人が、人を殴るところを初めて目にした。

 静寂の夜が再び戻ってくると、固いコンクリートに頭を寝そべらせていた名前は、状況に区切りがついたことを悟る。
 立ち上がっているのは彼のみであったが、無傷とは言い難いだろう。やや息を荒らげ、お腹を押さえている様子からしてすぐにでも治療が必要なはずだ。
 名前は無理に彼の無事を確かめようとはしなかったし、彼もまた見られたくないようだったので、軽く拳を拭う姿はとりあえず忘れることにしておく。

 アーサーは名前の傍らに膝をつくと彼女の口を覆っていた強固な結び目を簡単に解いてくれた。至近距離で目に入る無機質な面貌は怒っているようにも悲しんでいるようにも捉えることができる。整った容姿をしていると感情を雲隠れさせるのが上手で探りきることはできなかった。
 煩わしかった口布がようやく地面へと落ちていくのを尻目に、名前は力の入らない背中を彼の腕によって抱きこまれる。

「両手の縄を解こう。僕に寄りかかってごらん。そう、ゆっくり」

 頭の中で反響するアナウンスに従いながら、丁度良い位置にあった胸板にこてんともたれかかった。
 
「(なんだか、いい香りがする...)」

 記憶に新しい恐怖から逃げるように、残り香に近いフレグランスに鼻を寄せる。
 名前は全くの無自覚であったが、その欲求は結果として預けた胸板に頬をすりすりと埋める形となった。すると覚えのある温もりが頭の上を流れていくではないか。気安く触るなと注意したはずなのに。
 しかし怒れるほどの気力はなかったのでそのままにさせてあげることにした。寛大な心をもって瞼を閉じていると、長らく感覚のなかった腕がようやく血の巡りを再開しだす。

「...っ、うぅ、いたい…」
「無理に動かそうとしてはいけないよ。焦らないで、まずは落ち着いて息を吸いなさい」

 後ろ手に慣れていない体は、腕の位置を戻そうとしただけでツキツキと悲鳴を上げる。関節が噛み合わない痛みに呻きながら肺を目一杯膨らませる。溜まった空気の塊を外へ逃がしていけば幾分マシな気分になれた。

「落ち着いた?」
「うん……」

 余裕とまではいかないが、自分のこと以外にも意識を向けられるようになった。名前の視線は辺りをうろつき、ついにそれを発見する。あっ、と声が出そうになってまだ力の入りきらない口蓋を吐息だけが掠めていった。
 アーサーのスーツは皺だらけで、拭いきれない傷までついていた。

「......。」
「腕は痺れが消えるまで力を入れないように。とりあえずここを離れよう」

 彼はさりげなく名前の額に手を当てると、下がらない熱の具合に複雑な表情を浮かべながら彼女の膝裏に簡単に腕を差しこむ。誘拐現場からなるべく距離を取ろうとしているのだな、と思惑を辿る一方で、考える間もなく唇が勝手に呟いた。

「名前?どこか痛むのかい」

 鈍間な首を左右に揺らして、彼女はようやく彼を見上げる。
 さっきまで、綺麗に整っていた頭髪が少し乱れてしまっている。襟の形も歪んでおり、生真面目な面持ちにはいつもの余裕がかき消えていた。

「あんた...」

 力ない声風に乗せて、隠しきれない困惑が流れていく。名前の背中を支える頼もしい腕がアーサーのものだと実感するほどに、理解できない混乱の淵に追いやられていく。手のひら返しの安堵の裏にあったのは、ひたすらに尽きない疑問の山々だった。

「なんで、いるの」

 着崩れた襟に片手をしがみつかせながら、名前は語尾を硬くする。
 
「家、来ないで…って、言った」
「そうだね」

 アーサーはそこまで真剣に耳を傾けていないようだった。
 名前だって、この状況においては些事な質問であることくらい理解している。それでも執拗に彼を引きとめた。
 ホテルの前でここにはくるなと言いつけたつもりだった。しかしまだ月も落ちぬ深夜、彼はいる。何かしらの魂胆を抱えて訪れたことは、走り去るタクシーの背後に佇んでいた能面の如き無表情を見れば誰だってわかる。

