episode.1


 吹けば飛ぶほどの軽さも、幾枚も重なればそれなりに輝きを成す。アラブの石油王が見たら鼻で笑いそうな小山だがそんじょそこらの女子高生が一ヶ月に稼ぐ額としては上々ではなかろうか。頑張った女の子を慰めてくれる人間はいないので代わりに自分が褒めてやる。和紙の香りが染み付いて離れなくなった手で屑山の如く積み重なる紙幣の一部を手に取った。

「これ全部くれるの?」

ベッドに腰掛ける男は見るに堪えない体を唸らせ静かに頷く。如何にも深刻ですと言わんばかりの蒼白加減に名前は場違いながら笑いそうになってしまった。
 馬鹿な男だ。最初からリスクも承知で始まった関係がいつの間にか手玉に取られていることに今の今まで気が付かなかったらしい。散々絞ってやってから我に返り激高する相手に本来の交際相手の名をちろりと翳せば最後。頭の悪い中年親父はどうかこれで終わりにしてくれとなけなしの手切れ金を渡してきた。それはもちろん受け取るとして、というかそのために今まで尽くしてきたのだから。

「これだけじゃないよね」
「…な、にを言ってるんだ」
「だって足りない。あと30センチ積むかもっと面白いもの紹介してくれなきゃ」

男は信じられないようなものを見る目で女を瞠目する。そこにこれまで培ってきた恋人に囁くような甘い色は掻き消え、まるで化け物を前に怯える弱者のそれと化していた。

「か、金は無理だ。もうこれが限界なんだ」
「だからお金じゃなくてもいいって言ってんじゃん」

手早い動きで全ての紙幣を数え終わった名前はどこからか取り出したショルダーバッグに次々と丸裸の束を詰め込んでいく。迷いのない動きがこれまでの彼女の経験を物語っていた。華奢な背中に似合わぬ得体の知れないおぞましさに男は目の前の生き物を納得させるだけの条件を求めて頭の中を弄り回す。そして芋づる式に導き出されるキーワードの末にはたりと息を呑んだ。
 そういえば一つだけあったかもしれない。筆舌に尽くし難く、彼女のような人間にぴったりの場所が。

「賭博場が、ある」

魂の半分を削って絞り出したような苦渋に満ちた声だった。この平和な国においてあまり聞き慣れない単語に束に触れる名前の手が止まる。

「やっぱりあるんだ。そういう場所」
「酷く限定的なコミュニティだが、あるにはある」
「そこで一か八か腸をかけて勝負してこいって?」

もし本気で言っているだとしたらとんだ阿呆だ。踏み越えてはいかない境目というのは遠い場所にあるようで確かに存在している。今更散々悪行を働いてきた身で言えることではないが男の挙げた場所は酷く理解に苦しむものだった。

「違う、そこは特別なんだ。ただの賭博場じゃない。一年に数回しか開催されない金持ちの道楽イベントに近い。表向きは親睦会を装ったパーティーだが、裏では本物の連中が信じられないような大金を動かして遊んでいる」

所謂カジノのと呼ばれる場所。なるほど、それは確かに面白そうだと純粋に名前は興味が湧いた。これまで相手にしてきた成金上がりの幸の薄そうなじじいとは違う。血統書付きの本物だ。手を出すことは酷く危険だと分かっていても人生経験として一度くらい行っておくのもいいかもしれない。そこであわよくば次の相手が見つかれば万々歳だ。

「いーじゃん。面白そう」
「しかし、」
「大丈夫。あんたの名前は死んでも出さないから」

そこんところ、私は口硬いのよ。安心させるように穏やかな笑みを作って名前は男が恐る恐る差し出したパスを半ば奪い取るような形で手にする。白地に黒縁の至ってシンプルなカードだ。何か特別な仕掛けがあるようにも思えない。物珍しく人工物ながらザラりとした面の手触りを楽しんでいると男の強い視線を感じた。

「…君が思っているより、世間は甘くないぞ」
「わはは、負け惜しみ?」

何を言われたって彼女には負け犬の遠吠えにしか聞こえない。そう思うなら賭博場の話をしなければ良かったのだ。それが脅されたせいだと嘆くのなら最初に彼女と関係を持ってしまった運の悪い自分を恨むしかない。



