ここはライアンにとって城だ。
壁一面のアーティストポスター、棚いっぱいのCD。天板にはお気に入りのアートワークとプレーヤーを置き、針が控えめにレコードの溝をなぞる。
狭い部屋の大半はシングルのパイプベッドに占領されている。そしてそこはライアンの定位置であった。
家にいるときはワイヤレスヘッドホンを繋ぎ、1人の時間を楽しんだ。
お気に入りの本を読みながらでもいいし、ただぼーっとするだけでもいい。
とにかく、ライアンにとって1人の時間は大切なものだった。
いつも通り音楽を聴いていると、玄関の扉を叩く音がした。
返事をする前に若い女の声で「すみませーん」という声が響く。
ライアンはヘッドホンを外し、ベッドから降りて玄関に向かった。途中床に落ちていた毛布を足で寄せる。
扉を開けると、見覚えのない女性が1人立っていた。
「はい」
「ああ、お隣さん、申し訳ないんだけどハサミを貸してくれない?」
「ハサミ?」
手元を見ると小包を抱えていた。
女性が片手で持つには少し大きいそれは、たしかに素手で開けるには難しい。ライアンは少し待つように言い、奥に引っ込んで煩雑なテーブルからカッターを探し出す。ハサミよりはこちらの方がいいだろう。
玄関に戻り、相手にカッターを差し出す。持ち手を相手の方に向けることも忘れない。
カッターを見た彼女は少し恥ずかしそうに肩を竦めた。
「ありがとう、ハサミよりずっと良い」
どうやらいつもハサミで開けていたようだ。ややずぼらさが見え隠れしているが、ライアンはそんな些細なことに気付くほど、細やかな男ではなかった。
彼女は受け取りながら、手際よく小包のテープを切り、その場でカッターを返す。
「変な時間にごめんなさい。助かった。どうしても今日開けたかったの」
「どういたしまして」
さて、ここでご近所づきあいのできる人柄であれば雑談の一つもしただろうが、前述した通りライアンは細やかな人柄ではない。
女性は人懐こい笑みを一つ浮かべ、「あー」と何か言いたそうだったが、ライアンがこれ以上会話をする気がなさそうだという雰囲気を察して会話を切り上げた。
「どうもありがとう、助かったわ。お礼させてね」
「いや、これくらいで……」
お礼はいいよという言葉は届かなかった。女性がじゃあねと言ってさっさと隣の部屋に戻っていったからだ。
気の利いた声掛け一つできなかったが、女性は最後まで笑みを絶やさず会話をしていた。
……と思う。
実を言うとライアンは女性の顔をろくに見ていなかった。人の目を見て話すのは緊張するからだ。
ルークたちの手伝いで新人ファイターと話す機会があるものの、それは仕事だからと己を奮い立たせているだけで、プライベートでは仕事のようにはできない。
笑っていると思ったのは声が笑顔だったからだ。突然隣の部屋の、しかも面識のない男にハサミを借りにくるのだからよほど明るい性格なのだろう。
ライアンは妹に言われた「もう少し笑ってみたら?」という言葉を思い出した。言葉遣いは悪くないんだから、あとは声色だねという彼女なりの気遣いであった。
自分と比べて人当たりのいい彼女を思い出し、なんだかかわいらしい人だったなあと、雰囲気だけで判断する。
まあ、隣に住んでるというだけで、今まで顔を合わせたことすらなかったのだからこれで終わりだろう。そう思い、ライアンは自分の定位置へ戻っていった。
しかし、これで終わりだと思っていたのはライアンだけだった。
日が暮れたころ、また扉をノックする音が聞こえる。今度は控えめだ。
もうそろそろ夕飯だと思っていたライアンは、ヘッドホンを外してキッチンに立っていた。今日は適当に肉と野菜を炒めようと思っていたが、来客のため持っていたフライパンを置く。壁側に寄せられた毛布を横目に、玄関に向かった。
扉を開けると、夕刻ハサミを借りに来た隣の住民だった。
「こんばんは」
「こんばんは、お礼を持ってきたわ」
「お礼? ハサミの? そ、そんなのいいのに……」
と言いつつ突っぱねることをしないのは、自分の目線よりも幾分か下にある鍋から、いい匂いがしたからだ。