 感謝をする前に、男の考えていることを知りたかった。名前は可愛げがないが、アーサーは優しいので尋ねたら話してくれると思ったのだ。

「何度でも言い直すよ。君の風邪が心配だった」
「...うそ」

 言葉を間違えた。嘘ではないのだろう。時たま咳き込む名前を心配してくれている姿勢に偽りはない。
 ただし、それだけで終わるはずがないのだ。
 疑り深いとギャラハッド辺りは眉を潜めるだろうが、彼女は懐疑的な視線を崩したりはしなかった。本当に優しいだけの男なら、あれほど言葉で叩かれたら絶対に家にはこない。心配だから様子を見にきたと語っていたが、日を跨ぎそうな深夜の来訪を世間一般の良識に当てはめるには無理がある。

 アーサーという男は善人なのだろう。いつも良い運に恵まれている。彼はいつだって名前の予期せぬ登場を果たしては物腰柔らかに良くも悪くも散々に引っかき回す。ありあらゆるタイミングはいつだって彼に味方した。
 けれども良い人かと聞かれた、きっと、

「まだ、明日になってないのに…」

 この男は、分からないことだらけなのだ。
 初めて会った夜からずっと、今だってそう。天運を味方につけて真意を薄暗闇にひた隠す。彼の意図はいつだって名前の届かぬところにあった。

 なんだか、悔しい。
 助けられたのに、くやしい。

 それなのに、彼はあの見慣れた、仕方なさそうな笑みを作って名前をはぐらかそうとする。それどころか頬をなぞる指が彼女の機嫌を取るようにして肌についた髪の毛を梳いていく。

「本当に気がかりだったんだ。これは嘘ではない。だから明日ではなく今夜にしようと思った。それだけのことだよ」

 明日、家に来られるのは困るのだろう?
 名前のぶすくれぶりに配慮してか、アーサーは夜風がやんだ辺りで一言一句とはっきり告げた。ほうら、やはり。彼は彼らしい魂胆を抱え、敢えてこんな深夜に彼女の家の戸を叩いたのだ。
 どうやら揚げ足を取られたらしい。

「...なんにも納得できない。なんで明日がダメなら今日って話になるのよ」

 名前は弱々しくもアーサーのタイを掴むと姫抱きにしようとする彼の力に無理やり逆らった。お尻を地につけたまま、一人で背中を起こす。悪熱をたぎらせる頭蓋骨が締めつけられるように痛むが、めげずに作り上げた渋面を当てつけてやった。

「明後日は私用が入っているんだ。それ以降となると間が空いてしまうだろう?風邪は長引かせるものではないからね」

 微笑みをキリッと尖らせているのが余計に名前の素直になれない負の感情に拍車をかけていく。台詞の始まりから終わりに至るまで癪に触ったのは初めてのことかもしれない。

「(それ屁理屈でしょうが...)」

 彼女としては今日、明日、明後日だろうだがお見舞いなんてものを許した覚えはない。けれどアーサーは彼女の本心をまるで無視すると、勝手な解釈をたずさえ、遂には実行してしまった。
 ここまで図々しいとなると、扉越しに投げかけてきたしおらしい気遣いが全てが胡散臭く匂えてきてしまう。

「もしかして、部屋まで入ってくるつもりでいた?」
「今夜の君はとても聡いね」
「ほ、本当に油断も隙もないんだから…!!」

 あわよくばの話だよ。彼は事も無げに、しかしついに白状した。なんて男だろう。押しかけ女房だってもう少し空気を読む。今夜のアーサーは身勝手もいいところで、あまりに"らしくない"
 そんな屁理屈のおかげで窮地を救われたなんて、絶対に認めたくない。そう正面切って憤慨できれば、よかったのに。

「名前。無理はせずとも僕が抱えるよ」
「いいって。平気だから」

 立ち上がろうとする気配を機微に察知され、すかさず回り込もうとする腕を払う。いつになっても気遣いを欠かさない殊勝ぶりにむずむずとしたもどかしさを覚えずにはいられない。

