜けした顔を見せた。相変わらず、顔ににじみ出るダメっぷりにリボーンはため息を付きたくなったが、そんなことはせず、綱吉を見ていた。
「リボーン、なんだ、ここにいたのか。ただいま」
「おう。なんだ、迎えはもう終わったのか?」
 綱吉と菜々は空港まで迎えに行っていたのだ。この家に本来住んでいるべきもうひとりの住人。おそらくはリボーンや、ビアンキ、ランボ、イーピンよりもずっと早い時期から居候をしていたリボーンの先輩とも呼べる人物だ。イタリアの病院に一年入院していたらしく、今日、漸く帰ってきたのだ。
「うん。母さんが今日は紅葉ちゃんのためにごちそうだって張り切って買い物までしてきたよ。あっ、紅葉、荷物って部屋に入れていいのか?」
 綱吉が開けっ放しのドアから振り返ると、ちょうど階段を上がりきったらしい綱吉よりも頭半分程度低い少女が見えた。リボーンは帽子を軽く引き下げて、その少女を見た。夕日色の髪、緑色の瞳、日本人にしては随分と白い肌。リボーンを見つけて、驚いたのだろう、まるまると緑色の瞳を見開いて、そして、綱吉を見た。
「――――ええっと。この子が、ツナの言ってた、家庭教師?」
 普通は赤ん坊が家庭教師だなんて、疑うに違いない。最初は菜々も、綱吉もそんな反応をしていたが、一年もするうちに、リボーンが家庭教師であるということは疑いようもなかった。綱吉は、なんだかんだ言って勉強を見てもらっているし(獄寺や、山本に見てもらうことも多かったが)、度胸だって以前に比べればついた。学校への出席率も以前とは比べ物にならない、と菜々は喜んでいたのだ。綱吉は至極真っ当で、真面目くさった顔をしている紅葉の当惑した声音にどう返事をしていいかわからず、ああ……まあ、とてきとうな返事をするにとどまったが、察したリボーンの飛び蹴りが綱吉の後頭部にクリーンヒットし、綱吉は自室の床にダイブすることになって、奇声を発した。
「ちゃおっス!」
「……ちゃ、チャオ」
 さすが、イタリアに行っていただけはある。ちゃんと、チャオと返してきた、とリボーンは綱吉の頭の上から紅葉を見上げる。紅葉は赤ん坊であるリボーンに合わせてかがみ込み、まじまじと不思議な赤ん坊を上から下にと眺めた。本来なら、ものすごく失礼な行為だが、リボーンはそんな程度でわざわざ怒ったりもせず、逆に紅葉を観察した。
(……本当に覚えてねぇんだな)
 リボーンはそう考えながら、しかし表情に出すことはなく、紅葉を見上げる。あの頃と同じような、きらきらとした緑色の瞳には、リボーンがはっきりと写り込んでいた。
「ツナの家庭教師のリボーンだ。世界最高のヒットマンだ」
「り、リボーン!」
 ヒットマン。
 紅葉は現実離れしている赤ん坊から、更に現実離れした単語を聞いてしまい、あまりにも困った顔をして、綱吉に目を向けるしかなかった。

* * *

 その日の夕食は沢田家の夕食の中でもとりわけ豪勢で、五歳だという牛柄の服を着たランボと、中華服を着ている弁髪のイーピンが二人ではしゃいでいた。紅葉は菜々がまだまだ料理を続けようとしているのを、なんとか綱吉と止めて、食卓につくと、紅葉の好物がずらりと並んだテーブルを一回り見て、顔をほころばせた。
「イタリアじゃあ、あんまり和食食べられなかったでしょ? 今日は、紅葉ちゃんの好きなものたあっぷりと作ったから、たくさん食べてね!」
 菜々の明るい声、おいしそうな匂い、がやがやと楽しげな食卓に、紅葉は頷いた。
 紅葉が一年前、イタリアに行く前まで、沢田家は菜々と綱吉、そして紅葉の三人だけだった。にぎやかとも呼べないし、綱吉は当時、反抗期真っ盛りで、菜々に対して幾度もなく反抗していたように紅葉は思う。思春期に入ると男の子は母親に反抗したくなるものだ。父親が長く家を空けていることも原因の一つだっただろう。しかし、どうだろう、一年ぶりに帰ってきてみれば、綱吉はどこか変わったと紅葉は思う。何より、この食卓の人数だ。ビアンキという紅葉や綱吉より少し年上の女性に、五歳のランボとイーピン、そして、赤ん坊のリボーン。彼らとのにぎやかな食事はイタリアにいた頃、病室で一人食べていた食事とはまるで違う。明るくて、楽しくて、久しぶりに食事が美味しい、と素直に思えた。
