第一章 一
 島々が天空に浮かび、その遥か下には青く霞む世界が広がる、アズールと呼ばれる世界があった。その中心よりやや東にある、七つの小島からなる温暖な小国の名は、プレアデス。
 その国の王女は五日前に十八歳の誕生日を迎えており、まもなくやって来る、月が完全に満ちる日に成人の儀を控えていた。


―プレアデス城内、近衛詰所―

 プレアデス城は、建物と建物とを繋ぐ吹き抜けの長い渡り廊下が特徴的な造りであった。
 瓦葺きの漆喰の壁で囲われた平屋の城の南西部にある近衛騎士の詰所で、一人の騎士が座布団の上に胡坐をかきながら本を読んでいる。彼はシュードルード・ミラード=ワーワィックキャッスルといい、シュード、もしくはシュウと呼ばれる青年だ。黒みがかった深緑の髪と同色の切れ長の目を持ち、人に凛々しく落ち着いた印象を与える彼は、警護の交代を待っていた。
 そこに、一人の騎士が現れる。彼は自分の顔を見るなり立ち上がったシュードに、穏やかな笑みを浮かべながら話しかけてきた。
「副隊長、お疲れ様です。そろそろ交代の時間ですよ」
「お疲れ様。君は、今晩はもう担当はないだろう? ゆっくり休むといい」
「はい、ありがとうございます。それでは失礼致します」
 十九歳という若さでプレアデス王国近衛騎士団二番隊副隊長を任されているシュードは、自分よりも若い騎士に労いと労りの言葉をかけてから、自分の持ち場へ向かった。今宵の警護は、城の東端にある七星(ななほし)の間――王女の部屋だ。
 松葉色の単と煎茶色の男袴(おとこばかま)――この世界ではキュロットスカート状の袴を指す――の上にプレアデス王国独特の鎧――何枚もの革を縫い合わせ、内側の一部に軽くて丈夫な薄い金属を仕込んである――、足には白い足袋を履いた彼は、木目と深い色合いが美しい板張りの渡り廊下を歩いて城の東へと向かう。
 その途中、日の沈んだ世界を照らす月光の美しさに惹かれて思わず足を止め、夜空に君臨する月を仰ぎ見た。満ちてきた月に、次の持ち場の主がもうすぐ成人することを改めて実感する。
 額の中央で分けられた前髪を攫った夜風の涼しさに、シュードは我に返った。ここで油を売る暇はない、と再び歩み始める。そこで、十年間ずっと考えてきたが未だに答えが分からない、長年の疑問がふと浮かんだ。
(何故、この国の王女は秘匿の姫君であらせられるのだろうか?)


―同刻、プレアデス城内、七星の間―

 プレアデス城の東端にひっそりとある、七星の間と呼ばれる部屋の中に、この国の貴人がいる。
 普段は履いている白い足袋を脱ぎ、白い小袖に桃色の細い帯を巻いて、藤色に染められた単を羽織っただけの簡単な寝間着姿の、ナシュティアヴィーネ・ルスタ=プレアデス――ナスタ姫が、この部屋の主であり、この国の王女であった。
 艶やかなミッドナイトブルーの髪を腰の辺りで切り揃え、眠りの妨げにならないよう、また髪が傷まないように三か所を白い紐で軽く縛っている。抜けるように白い肌との対比も、その顔立ちも美しかった。
 彼女は自室の最奥に設けられた、御簾(みす)に囲われた寝台の畳の上に正座し、開け放った障子窓から青白く世界を照らす月を自身の限りなく黒に近い蒼い目で見上げ、物思いにふける。
(……明後日は望月、月が円く満ちる……その日は、私が十八歳になってから丁度七日目。……私は……儀式を経て……大人になる……)
 成人の儀――このアズールでは、国や身分、民族を問わず、十八歳の誕生日を迎えてから七日目に行われる――を終えて大人になれば、長年の軟禁生活から解き放たれると聞かされていた。
 しかし、終わりは始まり。王族として、次期女王としてのより厳しい生活が始まる。結局は、城に縛りつけられたままなのだ。
 そうなる前に、成人の儀の前に、ナスタには叶えたい夢があった。
「……私は……」
 真円に近づいている月をしばらく眺めた後に、姫君はふと目を伏せ、前髪の下の額を覆っている真っ白な細い帯の結び目を解いた。純白の絹を両手で握り締めながら再び月を見上げ、鈴のような小さな声を夜風に溶かす。
「……世界を……アズールを、見たい」
 どういうわけか、物心ついた頃には既に始まっていた軟禁生活。
 城を出ることを許されず、貴族の姫だと偽られ、自身の存在が他国はおろか国内にも知らされていないことに首を傾げながらも、プレアデス王家のしきたり且つ教養である、学問と武芸に励んだ日々の中で、プレアデスの隠された姫君は疑問を抱いたのだ。
 ――何も知らない自分が、国を統べる者になれるのだろうか、と。
 この目で国民を見たこともなく、この耳で国民の声を聴いたこともなく、この足で国土を歩いたこともない自分は、民を導き守れるのだろうか、と。
 自分だけが外に出ることが叶わない故の不平不満、あるいは憧れかもしれないが、その疑問はナスタを日に日に強くまだ見ぬ世界へ惹かせていった。
 しかし、その夢は恐らくもう、叶うことはない。
(……陛下……何故、私を……このように閉じ込めなさったのですか……)
 俯いたナスタの髪がさらりと流れる。眉の下で綺麗に切り揃えられた前髪が夜風に撫でられて乱され、癖で思わずそっと白い手で額を隠すように押さえるその仕草も、端から見れば絵画のように美しい。


 ――憂いの眼差しを伏せた長い睫毛で隠す姫君を、城壁の瓦の上から笑みを湛えた瞳が凝視しているのに、城の者は誰一人として気が付かなかった。

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