其の四

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 新世界に二軒、千日前に一軒、道頓堀に中座の向いと、相合橋東詰にそれぞれ一軒ずつある都合五軒の出雲屋の中でまむしのうまいのは相合橋東詰の奴や、ご飯にたっぷりしみこませただしの味が「なんしょ、酒しょが良う利いとおる」のをフーフー口とがらせて食べ、仲良く腹がふくれてから、法善寺の「花月」へ春団治の落語を聴きに行くと、ゲラゲラ笑い合って、握り合ってる手が汗をかいたりした。
 深くなり、柳吉の通い方は散々頻繁になった。遠出もあったりして、やがて柳吉は金に困って来たと、蝶子にも分った。
 父親が中風で寝付くとき忘れずに、銀行の通帳と実印を蒲団の下に隠したので、柳吉も手のつけようがなかった。所詮、自由になる金は知れたもので、得意先の理髪店を駆け廻っての集金だけで細かくやりくりしていたから、みるみる不義理が嵩んで、蒼くなっていた。そんな柳吉のところへ蝶子から男履きの草履を贈って来た。添えた手紙には、大分永いこと来て下さらぬゆえ、しん配しています。一同舌をしたいゆえ……とあった。一度話をしたい(一同舌をしたい)と柳吉だけが判読出来るその手紙が、いつの間にか病人のところへ洩れてしまって、枕元へ呼び寄せての度重なる意見もかねがね効目なしと諦めていた父親も、今度ばかりは、打つ、撲るの体の自由が利かぬのが残念だと涙すら浮べて腹を立てた。わざと五つの女の子を膝の上に抱き寄せて、若い妻は上向いていた。実家へ帰る肚を決めていた事で、わずかに叫び出すのをこらえているようだった。うなだれて柳吉は、蝶子の出しゃ張り奴と肚の中で呟いたが、しかし、蝶子の気持は悪くとれなかった。草履は相当無理をしたらしく、戎橋「天狗」の印がはいっており、鼻緒は蛇の皮であった。
「釜の下の灰まで自分のもんや思たら大間違いやぞ、久離切っての勘当……」を申し渡した父親の頑固は死んだ母親もかねがね泣かされて来たくらいゆえ、いったんは家を出なければ収まりがつかなかった。家を出た途端に、ふと東京で集金すべき金がまだ残っていることを思い出した。ざっと勘定して四五百円はあると知って、急に心の曇りが晴れた。すぐ行きつけの茶屋へあがって、蝶子を呼び、物は相談やが駈落ちせえへんか。
 あくる日、柳吉が梅田の駅で待っていると、蝶子はカンカン日の当っている駅前の広場を大股で横切って来た。髪をめがねに結っていたので、変に生々しい感じがして、柳吉はふいといやな気がした。すぐ東京行きの汽車に乗った。
 八月の末で馬鹿に蒸し暑い東京の町を駆けずり廻り、月末にはまだ二三日間があるというのを拝み倒して三百円ほど集ったその足で、熱海へ行った。温泉芸者を揚げようというのを蝶子はたしなめて、これからの二人の行末のことを考えたら、そんな呑気な気イでいてられへんともっともだったが、勘当といってもすぐ詫びをいれて帰り込む肚の柳吉は、かめへん、かめへん。無断で抱主のところを飛出して来たことを気にしている蝶子の肚の中など、無視しているようだった。芸者が来ると、蝶子はしかし、ありったけの芸を出し切って一座を浚い、土地の芸者から「大阪の芸者衆にはかなわんわ」と言われて、わずかに心が慰まった。
 二日そうして経ち、午頃、ごおッーと妙な音がして来た途端に、激しく揺れ出した。「地震や」「地震や」同時に声が出て、蝶子は襖に掴まったことは掴まったが、いきなり腰を抜かし、キャッと叫んで坐り込んでしまった。柳吉は反対側の壁にしがみついたまま離れず、口も利けなかった。お互いの心にその時、えらい駈落ちをしてしまったという悔が一瞬あった。
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