第一章 一
 天空に浮かぶ島々に命と魔力が息づく、アズールと呼ばれる世界があった。遥か下はただ青く霞んで広がるだけの何かを望むここには、東西南北に一つずつ大国が、中央に無人島とそれを挟んで東西に小国が一つずつ存在している。
 民なき島を世界の中心の聖域として守ってきた二つの国家、東の小国の名はプレアデス。七つの島といくつもの小島から成るこの国の王女は二日前に十八歳の誕生日を迎えたばかりで、来月には満月の日に合わせた成人の儀を控えていた。
 一国の王位継承者の人生の節目ともなれば国を挙げて盛大に祝ってもおかしくはない。そこまでの盛り上がりでなくとも喜ばしい行事なのだ、国中のそこかしこでお祭り気分に浮かれる様子が見られてもいい。その筈であるが、どういう訳かプレアデス王国は穏やかでつつがない日常を繰り返しているだけだった。


 国王が住まうプレアデス城は、木造平屋の建物と建物とを繋ぐ長い渡り廊下、渡殿が目を引く造りであった。城が佇むのは石垣で固めた広大な高台で、瓦屋根を葺いた漆喰の塀がぐるりと囲み、高台の周りをさらに堀がなぞって二重の守りを固めている。南の正門を潜ると七十メートルもの長さを誇る石畳の道、御前通りが真っ直ぐに伸びて、その奥に国王が政治と儀式を行う正殿が聳え立つ。御前通りと正殿の左右には文官の執務室や会議所といった政の為の建物、倉庫や城で働く者の寮などが併設されている。アズールにおいても和風と称される城の全貌は、今は夜の帳に隠されてよく見えない。欠け始めたとはいえ円い月と雲一つない満点の星空、そして日付が変わる直前の夜中でも消えない照明の数々と、光源は揃っている。それでも、城の雅やかさを窺い知るには明るさが足りなかった。
 城内で夜通し明かりが灯る場所の一つ、近衛騎士の詰所が建っているのは城の南西部だ。構造は他の多くの建物と同じように、漆喰と板張りの壁の母屋とその周りを囲んで廊下として使う簀子(すのこ)である。床は板の間だ。装飾は正殿より随分と控えめながらも王の居城の一部として十分に美しく、御前通りを行く来賓を慎ましく出迎える役目も担う。
 近衛騎士の仮眠室及び待機場所たるここで、一人の騎士が座布団の上に胡坐をかいて本を読んでいる。黒々とした深緑とも緑がかった黒とも呼べる深い色の髪と同色の切れ長の目を持つ、人に凛々しく落ち着いた印象を与える青年だ。彼はシュード・ミラードといい、十九歳の若さで近衛騎士団二番隊副隊長を拝命してからもうすぐ半年になる。松葉色の単と煎茶色の袴の上に平時用の鎧――機動性を重視した、何枚もの革を縫い合わせて胴を守るこれはプレアデス王国独自の代物である――に白い足袋をきっちり着込んだ出で立ちは、およそこれから就寝する人のものではない。
 夏の盛りは過ぎたとはいえ、日中は蝉が残る暑さと短い命を謳歌すべく鳴く頃だった。それでいて、日が沈むと鈴虫や蟋蟀(こおろぎ)の調べが涼やかな季節だ。風もなく静かな初秋の今宵、新米副隊長は警護の交代を待っていた。
 そこに、提灯を持った一人の騎士が現れる。シュードとそう変わらない歳に見える青年は、顔を見るなり立ち上がった副隊長に穏やかな笑みを浮かべた。
「ミラード副隊長、お疲れ様です。そろそろ交代の時間ですよ。隊長がお待ちです」
「お疲れ様です。あなたは、今晩の担当はもうありませんね? ゆっくり休んでください」
「はい、ありがとうございます。それでは失礼致します」
 シュードは強張りがちな表情筋をできるだけ緩めて同年代の部下に労いの言葉をかけた。相手が一礼して退室するのを見届けて、腰に一振りの刀に似た剣を佩き、自分の提灯を手に取る。これから警護に向かう場所はかのプレアデスの王女の寝殿だ。
 今夜も何事もなければいい。昨日までと同じように。そして明日も明後日も、この先ずっと。もしも何か起きた時は姫を、そして国王陛下をお守りするが、建国以来保たれているという平和な日々が続くに越したことはないのだ。
 願いと決意を胸に詰所の母屋を出たシュードは、世界を照らす光の美しさに惹かれて夜空を仰ぎ見た。雲一つない星空の中で一等輝く立待月に目を細める。一昨日の姫君の誕生日には満月だったこれがもう一度満ちれば、主たる姫君の成人の儀が執り行われる日だ。
 虫の音も遠くに行ったように錯覚する静寂を、にわかに吹いた夜風が払った。南西の風に煽られて、深緑の髪の騎士は真夜中の白昼夢から覚める。その拍子に、シュードが長年抱き続けてきた疑問がふと浮かんだ。
(……何故、我が国の王女殿下は秘匿の姫君であらせられるのだろうか?)