「(言うべきことくらい、分かってるよ)」

 名前はふてぶてしい態度の裏側で、今こうして彼がそこにいてくれていることのありがたみを見落とすほど愚かではないつもりだった。事情がどうあれアーサーが現れてくれなければ、彼女は未だに口枷の中で苦しんでいただろうから。
 何かにつけて文句をつけたがるのはあまりに可愛くない。

「(うぐ...。やばい。改めて向き直ると言いいづらい)」

 学生証を届けてもらった、あの時と同じようにすればいいだけ。分かってはいても、これまで散々に尖った態度を取ってきた分、口が中々言うことを聞かない。事件性に発展しかけた窮地を救ってもらたのだから、もっと真摯になる必要があるというのに。
 意を決して、心配そうにしてくるその男と距離を取る。全体的に目立った外傷はないように映るがそれは目指できる範囲でのこと。名前の大好きな顔には心なしか、疲労の影がのっているように映った。

「...、家に上がろうとしてたのは許せないけど、...」
「うん」

 アーサーは名前を助けてくれたのだ。



「あ、りーーー?」

 ふと、無風の夜が名前の耳を尖らせた。草根の擦れあう雑音に紛れて、聞き覚えのあるメロディが薄っぺらい音階を奏でる。弱々しい旋律は、けれどもそう遠くない場所にあることを彼女に教えてくれた。

「これ、私の……」

 記憶をわずかに遡る。粉々に割れてしまった画面を挑発するように見せつけられて、思わず手が伸びてしまったのだった。すぐにでも取り戻そうとしたのだが、気がつけば名前の視界は綺麗に反転していた。後のことはよく覚えていない。
 目まぐるしく流れていく超展開に埋もれ、ここまで忘れてしまっていたが、この着信音が鳴っているとは、誰かが彼女に電話をかけているということ。その発見は同時に機器が無事であることを保証していた。

「探す必要はないよ。連絡手段なら僕が持っている」
「でも、マシュからかもしれないし。さっき途中で切れちゃったらか心配してると思う」
「だとしてもだ。あまり僕から離れないでくれ」

 常ならば胸ざわめく台詞も、すぐ近くに転がっているかもしれない携帯の可能性には叶わない。状況も忘れて探してしまうのは癖のような現象であり、またどこかでアーサーがいるなら大丈夫だと安心しきっていたのも事実であった。

「あった!……って、うわ。こいつが持ってたのね」
「名前」

 虚を食らった両肩がビクッと電流を起こす。咎めるようなアーサーの呼びかけは、すぐに戻ってこいと明らかに命令しており、そんなものを受けたことがない名前はたちどころに固まってしまう。
 手を伸ばせばすぐそこに、青い光を鮮烈に放つ画面が転がっているのに。

「だ、だって、この人、気絶してるんでしょ?なら、大丈夫じゃないの?」

 室外機にもたれるようにして崩れ落ちている男は、意識を深いみなぞこへと沈めている。アーサーが彼に与えた一撃は素人目ながらに、しばらくは目覚めないだろうと確信させるほど強烈だったのだ。おかげで、気絶した拍子に落としたのであろう名前の携帯も取り戻すことができる。
 どういう腹づもりで忍ばせていたのかは不明だが、碌でもないことに利用するつもりでいたのだろう。そう簡単に決めつけられるほど、男に抱く不信感は大きい。
 地面に落ちている私物を拾うだけだ。何も危険なことをしているつもりはない。

「ーーーッ、ダメだっ!すぐに離れろッ!!」
「わっ。え、なに?」





「ほんと、間抜けで助かったぜ」

 名前がたったの一歩を後ずさるよりも、男が立ちあがる方が速いことが、何よりも理不尽でならない。
 淡々と起立する体の動きは、寝起きとは考えられないほどにゆるやかで、いつからフリをしていたのか時間さえあれば問い詰めてやりたいくらいだった。
 しかし、そのような猶予は残されていない。男は悠々と、まるで違う時間軸に存在するかのように嵐の前の静けさを示唆する。胴体の向き、手の高さ、足の引き、あの構えには見覚えがあった。