ちょうど腹も空いており、そんなつもりはなくとも凝視してしまう。
その視線に気付いたのか、半ば強引に片手鍋を渡される。それを反射的に受け取り、蓋を開けると中身はトマトスープであった。スープにすっかり浸かった鶏肉が、つやつやと輝き食欲をそそる。
彼女は少し緊張した様子で言った。「トマト平気?」
「ああ、好きだよ」
「本当? よかった」
笑顔の声だ。思わずライアンはスープから目線を外し、顔を上げる。
目の前の女性はホッとした様子で、にっこりと笑っていた。
(か、かわいい……)
初めて女性の顔をしっかりと見た。安心したような笑顔の中に、どこか恥じらいが見られる。緊張していたのか頬が赤く染まっていた。
背の高いライアンから見ると自然と上目遣いになり、それがとても愛らしい。
特に好みの顔立ちというわけではないが、その女性らしい出立に一瞬見惚れてしまっていた。
まさかライアンがそんな風に考えているとは露知らず、女性はそういえばと話し始めた。
「チャイム、壊れてるんじゃない? 大家さんに相談してみたら?」
突拍子もない話題に驚く。しかし、昨日妹のアリスが訪ねてきたときは鳴っていたし、壊れていないはずだ。
なぜ壊れていると思ったのだろうか。
「昨日までは鳴ってたけどな」
「でもハサミを借りにきたとき、あなた出てこなかったじゃない」
だからあんなに激しく扉を叩いていたのか。ライアンは合点がいった。
「ごめん……多分ヘッドホンしてたから、気づかなかったんだ」
「そうなの? 音楽好きなんだ。でもよかった、壊れてるわけじゃなくて。次からはチャイム鳴らすようにするわ」
次があるのか。と疑問だったが、手元の鍋を返さなければいけない事実を思い出した。鍋を回収するのにまた訪ねてくるのだろう。
温かいスープがぬるくなってしまうことを懸念したが、それよりも彼女との会話を楽しみ始めている。少し前までのライアンであれば気が重かっただろう。しかし、今は少しでも話していたい。
「ちょっと長居しちゃったかな。それじゃあ」別れの言葉を告げ、女性は自分の部屋に戻ろうとした。
あ、とライアンが小さく言うと、彼女は振り向く。少し微笑んでライアンの言葉を待つ姿に、胸が高鳴るのを感じた。
「名前……聞いてなかったなと思って」
「ああ、確かに名乗ってなかったわね。ナマエよ。よろしくね、ライアン」
「僕の名前知ってたの?」
「……お隣さんだし」
どうやら、隣近所を気にしないのはライアンだけだったらしい。
***
隣に住むナマエとおかしな出会いをしたライアンは、なんとなく鍋を返すタイミングを逃していた。
そもそもライアンは、ルークの手伝いで外での活動を強いられることも多いため、自由な時間限られてくる。さらにナマエがどんな仕事をしているかも知らないため、昼に訪ねてもいない気がするし、夜に訪ねるのは妙齢の女性に悪い気もする。
トマトスープをもらったときの会話からナマエが自分を訪ねてくる可能性も高かったが、さすがにいただいた手前「はいそうですか」と待ちの姿勢はライアンのポリシーに反した。
玄関の外に鍋だけ置いておこうかとも考えたが、ダッシュイーツのデリバリーじゃあるまいし、礼儀に欠けるだろう。
要は気の使いすぎで、最も避けなければいけない食い逃げ状態に陥っていた。
数日前のナマエとのやりとりで、人との接触に前向きだった気持ちはどこへ行ったのか。今ではその姿もすっかり隠れてしまった。
昨日までは隣のチャイムを鳴らそうか悩んでいたが、今日はそんな気も起きない。ただ鍋を返し、軽いお礼を言うには日が経ちすぎていたのだ。
キッチンにある似合わない赤い鍋を横目に、ライアンは溜まったゴミをまとめ、ダストシュートの前まで重い足取りで向かった。
アパートの中央あたりにあるそれは、ナマエの部屋とさらに3つの部屋を通り越した先にある。特に回収日は決まっていないため、ゴミが溜まったら各自捨てに行くシステムだ。
今のライアンにとって、ナマエの部屋の前を通るのもやや憂鬱であった。足早にゴミを捨てようと目的地に向かう。もっとも、普段から用事は足早に済ませるタイプではあるが。