「イタリアはどうだった?」
 思い出したかのように綱吉が聞いた。紅葉は苦笑をこぼして、菜々お手製の唐揚げを箸でつまんだ。
「病院の中にいたんだぞ、楽しいことなんてないって。ああ、でも、月に一度、ピアノの演奏会があって。小さなパブで有名なピアニストが来て、演奏してくれたんだ」
 紅葉は病院での記憶を手繰って、綱吉にどんなことがあったか教えた。山程積み上がった本を読む時間があったし、勉強にも家庭教師をつけてくれたことを話すと、綱吉は「せっかく学校に通わなくて済むのに勉強してたのか……」と気まずそうな顔をしていたので、紅葉は綱吉が相変わらず勉強嫌いなのだということを悟った。
「週に一度、外出してもいいっていわれるんだけど。イタリアは、未成年だけで街を歩くとすぐ警察に呼び止められちゃうんだ。治安が悪いところもあるんだって」
「えっ、そうなの? や、やっぱり、マフィア、とか……?」
 綱吉が、おそるおそる紅葉を伺い見て、聞いた。もしかしたら、紅葉はイタリア滞在中、マフィアに遭遇したのかもしれないと思ったからだ。きょとん、と紅葉は目を見開いて、ご飯を箸ですくい取る手を止めて、しばらくしてから、珍しいくらい笑い出した。
「紅葉!」
 笑われたことに対して、綱吉が癇癪にも似た声を出した。綱吉としては大真面目だったのだ。なにせ、この一年、お前は巨大マフィア、ボンゴレファミリーの十代目ボスになるんだ、とまるで洗脳のようにリボーンから聞かされ続けてきたのだから。しかし、紅葉はまだこの事実を知らないので、まるで映画の登場人物にでもなったかのようなことを言うのだな、という程度にしか思わなかった。
「――――ああ、ごめん。ごめんってば、ツナ」
 まだ紅葉は笑いを噛み殺しきれず、くつくつと喉の奥で笑っていた。しばらく笑い続け、そして、漸く復帰すると、目尻に溜まった涙を指で拭って、あー、と一息ついた。
「映画や漫画じゃないんだから、マフィアが表通りを闊歩してるわけ無いだろう。地域によっては、マフィアが幅を利かせてるところもあるだろうけど――――」
 日本だってヤクザは裏で暗躍している程度だろう。
 紅葉はまるで怖い夢を見た幼子に言い聞かせるように、綱吉に対して言った。紅葉はたくさんの本を読む。綱吉は昔、紅葉を本の虫だと言ったことがあったが、まさしく紅葉は本の虫だ。だが、マフィアやヤクザは存在していたとしてもあくまでも裏社会のものであって、堂々と日向を歩くものではない。フィクションと現実を混同させるとろくなことにならないぞ、とどう解釈すべきなのかわからない、明らかに異質な赤ん坊リボーンへちらりと視線を向けて、紅葉はそれだけだった。
「ともかく。治安が悪いっていうのは何もマフィアだけじゃないよ。地元の悪い人とか、不良みたいなののたまり場もあるよっていう話。日本じゃ想像できないけど、下町っていう貧困街みたいなのもあるって、教えてもらったけれど」
 紅葉は話しながら、綱吉の近くにあった春巻きをとってくれるように頼んだ。綱吉は皿ごと持ち上げて、紅葉の前に春巻きを出してやる。皿から二つ、紅葉が春巻きを取ると、大皿をテーブルの上へ戻した。紅葉はぱりぱりの皮の春巻きを頬張った後、数度咀嚼して飲み込んだ。
「紅葉は――――イタリア、楽しかった?」
 綱吉がどこかこわごわとした様子で聞く。二本目の春巻きにかじりつこうとしていた紅葉の顔から表情が一瞬で、すとんと表情が抜け落ちたかと思うと、紅葉は綱吉にどこか冷えた緑色の瞳を向けて、きゅと唇を引き結んだ。そして、何か言おうとしてやめて、笑った。