 ややキツめのアイライン、可愛さよりも色っぽさを意識したルージュ、それなりに自信のある体を下品過ぎない程度に強調するドレス。全てが出来上がった時、鏡の向こうにいたのは普段よりも三割増し歳を重ねた女の姿だった。最低限の化粧品しか入らないクラッチバッグを手にパーティー会場へ続くと思われるシンプルな階段を下る。外観の造り、階段の構造からして根強かった疑いも華やかな扉の傍らに構えるドアマンを前にして実在していた喜びに掻き消えた。同伴者がいないことを若干怪しがられはしたものの事前に偽ったいくつかの証明書を見せればその後は比較的丁寧な対応で案内される。

「(わ〜、すっごく綺麗)」

第一印象は華やかの一言に尽きた。装飾華美な内装は表面的な繕いではなく素材にまでこだわったのだろう。一級品の匂いを感じ取った名前は思いがけない世界に心踊らせ気の済むまで周囲を見渡す。ドレスコードのお陰で一見すると上流階級のパーティーのようだ。映画やドラマの世界で見た景色とさほど変わりはないが、実際に足を踏み入れなければ分からない妙な雰囲気は実在していた。こんな場所が日本にあったことも驚きだが、その上で『特別』とはどういうことだろう。結局詳細を聞かぬまま別れてしまった男の姿を少しだけ惜しむ。

「(知らないから遊べないんだけどね)」

入場料はそれなりに取られたが、実際にゲームをやってみたいとは思わない。分かれば楽しいのかもしれないが名前は堅実派だ。ちまちま地道に稼いでいく、これに尽きる。それに今日は男を漁りに来たのではない。心身ともに余裕があった名前は一先ず順番にテーブルを見て回ることにした。そう、これは社会科見学。

 と思っていたのが数時間前の話。名前は眼前に拡がるチップの山ににんまりと微笑んだ。隣の男性客が悔しそうな顔しているのがさらに清々しい。まさか初体験でこれほど稼いでしまうとは。無表情なディーラーによる出来レースのような気がしなくもないが、名前は満足だった。どうやら賭博の才能があったようだ。これは存外ハマるかもしれないと浮き足立ち、最初こそ純粋な楽しさから始まった遊び心は次第に勝ちへの執着に変わっていく。

「続けますか?」
「ええ、もちろん」

まだやめ時ではない。あと1ゲームくらいやってから終わりにしよう、そんな考えが頭を過ぎる。ディーラーの言葉に笑顔で頷いた名前は強気にチップを張り、次のゲームへと挑む。

ふと、隣の客が入れ替わっていることに気がついた。

「(あれ、いつの間に)」

勝ち続けていた身としては残念、と言うよりも些か不愉快だ。新しい客が来たということはゲームの流れが変化する可能性がある。万が一にも負ける、なんてことはこの場面において受け入れ難い。ここで引いておくべきだったか、と小さな不安にそっと隣の客へ視線を伸ばす。しかしその容貌を捉えた途端、息をするのを忘れた。

「(う、っわ〜。すっごい好き)」

稲穂色の程よく切り上がった髪が揺れる。ワックスの一つもつけていない自然体の姿に少年らしいあどけなさを感じつつも襟の上から覗く首筋に目が行く。濃紺のスーツに覆われた肩幅の逞しさ、モデル顔負けの均整の取れたスタイル。名前の中でむくむくと邪な妄想が膨れ上がる。何よりも翡翠の宝石をはめ込んだ両のまなこがこちらを向いた時、背筋から脳髄にかけて電撃のような衝撃が走った。

「どうかお手柔らかに、お嬢さん」

まるで物語の世界から飛び出してきた王子様のように、驚くほど顔の良い男は思わずうっとりする声で名前へ微笑む。長い間、歳と私腹だけは肥えた男ばかりで遊んでいたせいか、隣に座る人物の高過ぎる完成度に名前はただ「はい...」と酷く力の抜けた返答をこぼした。



 結果から言って名前は負けた。右隣が気になり過ぎて全くゲームに集中できなかったせいだ。勝ったのは案の定と言うべきか、あの男だ。それでも名前は構わない。負けた事実に目もくれず積み上げたチップを全て返上して椅子から降りた彼女は同じく席を立った隣の男に静かにすり寄った。