ダストシュートは壁についており、メタリックな窓にゴミ箱のマークが描かれている。
窓をあけ、ゴミを捨てようとしたときだった。
「おはよう、ライアン」
女性に声をかけられる。ライアンはいつものように相手の足元を一瞥し、軽い挨拶を返した。目線はすぐ手元のゴミに戻る。
しかし、このアパートに自分の名前を知っている人がナマエ以外にいるだろうか。しかもよくよく思い出せば、その声にも聞き覚えがあった。ライアンは再び女性に向き直る。
「うわ!」
「ご挨拶ね、私そんなに怖い顔してるかしら」
ナマエはわざと犬のように唸ってみせた。そのおどけた様子は数日前と変わらない。迫力のない犬の真似は、ライアンの悩みを少し軽くした。
ナマエもちょうどゴミを捨てにきたところだったらしく、ライアンは横にずれる。ナマエは同じくゴミをダストシュートに押し込んだ。ゴミがするすると下に落ちていく。
「ライアンって意外と朝方なのね」
「意外とって……普通に昼に動いてるさ」
「へえ、じゃあ私と逆か」
「ナマエは夜の方が得意?」
「まあね。在宅だとどうしても夜に仕事をしたくなっちゃう。今日は打ち合わせがあるからさっき起きたの」
今度はライアンがへえ、と言う番だった。どうやらナマエは在宅で仕事をしており、夜の方が都合が良いらしい。
とはいえ、先ほどまで頭を悩ませていた張本人は目の前にいるわけで、用事はここで済ませることができる。
少し言い出しづらかったが、今言わずにいつ言うんだと己を奮い立たせた。
「あの……トマトスープありがとう。いろいろ遅くなってごめん」
必要以上に申し訳なさそうにするライアンを見て、ナマエは目を丸くした。しかしすぐ笑って返事をする。
「あはは、気にしないで。そろそろ私の方から行こうかと思ってたから」
「あー……ごめん」
いよいよ縮こまり、一度の会話で2回も謝ってしまった。
ナマエは少し困った顔で「ちょっと、そんなに謝んないでよ」とライアンの背中を軽く叩いた。初めの頃にも感じたが、ナマエは人との距離感が近い方らしい。
ちら、と自分よりも背の低いナマエを見ると目が合った。ナマエの方からはライアンの目線は見えないはずだが、なんとなく察したのか嬉しそうに笑顔を返される。
ライアンにとって、この人懐こい目線は、居心地が悪かった。というか、むずかゆく、恥ずかしい。
この居心地の悪さを相手に感じ取られることも、さらに苦手とするところだった。
「ライアンは普段なにしてるの? やっぱり音楽関係の仕事とか?」
「いや、全然。シーサイドストリートわかる?」
「ああー、民間警備会社のある通りでしょ」
「まさにそこで。まあ、あんまり仕事って感覚じゃないけど」
ナマエは声を上げ驚いた。自分でも肉体派に見えるとは思っていないので、そのベタな反応に思わず笑ってしまった。
朝ということもあり、ライアンの反応を見てナマエは自分の口を手で塞いだ。恥ずかしそうにしている姿が、初対面でハサミを借りにきたあのときと重なる。
よく表情が変わるなあと、ナマエの様子をじっと見てしまった。
ライアンの視線に気づき、ジトりとライアンを見上げるナマエ。
「なに? そんなに見てきて……」
「ご、ごめん。なんかかわいいなと思って……」
「え!?」
「え?」
瞬間、ナマエの顔は耳まで赤くなった。その様子に、今度はライアンが顔を赤くする番だった。ナマエは口元にあった手でさらに顔全体を覆う。
隠れていない耳は、同じくらい赤い。
「ライアンってそういうこと言うタイプなのね」
目も合わせず、ライアンの靴を見つめながらナマエは言った。
ここにきて居心地の悪さは最高だった。いや、最低だったのかもしれない。とにかくライアンは大層恥ずかしくなり、大袈裟に、かつ曖昧な返事を返した。まさかナマエがそんな反応をしてくるとは予想だにしなかった。ライアンにとっては小動物に言う感覚と同じだったからだ。
数秒、変な沈黙が流れ、ナマエはわざとらしく咳払いした。気を取り直して、という声が聞こえそうだ。