「――――楽しかったよ。とても」

 それからしばらくして、紅葉は風呂を済ませて二階へ上がった。入れ替わりに綱吉が風呂へ入っていくのを見たので、二階には紅葉一人きりのはずだったが、紅葉の部屋と書かれているプレートが下がったばかりのドアのノブへ手をかけた途端、紅葉は部屋の中から小さな気配が、本当に霞のごとく消えてしまいそうになるのを感じ取った。だが、それが悪いものではないとわかると、ゆっくりとドアノブを回して、部屋の中へ入る。紅葉の予想通り、暗い部屋の中には黒いスーツを着た赤ん坊――リボーンと名乗っていた――が、ちょこんと紅葉の部屋の中央に立っていた。
「すげぇな。オレの気配がわかるとは」
 赤ん坊らしからぬ流暢な言葉で、リボーンはそういうとくるりと振り返った。これまで気付かなかったが帽子の上には緑色の小さなカメレオンが這っている。紅葉はそれらを凝視しつつも、部屋の明かりをつけるために、入口近くのボタンを片手で押した。ぱっ、と部屋が明るくなるとリボーンの気配は先程のような霞程度のものではなく、普通に感じられる程度になった。
「ちゃおっス。右京紅葉。――――少し、話がある」
「…………どうぞ。ええっと。お茶は飲める?」
「ああ」
 紅葉は部屋においてある電気ケトルに水を汲むために一度、下へ降りた。菜々がお茶なら淹れてあげると言ってくれたが、自分で紅茶を淹れると言って、水をケトルの入れられるところまで入れて、二階へと戻る。思い出すのは変わった赤ん坊、リボーンのことだ。なぜだか、彼とは初めて出会った気がしない。もっと昔に、出会ったことがあるような……そんなことを思い出そうとして、紅葉はちくりと額の奥側が痛み出した。ちっ、と舌打ちをして、紅葉は考えを振り払い、部屋へと戻る。ケトルをセットして電源を入れ、お湯が湧くのを待っている間にティーポットと、カップを用意して部屋のローテーブルに並べた。お菓子入れになっているボックスからイタリア語で書かれているクッキー缶を取り出すと、「ツナたちには内緒だよ」と言って、クッキーを数枚皿に並べてリボーンと自分の前に並べて出した。それから無言だったが、ぱちん、とケトルが音を立てたので、紅葉は立ち上がってケトルからお湯を茶葉の入ったポットへ移した。本当は一度ポットを温めるべきだと知っていたが、そんな暇はないと思ったのだ。そして、葉が開ききるのを十分に待ってから、二つ並べたティーカップに紅茶を最後の一滴まで注ぎ入れて、カップをソーサーごとリボーンへ渡した。
「――――砂糖と、ミルクは必要?」
「いや、結構だぞ」
 リボーンはなれた手付きでティーカップを持ち上げた。自分の手よりも遥かに大きそうなティーカップを器用に持ち上げるのを、紅葉は面白そうに眺めてしまった。
「熱くない?」
「平気だ。――――それよりも、お前、ティモッテオっていうおじいさんを知ってるか?」
 紅葉は自分の紅茶を一口飲んでから、砂糖を入れて混ぜ合わせる。ティモッテオ、という老人には覚えがある。紅葉の入院中何度も病院に訪れた人で、何でも有名な篤志家らしく、紅葉の入院していた病院にも多額の寄付をしていたのだとか。病気の治療のために長い期間入院しているという紅葉を大層かわいがってくれ――彼は、息子を喪ったのだと話していた――まるで、紅葉を自分の娘か、孫のようにかわいがってくれた。忙しいから、あまり会えなかったが二週間に一度ほど、紅葉と昼食を食べるために病院へやってきていた、優しげな眼差しの老人を思い出して、紅葉は小さく頷いた。
「ティモッテオさんは、いつも、俺のことを心配してくれてて。ここらへんのお茶とか、全部ティモッテオさんが日本に帰るって言ったら用意してくれたんだ」
「そうか。……ティモッテオが何をしているか、聞いたことはあるか?」
