※既出キャラとモブの性交描写注意



episode.3(下)


 記憶をなぞる、夢を見ていた。

 もぬけの殻と化したシーツの、不自然なうねりが目に焼きついて剥がせない。
 状況は克明に事実を語り、名前の身体を雁字搦めに固めていく。呆気の只中に晒される傍ら、彼女の感覚器官に巡り交う感情が囁きかける。

 “ちゃんとしなきゃ。こんなコトいつまでも続けていられないでしょ”
 
 ーー見下ろせば、そこにある乳房が滑稽だと笑っている。色づく乳首はとっくに疲れ果てていて、肌にまぶされた水滴もいささか浮いて見えた。感情が湯冷めしていく。こぼれ出る呼吸が、溜息とは別に、どうにもならない虚しさを嘆いていた。

 こういうコトが起きると、道徳に後ろ指をさされているような、頭の後ろでひそひそと囁かれている気配がする。振り向いたところで誰もいないのは分かりきっているのに、見られているかもしれない感覚は簡単には拭えない。

 おかしいな。心配をかける相手がいないのは、返って気が楽だったのに。





 おどろおどろしい低音がお腹の奥で反響している。内蔵が揺れて気持ち悪い。形に成りつつある嘔吐感に、名前は最悪な目覚めをとげた。

「......おぇぇ...」

 胃のある辺りをさすりながら、生ぬるい息を吐き捨てる。天地が定まらない視界に、彼女の意識はまるごと虚空をただよっていた。そうして、しばし前後の記憶を失っていると、ぼおんぼおんと重厚感をまとったアップテンポが体の後ろで鳴っていることにハッとさせられる。
 背中に安っぽい光沢感を敷いているのに気がついて、目的なく手元を探る。本能のままに彷徨う指先が、テーブルガラスの冷たさにぶつかりびくりと飛び跳ねる。どうやら名前は得体の知れぬソファの上で寝こけていたらしい。より言葉を正しくすれば、気を失っていた、と表現するべきか。兎に角、目が覚めたら知らない場所にいました、とまあフィクションの定型文から始まる展開に不思議と驚き跳ねる感想はなかった。

「なんだっけ、私……」

 どうしてこんな場所にいるのか。そもそもここはどこなのか。よく分からなくて。けれどきっかけを考える気力も湧かなくて。彼女は半分は眠ったまま、仰向けとさらばするように、腰を捻って見えている世界を入れ替えた。

 途端に、瞼の裏が弾ける。

 土の匂いを肌で感じ、月夜の色が耳にこびりついた仄暗い住宅街の一角で、青白く染まった金の毛束が、流れ星のような垂線を描いていく。鼓膜の奥には石を叩き割ったような衝撃の残響が焼きついていて、そちらに気取られていると、出所の分からない飛沫が目の前を舞っていった。
 一枚絵を切り取ったような記憶の数々の最後に映ったのは、地に横倒れ、無防備に四肢を晒す、男の、

「ーーー」

 今度こそ、都合の良い現実逃避のようなまどろみから、醒める。



 明かりの落ちた大して広くもない部屋に、名前はいた。見たこともない天井がこちらをじっと眺めている。

 落ち着かない。

 覚めてすぐ抱いた感想に従って視線をずらす。仕切られたカーテンの隙間から色味の定まらない強光が割り込んでいる。腹底に叩きつけられる重低音はどうやらそこから来ているらしい。彼方でスポットライトが乱反しているのだろうか、移り変わりの激しい独特の光彩が床まで伸びていた。
 お手本みたいに配置された家具に大した感想はなく、静寂が詰め込まれた空間に、振幅の大きいエレクトリック系もどこか遠くにあるような気がする。
 とりあえずそこまで。考えることを、少し休む。爪先が黒ずんで悲惨な状態になってしまっているストッキングを破りながら、彼女の理解はどうにも正常まで至っていなかった。

 まだ、夜は更けていないのだろうか。
 一夜に色々なことが起こりすぎて、とっくに朝日が昇ってるんじゃないかって、思うけれど。時計もなく、携帯もない、馴染みもない部屋で自身の体内時計をどこまで信じてあげるべきなのか。空腹感は胃の底に転がっているけれど、干からびた喉に食べものを通す気にはなれなかった。

「(寝たいのに、眠くない。なんだか、変な感じ)」

 起き上がった背中に疲労がのしかかっている。しょぼついた瞼が、閉じようとごまついているのに、名前の、理性を司る感情がそうさせてくれなかった。だってこれは、明らかに眠気に勝る状況だ。安っぽいドラマのワンシーンを眺めているつもりか。ここは現実で、攫われたのは事実で、今からどうなってしまうのか、名前こそが当事者なのだから。


 パリン、と可愛らしい音色が聞こえた。砕けるにしては慎ましやかに鳴り響いて、こちらに呼びかけているような。聞き逃してはいけない、誰かの存在を語りかける。
 恐怖がない、はずもなく。衝動的な好奇心によって首が回り、薄暗い室内にかろうじてキッチンと判断できそうなシルエットをあぶりだす。