「ひ、ッ」

 ほくそ笑む口角に戦慄が走るのは当然のことであり彼女は一瞬にして思考の大部分を奪い取られてしまった。
 頭の中身は文字通り真っ白で、出来ること言えば迫りくる恐怖を、叩きこまれる痛みを想像するくらいだろう。

「(蹴られ、)」

 現実の時間にして刹那、名前は生きた心地がしなかった。自分は今、まさに死んでいる最中だと思いこむほどに。
 凍りつく心の片隅に淡い後悔を抱きながら、無性に彼に謝りたくなった。

「名前ッッ!!!」

 "いたいっ"
 名前は悲鳴を上げた。上げることができた。

 痛みを感じながら、そこには言葉にできるほどの余裕があった。
 突き飛ばされた肺が小さく咳こんで、勢い任せにお尻から地面に沈んでいく。地面との距離が近づくほどに名前は凄まじい勢いで理解を追いつけていく。
 だが地に沈む体の行方なんてどうでもよくなるほどに彼女を引きつけたのは、暗がりにたなびく薄金色の光だった。

「.........あ、っ」

 遅すぎる発見は、同時に深い後悔をもたらす。名前を突き飛ばしたせいで、腕が間に合わない。一度目は防いだ。けれどこの二度目ばかりは、向こうが上手だ。
 嗤う男は知っていたのだ。彼が必ず彼女を庇いにくることを。絶対に追いついて、割りこんでくることを。
 目に映る、ありとあらゆるものが名前を置いてけぼりに展開していく中で、彼女の瞳は初めてスローモーションの力を帯びていた。

 めりこむ踵、ぶち当たる頭、衝撃に揺れる頭髪。
 それからーーーミシミシ、割れて、ヒビが入り、わずかに砕ける。ついには受け止めきれなくなり、裂けていく。

 それはこの上なく不快な音だった。

 誰の何が、を考える余裕はなかった。しかし、名前のすぐ眼前で壮絶な痛みが波及していくような気がしたのだ。
 
 "アーサー?"

 飛沫が散る。流曲線を描きながら地面へと沈んでいく頭髪の隙間から飛び出して、運悪く名前の頬をわずかに濡らす。
 重力に従ってぺシャリと横倒れていくスーツは紛れもなく彼の背中。けれどもその事実を認めたくない一心で彼女は唐突に、自分が悪い夢を見ている可能性に埋め尽くされた。

 あの背広は、彼ではない。全く知らない、別人だ。
 だって、一度は倒したのだ。こんな、数分も経たぬ間に逆転されるなんてありえないじゃないか。
 しかし露わになったうなじは、コンクリートの固い床に打ち崩れたまま、ピクリとも動かない。

「う、ぁ......ぇ?」 
「あ゛〜〜。いってぇなぁ」

 まるでお化けのようにゆらゆらと長い髪を揺らして、男は自身の頭をなんどもさすっていた。肘で打たれたところが痛むのであろう。苛立ち混じりの苦痛が名前を圧しにかかる。

「無様なもんだ。仕事は邪魔され、優男には手加減され、やってられん」

 彼女の腰を跨ぐように仁王立つ男は、凶器そのものである足をちょいとズラすことで彼女の視界からアーサーを奪う。遠慮もなく腹元の乗りかかると、鳩尾を詰められる苦痛から反射的に呼吸を律した。

「なんで...ッ、」

 名前のこの状況そのものに対する糾弾は、キラキラした愛嬌のある笑顔に相殺されていった。彼はついに雲を脱した月明かりを逆光につけ、彼女にぐんっと迫る。

「ホントそれ。なーんでこんなことになったんだろうなぁ」

 男は萌葱色を半月のように歪めながら人差し指で名前の胸板をつつく。まるで自分の胸に聞いてみろと言わんばかりに嘲笑う。
 覆いかぶさってくる影に意識を丸ごと絡めとられながら、地面に伏す金色の頭髪だけが彼女の中に繰り返し浮かんで、そしてまた、消えていった。


 多分、これは全部名前のせいだ。



ep.3(上)-END


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