「……大層な篤志家だっていうことだけは知っているけれど」
 どんな職業なのかは聞いたこともなかったし、聞いてはいけないような気がしていた。何より、ティモッテオという老人が聞かれることを望んでいなかったと紅葉はさみしげな笑顔を浮かべる彼を思い出して、リボーンの質問に対して首を振った。
「じゃあ、オレがどうしてツナの家庭教師になったかも知らねーんだな?」
 リボーンから鋭い視線を向けられて、紅葉はこくりと縦に頷いた。
「オレは、お前が出会ったティモッテオ、巨大マフィアボンゴレの九代目ボスから頼まれて、ツナの家庭教師になったんだ」
 危うく、紅葉はティーカップを落としそうになった。だが、ぐらついた反動で紅茶がカップからこぼれてしまい、紅葉の服を汚した。幸いにして熱さはあまり感じなかったが、お気に入りの部屋着にもしかしたらシミが残ってしまうかもしれない。紅葉は慌てて近くにおいてあったティッシュペーパーで服のシミを叩いた。気休めにしかならないと知っているが、しないよりはマシという精神だった。
「……マフィア? あのティモッテオさんが? あんなに優しそうな、本当に優しい人なのに」
「そうだ。世界でも有数の巨大ファミリー、ボンゴレのボスだ」
――――ボンゴレ。
 紅葉はその名前を聞くと、つきりと、額の奥が再度痛み始めた。先程、リボーンに見覚えがあるような気がすると深く考えたときと同じ。紅葉は自分が思い出せない記憶に触れそうになると、頭が痛みを訴える。解離性健忘症の、弊害のようなものだ。これがあるせいで、紅葉は六歳より前のことを、何も思い出せないままなのだ。――――自分が何者であるかも含めて。
「…………じゃあ、ツナは、ティモッテオさんの後継者に? あの、何でも逃げ出したがる綱吉が、学校中の誰もがダメツナって呼ぶツナが、マフィアのボスに?」
 紅葉はまくしたてるように、リボーンにそう聞いた。焦っているようにも、怒っているようにもリボーンには聞こえたが、紅葉の表情は先程からまるっきり変わっていない。驚いた時を除いて、紅葉の表情筋は片時も動かず、無表情だったのだ。それを、紅葉自身が気付いているかは別として。
「…………あいつには、無理だ」
 紅葉の声が、苦々しくその言葉を吐き出すまで、時間がかかった。リボーンはその紅葉の緑色の瞳をしっかりと見つめる。
「ティモッテオ――――九代目はそう思ってない。少なからず、ツナに見込みがあると思ってんだ。そして、お前にはツナを支えてほしいって、九代目は思ってるみてぇだ」
「幼馴染の、まして同居人の尻拭いなんてこれまでもしてきた。それは、別に、今更だけど、どうして、ティモッテオさん、――――それとも、九代目と呼ぶべきか? は、俺を知ってたんだ」
「お前の父親のことは?」
「知らない」
 紅葉はこれまでの無表情とは違い、怒りとも嫌悪とも取れる表情で言い捨てた。
「会ったこともない」
「手紙は来てるだろう?」
 リボーンの指摘に、紅葉はぐっと言葉をつまらせた。
 そのとおりだったからだ。紅葉は父親に会ったことはない。顔も知らなければ、声も知らないが、手紙だけは毎月届いている。たくさんの本と共に。そして、断片的にだが、綱吉の父親である家光から友人だという紅葉の父親について聞いたこともある。紅葉は、外見的も内面的にも父親によく似ていると言われた。挙句の果てには、家光は笑って「多分、あいつを女にしたら間違いなく紅葉ちゃんだろうな!」と言い切ったので、そういうことなのだろう、と紅葉は思っている。だが、父親の話を聞くときに、言いようのない嫌悪感と、例えようもない恐怖が体の奥底から湧き上がってきて、紅葉の心の身動きを奪ってしまう。リボーンはそれを察したかのように、紅葉の手を撫でてやった。小さな手に撫でられて、紅葉ははっと顔を上げる。いつの間にか考えに没頭していたらしい。