 プレアデス城は正殿を境に、漆喰の塀で南北に区切られている。正殿の北、または奥と言われる、王族の寝殿と王族以外立ち入り禁止の御屋(みや)が並ぶ区画を纏めて北の方と称する。正殿と国王の寝殿の間の渡殿は王の公私を繋ぐだけでなく、東西に延びて枝分かれしていた。ここからさらに東へと進むとひっそりと佇む一棟に辿り着く。詰所とは異なり、塗籠と呼ばれる漆喰の壁で仕切られた部屋とその周りを漆喰と板壁で囲む廂(ひさし)、廂の南側には御簾などを壁に使う広廂(ひろひさし)まで設けられた建物だ。廂と広廂の周りは廊下たる簀子がぐるりと巡らされている。建物自体は詰所よりも小さいけれども様式は遥かに格上である。ここと同じような造りをしているのは、七星の屋(ななほしのや)とか七星殿(しちせいでん)とも呼ばれる正殿と国王や先代国王をはじめとする王族の寝殿、それに国賓が泊まる御殿だけだ。
 この倉や庭木に紛れるように隠された離れに、シュードが月を仰ぐのと時を同じくして、同じように月を眺める少女がいた。
 少女の髪は真夜中の空のように黒々とした青、もしくは青みを帯びた黒で、毛先を綺麗に切り揃えてある。腰よりも長く豊かな髪は眠りの妨げにならぬよう、また摩擦や絡まりで艶やかさを損なわぬように、三か所を藤色の紐で緩く纏めて垂らしている。宵闇に溶けそうな深い髪色と抜けるように白い肌が互いを引き立て合い、少女の淑やかな美貌の一端を担っていた。
 白い小袖に淡い桃色の帯を巻き、藤色に染められた単を羽織っただけの寝間着を纏う彼女こそ、椿の屋と仮に呼ばれる東宮の屋の主、プレアデス王国第一王女ことナスタ姫である。
 ナスタは寝室たる塗籠を抜け出して広廂の御簾を一枚だけ上げ、板張りの床に敷いた座布団に正座して物思いに沈んでいた。眉の下で切り揃えられた厚い前髪の下で、髪と同じミッドナイトブルーの色をした双眸が月を映す。重たげな瞼と長い睫毛に縁取られた宵闇色の目に月明かりが宿る様は、夜空を鏡映しにしたようだ。しかし、姫君の顔(かんばせ)は何の感情も表していない。
(……今宵は十七夜……次の満月に、私は……大人になるのですね……)
 ナスタの胸中にのみ浮かぶのは、成人を迎える喜びとは呼べない情だった。
 ――プレアデス王国第一王女殿下は、歪な暮らしを余儀なくされてきた。

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