ふと自分たちがゴミ捨てにしては長い間、そこで立ち話をしていることに気づいた。朝方のため、他の住民がちらほら部屋から出てくる時間である。
なんとなくこの微妙な空気を他の住民に見られたくはない。ライアンが部屋に戻ろうと歩き出すと、ナマエもそれについていく。
ナマエはそのまま自分の部屋に戻ろうとしたが、ライアンの方は部屋に不釣り合いな鍋を思い出し呼び止めた。
「鍋、返すから少し待ってて」
「え、ええ……そうね」
ナマエはすっかり鍋のことなど忘れていたらしい。顔もまだ少し赤い。
そんなナマエを見ているとこちらまで恥ずかしさがぶり返してきそうだったので、さっさと鍋を取りに戻る。
赤くて丸い片手鍋は、もとの持ち主に戻った。ナマエが持っているとなんとなく収まりが良く見えたため、自然と部屋の趣味も丸くて鮮やかな色が多いのかと想像した。
まだ知り合って間もない女性の部屋を想像するなんて、とライアンはかぶりを振る。どうにも自分がすけべな男になった気がする。
「また料理持ってくるわ」
「なんのお礼に?」
「今日、なんだか気分がいいから」
早起きっていいわね。と頬を赤らめて笑うナマエに、ライアンは目が離せなかった。こんなにかわいい子見たことがないと衝撃すらあった。
***
「お前、ちゃんと食ってるか?」
「食ってるよ」
ほんとかよ、と返してきたのは兄のトレイシーだ。聴きたいCDがあるからとわざわざライアンの家に上がり込み、生活感あふれる部屋を見渡して兄心というものが出てきたらしい。
確かに、油断すると一日カップ麺で過ごすという日もあったが、最近はそんなことも少なくなった。
ライアンは頭に1人の顔を浮かべて顔が熱くなる。
ぐるりと部屋を見渡したトレイシーは、ひとつのものを見つけ目を見開いた。
「あの鍋なんだよ」
ライアンは心臓を小突かれた気分だ。CDを探していたが、トレイシーの目線を追うとキッチンに置かれた赤い片手鍋があった。
実はあれから、ナマエと何度か夕飯のやりとりしていた。
特にライアンから頼んではいなかったのだが、もらったご飯を平らげては容器を返しに行き、次の日またナマエが夕飯を持ってくるという流れが続いていた。
何もないのになぜ夕飯の差し入れがくるのか全く意味はわからなかったが、ライアンにとってそれは些細なことだった。つまりあまり気にしていなかった。
それよりも、平らげた容器を持って行ったときに見られる、ナマエの嬉しそうな顔といったら。
自分にだけ向けられたものだと思うと、えもいわれぬ高揚感があった。
さらに「明日楽しみにしててよ」という言葉。明日もナマエの手料理が食べられるなんて断る理由はこれっぽっちもない。
何度かお礼を試みようとも思ったが、ナマエは気にしないでと花の咲いたような笑顔を見せるだけだった。
それが心の底からの笑顔だったため、ライアンもお言葉に甘えた状態が続いているというわけだ。
しかし、その高揚感を兄に悟られたとなると話は別だ。やや怒りのようなものも込み上げてくる。
頼むからそれより先は言ってくれるな、と願ったが、それも虚しくトレイシーは痛いところを突いてきた。
「彼女でもできたのか?」
「かっ……。……そんなんじゃ、ない」
「でもあれ、ライアンの趣味じゃないだろ」
おっしゃる通りである。
「じゃあ、最近良い感じの女ってところか」
ライアンは自分の頭に血が昇るのを感じた。身内に自分の恋愛模様を悟られるなど、普段の自分を知られているだけに恥ずかしさがあった。らしくないことは、自分が一番わかっていた。
恥ずかしさからくる怒りがライアンの中を駆け巡る。言葉を続けるトレイシーに悪意がないところもタチが悪い。
しかし、ライアンもいい大人である。トレイシーに感じた苛立ちは思春期のそれとほぼ同じであったが、当時のように怒りを表に出したりはしない。
ライアンは気づかれないように深呼吸をし、トレイシーに向き直って否定した。
「そんなんじゃない」
「お……」
果たしてライアンは、大人としての返事をできていたのか怪しいが、とにかくいつもの弟じゃないとトレイシーは感じた。