「…だれ、」

 乾いた喉が、捻るように音を絞りだす。言葉を紡いだ唇が開いたまま固まっていく。返答のない暗がりと静寂がまるで意地の悪い生き物みたいに思えた。
 みたいに、ではなかったかもしれない。暗い光に馴染んできた視界が、ものとものの境目を区切り始めた頃、カウンターの奥では黒い影がぬるりと色を塗り替えていた。
 姿勢の定まらない影が一つ二つ、背中の骨が抜けてしまったみたいにおぼつかないでいる。暗闇に混じる影法師を眺めながら名前はてっきり酔っ払いの類を疑った。

「(あ、でも、これ)」

 けれどすぐに、言い表しようのない直感が囁きかける。流れていくる腫れぼったい息遣いは、名前の経験に潜りこんで心当たりをいくつか浮かばせる。

「(もっと違う、良くないやつ)」

 直後、嬌声が弾けた。乱れ散る花びらのように可憐に轟いて、部屋の雰囲気を俗物的なものに塗り替えていく。うすら耳を澄ませば、反応に困る粘着音がリズムを刻んでいるではないか。

「……冗談でしょ」

 聞かせるつもりのない独り言は、案の定薄暗い天井に吸いこまれていった。
 特有の甲高さをまとう濁音は、限界の瀬戸際まで追い詰められている女の状態を物語り、名前の耳穴をジンジンと痺れさせる。ぽっと出の感想ではあるが、ホテルのモニターで艶可愛くあれと一点集中しながら悶えてい女優に比べると、そこには上手く言い当てることの出来ない、得体の知れない何かがあった。
 憐憫に勝る薄気味悪さというか。女の悲鳴は明らかに尋常でないものを孕んでいる。全身をぶるぶるさせながら、あんなに苦しそうにしているのに。生々しい肌音が苛烈さを増していくにつれて辺りを省みる余裕のない手足が派手な割れ音を起こしていく。獣みたい、では言葉足りない。そのなりふり構わない交わりは、脳味噌の弱い動物でしかなかった。

「……。」

 名前の知っている行為とかけ離れている。

 背もたれにしがみついていられなくなり、ずるずると固いソファに崩れこむ。色の分からないカバー地を胡乱な瞳が視界にだけおさめて、それ以上特にすることはなかった。名前は、どうしてか突然、投げやりになってしまったのだ。正しく思考回路が働いているならば、こんなシミ臭いスプリングは蹴飛ばし、手探りにでも外に繋がる扉を探そうとしたはずだ。

 どうかしている。なんで、逃げない?ここに居ても良くないことは分かりきっている。

 不安と恐怖に動けない理由が当てはまらないのは、名前自身が強く感じていた。理性が、取るべき行動を叫んでいるのに、体はこの状況に開き直っている。逃げなきゃ、動きたくない。説明のつけられない相反する感情に、彼女は必要のない混乱に陥ってしまう。

「(なんだろ…。夢でも見てるみたい)」

 見たことのある景色。慣れているはずの交配。名前は全部知っている。だからこそ余計に感覚が狂う。一瞬のうち脳裏へ焼きついた、交わり絡みもつれる二人の絵姿。
 見たくない。いま、そういうの要らない。

 中身空っぽらしき瓶が、故意に転がされた。名前の意識が、気付け薬のような呼び音にパチンと叩き起される。刹那の目眩による泣き言もそこまでに、差し迫った状況が自分に降り注いでいるという実感を、無理にでも胴体から四肢にかけて押し広げていく。ひたり、ひたりと這い寄る素足に、焦燥感が熱を帯び、冷静になれといっそ強迫観念じみた一人言を心の内側で叫び続けていた。

「生きてる?」

 陸に打ち上げられた魚のような気分だった。冷や汗をかいた生魚が、よく目玉を血走らせているけれど、多分今の名前とそんなに変わらない。地上に迷い込んだ水産動物は、誰も彼もどうしてそんなに顔色が悪いのか分からなかったけれど、今なら感覚で説明できそうな気がする。
 名前は奇妙な音を立てて、呼吸を飲んだ。返事をしたつもりはなく、ただ死んでいないことを伝えないと、この男は二度と彼女を顧みないような気がしたのだ。

「お。いきてるいきてる」

 廃棄処分を免れた名前を、ガラス玉を愛でるみたいに華奢な爪先が寄り添う。血色の悪い頬にかかった髪の毛を丁寧に退かして、瞳孔の開ききっているであろう瞳の奥をぐぐっと覗きこまれる。
 宝玉のような若草色が二つ、揃って嬉しそうに丸くなっている。特徴的な長髪は、慣れ親しんだ友人のような気軽さで名前を囲い、ヤニの刺激臭とアルコールの重たい匂いを彼女にもたらした。