「負けちゃった。とっても強いんですね」
「どうだろう。僕自身強いとは思っていなくてね、直感と慣れによるものかな」

それを強いと言うのだ。謙遜かそう見せかけた口上かどちらにせよ名前は既にこの男を落としてみせると心に決めていた。彼のような社会的強者としてのオーラを色濃く匂わせる男がいるのならばこのカジノ施設が特別との意味も分かるというもの。偶然の巡り合わせに感謝しながら名前はアーサーと名乗る男に微笑んだ。名乗ったとはつまり、一緒に遊ばないかと彼もまた彼女を誘っているのだ。

「名前はどうしてここに?」
「一緒に来るはずだった友達が来れなくなっちゃって。悩んだけど、今は来てよかったと思ってる」
「そうだったのか。確かにこのカジノは毎夜開催されている訳ではないからね。君の友人は残念だが、せっかくだ。楽しんでいってほしい」

まるで主催側のような口ぶりのアーサーに違和感を抱きつつも、次のテーブルゲームへと誘われた時点で小さな疑問は塵と化す。差し出される手を取った名前はしばらくの間アーサーと手当たり次第にカジノで遊び尽くした。その最中気づいたことは大人の男でありながら時折見せる少年のように無邪気な笑み、紳士的な態度を貫いているのかと思いきや軽口を仕掛けるいたずら心、王子様然としていながら優しいだけでない男の別側面。これまで出会ったどんな男よりも魅力的なアーサーに名前は益々期待を募らせていく。

 休憩しようか、とやや疲れを感じてきた彼女の心の内を読んだかのように、アーサーは名前の手を引いてカジノの喧騒から離れる。二人はラウンジの端に構える、雰囲気の良いバーのカウンター席に腰を下ろした。せっかくだから互いが相手の酒を選ぼうということになり、名前はメニューを覗き込む。しかし、付き合いを除いて酒を飲む習慣のない彼女には美味しい酒など選びようがない。とりあえず語呂で気に入ったものを勧めると「初めて飲んだけれど美味しいね」とアーサーは笑っていた。本当にそう思っているかどうかは彼のみぞ知る。次いで名前に差し出されたのは薄蜂蜜色のカクテルだった。

「コロネーションと言ってね。戴冠式の意味を持つんだ。スッキリしていて飲みやすと思うよ」
「へー、随分格式高い名前なのね」

何故それを自分に勧めたのか、尋ねるより先に一口いただく。ほどよい辛味がするりと喉を刺激した。鼻につくアルコール特有の香り、控えめな甘さ。僅かに汗ばんでいるこのタイミングに打ってつけの飲み物だ。それを選択してみせるアーサーに喜びより感嘆が優った。ただ、言えば子供っぽいと笑われるので絶対に口にはしないがジンジャーエールとどこが違うのかさっぱり分からない。とりあえず美味しいのは事実なので頷いておく。

「君は不思議な人だな」
「私?」

酒と僅かな会話を繰り返す中でアーサーが不意に口にした呟き。名前に語りかけているというより自身に言い聞かせているような物言いに彼女は首を傾げた。一度そこで区切ったアーサーは彼女見ないまま続ける。

「少女のような可憐さを放つ、その危うい魅力はどこから来ているのだろうね」
「子供っぽいってこと?」
「いいや。向けられる視線の意味を僕は分かっているつもりだよ」

彼が何を言いたいのか名前にはよく分からなかったが、素直に喜ぶことは躊躇われた。アーサーは彼女を褒めたつもりだとしても、だ。危ういも何も名前は紛うことなき女子高校生なのだから。
 バレない程度に横目でアーサーを観察する。優男の顔立ちをしているが太味のある首周りに決して細くない胴体。ジャケットに覆われた腕の下を想像して名前はその時が来たら盛大に堪能させてもらおうとエロスケベな親父如く妄想を膨らませる。ただ一つ気がかりなのは彼の余裕綽々な笑顔のみ。