これ以上この会話を続けることは危険だと察し、そのまま口を閉じた。ここで謝ると余計態度が硬化することは目に見えている。そこは兄の経験である。
トレイシーはあからさまに話題を変えたが、そこを突くほどライアンはわがままではなかった。兄は自分の機嫌を取ったのだと、多少申し訳ない気持ちにもなる。
ただそんな感情も、今では怒りのエッセンスにしかならない。
これ以上会話しても口論になるだけだ。そこは弟の経験である。
ライアンはおとなしく相槌を打つだけに徹したのだった。
とはいえ先刻の出来事は、ライアンの心に後ろ向きな感情を生むには十分だった。
トレイシーにそんなつもりはなかっただろうが、ライアンにとっては多少からかわれた出来事として刻まれた。
今後ナマエと対峙したとき、トレイシーのからかってくる様子を想像してしまいそうだ。
また鍋を返さなければいけない。ライアンは洗った片手鍋を持ち、隣の部屋のチャイムを押す。
まもなく中からナマエの声がして、扉のチェーンを外して出てきた。このメトロシティで相手を確認せず玄関を開けるなど不用心な行動だったが、毎日この時間になって訪ねてくるのはライアンと決まっていた。それくらい、2人は夕飯のやりとりをしている。
ハイ、と軽く挨拶をしてくるナマエは、嬉しそうにライアンを見上げる。
その顔を見るとライアンもたまらなく嬉しくなり、つられて笑顔になってしまうのだが、今日は違った。
ーーー彼女でもできたのか?
トレイシーに言われた言葉が響く。ライアンは自然と笑顔を消した。目の前のナマエは、手元のスマートフォンで何か見ておりそれに気づかない。
ナマエが夢中になっている画面はどうやらレシピサイトらしい。おそらく次の夕飯について考えているのだろう。
きっとこの料理もライアンに食べさせてくれるだろう。いつもの赤い片手鍋を持たせて。その鍋はまた、ライアンの部屋には不釣り合いな色を見せる。
不釣り合いなのは部屋の色だけなのに、ライアンにはそれが無性に自分と重なった。まるでナマエと自分は不釣り合いだと言われてるようだった。
浮き足立っていた感情が、地面にずっしりと着く。
そんなライアンに気づかないまま、ナマエは控えめに話し始めた。
「あの、明日の料理だけど、よかったら……」
「そのことだけど」
切羽詰まったように、話を遮った。ナマエは驚いてぱっと顔を上げる。
「もう……いいから」
「……いいって?」
「作ってくれなくていい」
ライアンの口から出た言葉を理解したナマエは、今まで見たことないような、泣きそうな表情になった。スマートフォンを持つ手に、力が入っている。
これ以上親しくなると、自分がみじめになる気がした。勝手に期待して、勝手に喜んで、勝手に……好きになった。
自分だけだと思っていた。この気持ちは。トレイシーに指摘され、自分で否定して、自分で傷ついた。
しかし、ナマエの態度から、自分の拒否の言葉が間違っていたと思い直した。
ナマエは下を向く。今度は何も見ていない。ライアンはナマエが泣いているのではないかと思ったが、返ってきた言葉は泣き声ではなかった。
「ごめん、迷惑だったよね」
「……ナマエ」
「ごめん」
ナマエはライアンから片手鍋を受け取る。受け取るというより、軽く引っ張る形だった。ライアンはすっかり身体から力が抜けてしまい、それだけで鍋はナマエの元に戻っていった。
扉が閉まる寸前に見えた横顔は、驚くほど寂しそうであった。
***
全身ピンク。髪の毛から爪の先まで。
「情けない……」
そんな女性を前に、ライアンは叱られた子犬のように縮こまっていた。
全身ピンクの女性ーーーアリスは、ライアンがさらに肩をすぼめたのを見て大きなため息をついた。ちなみに、アリスの隣には同じく肩をすぼめたトレイシーがいる。
一同メトロシティのカフェにて、端の席を陣取っている。このカフェはメトロシティに点在しているチェーン店で、内装は木材を多用し落ち着いた雰囲気が心地よい。昼はカフェ、夜はバーになる。隣にはダーツが置いてあり、さあどうぞ長居してくださいと言わんばかりだ。
