トイレット

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 何年も何十年も前のことが記憶の中のどこかによどんで残つてゐて、明方の夢にそれをはつきり見ることがある。これは夢にみたのではなく、何の用もなくつながりもないことなのに、ふいと思ひ出したのである。明治もまだわかい二十四五年ごろか、もつと前の事だつたかもしれない、麻布一聯隊の兵舎に近い三河台の丘の家にゐた頃のこと。
 三河台の家は、私がそこで生れて十八まで暮した家であるから思ひ出すこともしばしばであるが、今おもひ出したのはその家のお客便所のことである。旗本の古いひろい家であつたからむろん上下の便所はあつたが、ある時父が外国勤めから帰つて来てその古い家に西洋間、つまり応接間を建増した、家の一ばん西の隅の方で十六畳位の広さの純西洋風の部屋で、窓のカアテン、壁にかけたいくつもの額、テイブル、びろうどのテイブル掛、椅子、タバコセツト、マツチ皿、かざり棚と本棚、何もかも十九世紀の厚みのある正しい飾りつけであつた。南の窓からは芝庭の向うの芝生の築山、芝の中をうねりまがつた細い道、やや西方に片よつて立つ一本の大きなぼたん桜などが見えてゐたが、その南の二つの窓を通り越した西の壁に一つの扉があつて、そこからお客さん便所に入るのであつた。家の人たちはそれを「お手水場」と言つて、家庭用の上下のそれを簡単に「はばかり」と言つてゐた。つまりお客さんのお手を洗ふところであり、家庭用のは、言ふのもはばかりがあるといふ訳で「はばかり」なのだつた。
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