「なら、起きようぜ」

 おどけた口調の、中身はただの命令だった。
 目の前に現れた時から、さして変わらない悪印象に、まだ本調子ではない頭と体がツキツキと痛みを上げ始める。この男、一夜にして名前に数々のトラウマを植えつけていった、まさに悪夢のような存在だった。そんな人間の命令を聞くのは嫌だと、彼女の生理的な部分が拒否反応を起こすのは当然のこと。いっそ、目をつぶって真正面から反抗してみようか。思いつきにしたって悪手が過ぎる世迷言を並べながら、名前はただ、今は、男の指先を静かに押し退けた。

 倦怠感を隠すように、何食わぬ顔で上体を起こす。名前の頬にしたたっていた髪束が、満足そうに身を引いていく。いくら美しいからといって、相当に長さのある毛が流れていく様は些か不気味というか。ふと、そこで、気づいた。彼の、肩甲骨の辺りになびいていた留め具が見当たらない。

「(全然、違う人みたい)」
 
 窓辺より差し込む淡光を受けて、女のように解かれた髪を、男らしい仕草でかき揚げているのが見てとれた。くしゃくしゃになった前髪が、風を浴びたモデルのように儚げな印象を形作る。中身はどうあれ、彼の薄い唇は同じ人間でありながら、艶やかの一言に尽きた。

「んん?んー、あっやべ」

 形の良い眉が微かにしわを寄せる。唇の両端がへの字に落ちて、うえっと溜息を吐きだす。己が下腹部につまらなそうな表情を落とし、スボンのベルトを盛大にくつろげて。

「……。」
「取れちまってるよ」

 へらり。釣ったような笑みを顔に貼りつけて、男は失敗を茶化す。ナニが、を尋ねる気力もない名前にはどうでもいいニュースだった。



 情熱に見せかけた我欲に惑わされてしまったのだろうか。女は最後まで強請るような呼びかけを続けながら、男の有無を言わさぬ笑顔に押されて、扉の向こうへ消えた。揉めあいの瀬戸際にかすかにまみえた明かりは、この薄暗がりに染まった空間とは明らかに世界観が異なっているようで。名前の及び腰がぱた、と立ち上がりかける。

「参るよなァ」

 それもすぐに、男がこちらを見返った時点で、心臓の鼓動ごと萎縮してしまうのだけれど。

「自分の知らないところで遺伝子が勝手に動き回るみたいでさ。気持ちわるいのって」

 女の膣から取り上げたブツを、慣れた手つきで一つに縛り、忌避するようにゴミ箱へ投げ入れる。名前には、彼が薄暗闇にまみれながらも、猛々しい本能のままに快楽を貪っているように映っていたのだが、そうではないらしい。あまり説得力を感じない呟きごとを頭の後ろに流し、彼女は我が物顔で室内をうろつく男を常に視界から外さないようにしていた。

「ヤったら腹空いた。なんか食べようぜ」
「(こいつ…、ふざけてるの?)」

 仲の良い友人を相手にしているかのようなお気楽な姿勢。欲求の赴くがままの気まぐれな言動。何もかもが理解できない。いいや、そもそも理解してもらおうとはしていないのだろう。そんな必要はないのだから。
 彼は、名前を誘拐したのだ。最初から、意思など問うてはいない。今だって、彼女のことを他愛もないと思っているから、好きに振舞っている。すぐにでも解体とまではいかないが、もてなしを受ける立場にもいない。

「弁えてんならそれで十分。俺はアンタに興味ないから、どうするつもりもないし」

 どことなく本音がうかがえる発言だった。気の抜きどころなんて一つもないけれど息すらできなかった現状からは解き放たれてしまった。その中途半端な空気感が名前を戸惑わせる。

「…こんな状況で、ご飯なんて食べられない」
「そういうもん?」
「…ッ、分かりなさいよ。あんたが、私をここに連れてきたんでしょ」
「なんだ。まだ俺が怖いのか」

 怖い。それもあるだろう。恐ろしくないワケがない。
 アーサーと繰り広げたつかみ合いは記憶に新しいのに、毒気を抜くような発言ばかりを連ねて、彼への心象はもう滅茶苦茶だ。いつ飛び火するやもしれぬ暴力と隣合わせでは食べ物の味など分かるはずもない。あの鋭い蹴りが掠りでもしたら、きっと名前はひとたまりもないのだ。

「なんなの、あんた」
「なんなのって、ナニが?」

 名前の体力は、とっくになけなしである。尋ねたいことを論理的に組み立てる力なんて、ないに等しい。この空間、この状況の全てに対する説明をただの一言で求めようとするのは仕方のないもの。ただし、彼が汲み取ってくれるかは別として。
 大雑把な質問には、それ相応の態度で返す。男の性格が薄ら垣間見えた。

「んー。じゃあ、俺のことアサシンって呼んでいいよぉ」
「……。」

 あと、世界観が違う。



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