小さな女性に対し、大きな男性2人が肩身を狭くしているのは面白い画だったが、このメトロシティでは珍しいものではなかった。
「ライアンの悪いところね。自分のプライドのために、デリカシーのない会話するところ」
「うっ」
「起こってもいないことをうだうだ考えて、最悪の一手を投じるところも」
「……」
末っ子のアリスは、トレイシーに似てコミュニケーション能力に長けていたが、それは人となりをよく観察する力があるからである。
今それが遺憾なく発揮され、ライアンは耳が痛い。こうなってしまった責任の一端に自分もいると思うと、トレイシーの方は心臓がずきずきしてくる。
アリスの言う通り情けない話だが、つまるところライアンは妹に泣きついたのである。
そして泣きついてからしばらく経ったことは、3つのアイスコーヒーが物語っていた。
氷で薄まったそれをストローで飲むと、アリスは腕を組み直して問う。
「で、どうしたいの」
「……謝りたい」
「じゃあ私に泣きついてる場合じゃないでしょ」
さあさあ、とアリスは立ち上がり、腰が鉛のように重いライアンを急かす。ライアンの方は、鉛どころか磁石がついているのではないかというほど椅子から離れなかった。
アリスは腰に手を当て、呆れたように言った。
「往生際悪いわねえ」
「どんな顔して謝ればいいか……」
「ばかねえ! もう何言ったって無駄よ。こうなったら殴られた方がマシなんだから、潔く頭下げることね」
ここまで来たらプライドも何もない。なんでもいいからさっさと行けということだ。
それでもなお、ライアンにとっては、今このまま問題を先延ばしにしたい気持ちも大いにある。ここにいれば、これ以上傷つくことはないからだ。
「その人一緒にいたくてご飯作ってくれてたのに、かわいそうだわ」
「アリス、ライアンも反省してるんだし、その辺で……」
「ライアンにとってその人って、その程度だったんだ?」
ぴくりと、ライアンは反応する。アリスは期待通りという顔をした。にやけそうな表情筋を落ち着かせ、そのまま言葉を続ける。
「もうどうでもいいのよね。その人が別の人にご飯作っても」
「……」
「だってもういらないんでしょ? 一緒にいたくないんでしょ?」
「そんなわけ……ない」
あの自分に向けられた笑顔を、嬉しそうな顔を、他の人にあげるなんて嫌だった。あれは自分に向けられた、ナマエからの好意そのものだった。
謝らなければいけない。謝って済む問題ではないのは承知だ。ナマエの傷ついた顔を思い出すと、いかに自分が間違っていたのか思い知らされる。
それでも、ライアンは気持ちを伝えなければいけなかった。口ほどにものを言うあのナマエの目を、今まで見てきていたのだから。
ライアンは突然勢いよく立ち上がる。トレイシーは小さく声を上げて驚いた。そんなことを気にせず、驚かせた本人はずんずんと勇ましく歩いてカフェを出て行く。ぬるくなったアイスコーヒーを残して。
アリスはしばらく出ていったライアンを見ていたが、その背中が小さくなったころ、大きくガッツポーズをした。トレイシーもアリスの背中を叩き、ねぎらいの言葉をかける。
「やるなあ我が妹よ!」
「当たり前よ、あのライアンに真っ直ぐぶつかれる人なんて、この世に何人いるか。絶対逃しちゃダメなんだから」
それを聞き、まるで自分の手柄かのようにトレイシーは頷いた。
一仕事片付き、肩の力を抜いたアリスは上機嫌なまま隣の兄に向き直る。
「ところで、古今東西相談に乗ってもらった人は、相手にお礼をするものよ」
「……」
「私ここのパフェ大好きなの。ごちそうさま」
***
カフェを出たライアンは走った。自分の住む城に向かって。
思えば赤い鍋は、薄暗いライアンの城に彩りをくれた。音楽とストリートファイトだけの毎日、似たような日々が、あの赤い鍋が変えてくれたのだ。
もうトレイシーの言葉なんて思い出さなかった。そんなことよりナマエのくるくる変わる表情を思い出していたい。そして、最後に会った日言いかけた言葉。ナマエの「もしよかったら」の先はなんだったのか、どんな料理を作ってくれようとしたのか。ナマエのことしか気にならない。