「右京紅星は、ボンゴレの大幹部の一人だ。やつがボンゴレの医療体制の大半を仕切っている」
 リボーンに言われたことは、思ったよりもすとんと落ちてきた。先程、綱吉が十代目になると暗に言われたときよりも。紅葉は口元を抑えて、吐き気に耐えるようにした。与えられた情報量がキャパシティを越えていたし、何より、自分が遠回し的にマフィアの子供だと指摘されたのだ。そして、行く末はボスとなる綱吉を支えて、マフィアになる――――。紅葉はゆっくりと、ゆっくりと情報を自分の中で噛み砕いては飲み干し、そして、もう一つ、思い当たる節を見つけて、考えを重ねた。そして、長い、考えの間リボーンは何も言わず紅葉を見ていた。紅葉が次の言葉を発するまで、たっぷりと十五分はかかっていた。
「……ディーノも、マフィアか」
「おっ。もう、ディーノに会ったのか」
 否定されなかったことが、最大の答えだと紅葉は知っている。はぁ、と大きくため息を付いて、長い前髪をかきあげた。奇しくも、リボーンが知る限り、それが紅葉の父親紅星の考えが行き詰まった時や、自分の思ったとおりに行かないときにする癖だった。紅葉はそのまま、再び、しばらく無言になった。――――いつの間に、自分の周りがマフィアで固められていたと思うだろうか。一瞬で、自分の信じていた日常が突き崩された気分。だがしかし、紅葉はそれをあまり不快には思わない。戻ってくるべき場所に、戻ってきたような気分でさえあった。頭での理解と、心での感じ取り方の乖離が、余計に紅葉を混乱させていた。
「……ごめん。リボーンくん。少しだけ、一晩、整理する時間をくれないか」
 紅葉は長い夕日色の髪をばさばさとふりながら、リボーンに向かって言った。紅葉は顔面蒼白とまでは行かないが、青白い顔をしていた。取り乱すような真似は一度もなかったが、きっと突然聞かされた話にひどく混乱したのだろう。自分がマフィアだった、だなんて聞かされても、覚えていない話を受け入れることもできないだろう。リボーンはいうだけ言ったと、空っぽになっていたティーカップをおいて、部屋から出ていこうとした。出ていこうとして、一度振り返る。
「紅茶、うまかったぞ」
 一言残して、リボーンは寝床にしている綱吉の部屋へと戻っていくのだった。
 紅葉はリボーンが去ってから、しばらく呆然としていたが、自分のティーカップの中の紅茶がすっかり冷めてしまっていることだけは気がついていた。実はリボーンが去ってから、一時間程度しか経っていないのだが、紅葉の体感では、もうすでに時刻は真夜中の気分で、リボーンが去ってから、何時間も経っていると思っていたのだ。だが、実際に壁にかけてある時計を見たときに、それが間違いだったと知り、詰めていた息を吐き出した。――――いつの間にか、頭痛は治まっていた。
「……ボンゴレ、ファミリー」
 うわ言のように繰り返して、しかし、紅葉はその言葉をつぶやくたびに、思い出すことを拒否するかのように、額の奥がちくりちくりと痛み出す。考えることをやめるべきかと思うのだが、しかし、考えをやめようとすると焦燥感がこみ上げてきて、言いようもなく紅葉は落ち着きがなくなるのだ。
「漸く、落ち着いたかと思ったのにな」
 一年かけて、考えることを放棄した紅葉は、自分の思い出せない記憶に振り回されることも亡くなっていたのだが、どうやらそれは日本に帰ってきて無意味であったと知った。リボーンという赤ん坊が一体、何を知っているのか紅葉は知らないが、とりあえず、あの白い病室で感じていた退屈は日本では感じなくて済むのではないだろうか。そんな直感が、今の紅葉にはあった。それが、悪いものか、いいものかはわからない。――――わからなくてもいい。
 紅葉はそう思いながら、最後の紅茶を飲みきった。
 すると、隣の部屋から出てきた綱吉が扉をノックして、「ゲームしない?」と声をかけてくるので、紅葉は立ち上がって、「今、いく」と答えた。