「どうかしたのかい?」
「何でも」

名前の観察に気づいてアーサーは微笑を浮かべながらちょこんと首を傾げる。そう、この男笑ってばかりなのだ。まるで笑顔がデフォルトです、と言わんばかりに。意味深げに太ももも撫でる女に対し、さも分かりませんと白々しく笑顔を立てるのは如何なものか。手を繋ぎたくとも彼は腕を組んだまま、時折グラスを傾けてもすぐに引っ込めてしまう。その気がないのか、焦らしているのか、後者ならまだしも前者の場合だったらとんだ思わせぶり男だ。
 名前男女の関係において優位でいたかった。力で自分を組み敷いているつもりでいる男の顔を見るのが好きだ。支配欲に溺れた瞬間にその腕から逃げ出す。こんな遊びをもうずっとやめられないでいる。なのでまずは相手にされなければ意味がない。その気のない男をそそのかすのは容易でなく。相手がこんな美丈夫なら尚更だ。それでも名前は遊び心半分、純粋な好奇心半分に彼の違う顔が見てみたかった。最高に好みの男であるからこそ優位に立ちたい。そう思っていた矢先、

「もっと君のことを知りたい」
「アーサー...」

あの宝石のような翡翠が甘い艶を含ませて流れるように名前へ向けられる。身の回りを取り巻く空気の色が変わったような気がして名前は背筋を震わせた。これはもしかしなくても誘われているのでは。可能性の一つに過ぎないと言うのに、もうそうとしか考えられなくなってしまう。

「全部見せてあげる。だから…ね?」

切なげに瞳を細めてアーサーの甲を撫でる。ようやく掴んだ大きな掌を決して逃がさないように角ばった指に己のものを絡めさせた。アーサーは僅かな沈黙を落としてから彼女の動きに呼応するようにその手をまるまると包み込む。まるで愛撫のように一定のリズムで甲を擦られてから、爪の先、指の付け根にかけられて優しくなぞられるともうダメだった。

「アーサー、っ」
「...焦らしが過ぎたね」

行こうか、と差し出されたアーサーの手を名前は嬉々として取る。それから入場ゲートとは別の、これまた屈強なドアマンが両端に構える扉の元へやってくる。他とは質が違う、明らかにVIP待遇の匂いをかもす。アーサーの姿を見つけた男達は一律に頭を下げて簡単に二人を通した。そこで名前はアーサーがこの本物だらけの金持ち空間の中で更に頭一つ飛び抜けた存在なのだと知った。
 絢爛煌びやかなカジノを後に、二人は荘厳を極めた重厚感たる長い廊下を進んでいく。必要最低限の光が灯るだけのやけに天井の高い道は、真紅のカーペットに塗りたくられていた。一歩足を踏み出すごとに柔らかな感触がヒールを包み込む。

「いやはや、分からないものだ」
「何が?」

終わりの見えない道の奥に好奇心が馳せる。人々の騒めきがどこか遠い世界の音のようにくぐもって聞こえる中、完全に二人だけの廊下でアーサーは自嘲気味に首を振る。それからぴっとりと腕を組む名前を見下ろした。

「麗しい女性と思いきや存外愛らしい」

思わぬ不意打ちをくらい、名前は目を瞬かせる。茶目っ気たっぷりの笑顔は可愛いが、今度こそ彼の彼女に対する"魅力"とやらを理解して小さく唇を噛む。先程も似たようなことを聞いた。バーで言われた時はよく分からなかったが、つまりは背伸びをしている子供のようだと、そういうことだ。ここにいるのは成人済みの立派な女、を演じている女子高生。大人でありながら子供に見える、なんて当然。名前は子供だ。彼女のことを成人した女性と思っているアーサーに苛立つのはお門違いと分かっていても歯痒さを隠しきれない。
 そも年齢を偽らなければ入れないカジノ施設に来れたのだって高校生の名前があの親父と関係を持っていたから。例えば成熟した大人の彼女が今日ではない夜にアーサーと出会ったとして、ギャップに惹かれたとのたまう彼が、同じように名前に魅力を感じてくれたかどうかは分からない。そんな仮定の話をしても仕方がないと分かってはいる。今夜の偶然を名前は本当ならば神様に土下座して感謝しなければならない。推測ではあるがアーサーは普通に生活している中でそう簡単に出会える男ではない。全て分かった上で、一夜限りの女と思われたくはなかった。我儘で結構。どうにかして他とは違う女なのだと脳裏に刻み込んで欲しい。

18歳の自分を見て。いじらしい欲望を抑えることができない。名前は自分がここに何をしに来たのか忘れてしまっていた。

「だって高校生だもん」

何よりアーサーならば大丈夫、驚きつつも笑って許してくれるだろうと思って。




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