あと少し、角を曲がったその先にアパートがある。
「きゃあ!」
「あっ」
角を曲がったところで、女性とぶつかった。ライアンは咄嗟に謝罪の言葉を口にする。曲がろうとスピードを緩めたところだったのでそこまで強くぶつかったわけではないが、相手の女性からしたらタッパのある男がぶつかってきたのだからそうもいかない。
女性はよろよろと後ろに下がり、なんとか体勢を持ち堪える。
よく見ると、ぶつかった女性はナマエだった。
ナマエはライアンの顔を見ると顔をこわばらせたが、すぐに取り繕ったような、張り付いた微笑みになる。
その様子を見て、ライアンの心は少し痛んだ。
「はあ、驚いた。ライアンじゃない……急ぎの用事?」
邪魔してごめんと、足早にその場を去ろうとする。
ライアンは、ここを逃したら最後だと思った。無防備なナマエの腕を掴んで引き留める。
「ま、待って」
ナマエは掴まれた腕を見もしなかったが、振り解こうともしなかった。ということは、まだ話し合いの機会はあるということだ。
ライアンは掴んだ手の力を緩めず話を続けた。
「あの……謝りたくて」
「……夕飯のことなら、別に、気にしてないけど」
「あ、あー、そうかもしれないけど……僕は……。いや、こんな言い訳みたいなことがしたいわけじゃなくて」
それを聞いたナマエは、掴まれた腕の力を緩めた。その場に止まってくれる意思を見せたことに安心し、ライアンも力を緩める。
いつの間にか、あたりはオレンジ色に染まっていた。もうすぐ日が暮れる。
仕事帰りOLやサラリーマンが増えてきた。2人の異様な光景にちらちらとこちらを伺うものたちも何人かいるが、そんな些細なことは気にならなかった。
今はナマエに向き合っていたい。
「僕、またナマエの料理が食べたい」
今度こそ、ナマエはライアンの方を振り向いた。怒っているかと思ったが、その表情は玄関先で見た泣きそうな顔と同じだった。
また、泣き出すのではないかと、ライアンの心臓はどきりとした。
しかし、ナマエの顔はすぐ横を向いてしまう。増えてきた人の雑踏の中から、小さく、ぽつりとナマエ声が聞こえる。それをこぼしてしまわないように、ライアンはよく耳を澄ませた。
「……勝手すぎ」
「うん、分かってるけど……他の人に作ったり、してほしくない」
「他の人になんか作らないよ」
夕陽がナマエの顔をオレンジに色濃く染めた。その色が、ナマエの表情を隠す。少なくとも、あのとき見た寂しそう顔には見えなかった。
「……私さ、実はライアンのこと知ってたんだよね」
ナマエは、またぽつりぽつりと話し始めた。
今度はライアンも遮ろうとはしない。よく聞いていたい。
「仕事とかは、知らなかったけど。ダストシュートの前で何回か挨拶したし、アパートから出ていくところも見た。いつもこっち見ないで挨拶する人だなーって思ってた」
知らなかった。確かに知り合ってからダストシュートの前で鉢合わせたことはあったが、まさかその前から挨拶を交わしたことがあったとは。
毎回人の顔を見ずに、適当な返事をしていたのをライアンは初めて後悔した。
しかし、挨拶をしたり見かけただけで知ってるという話にはならない。
「外で……ライアンが誰かと話してるの見たの。今思うと仕事中だったのかな。そのときのライアンが、楽しそうに笑ってて、それ見て、私……ライアンのこともっと知りたくなった。話したくなった」
ナマエの手が、ライアンの手を握った。そこで初めて、自分たちは腕ではなく、手を握り合っていることに気づいた。
ライアンは、手から、顔から、火が吹き出そうなほど熱を感じた。そして、ナマエの顔に反射するオレンジ色は、夕陽の色だけじゃない。
ナマエがゆっくりライアンの目を見つめる。その瞳は光が反射して、キラキラと輝いていた。
「ハサミを借りに行ったのも、無理矢理トマトスープを渡したのも、全部ライアンと話したかったから。鍋ごと渡したらライアンは返しにきてくれるでしょ? 本当に自分勝手だったのは私。ライアンのこと、何も言えない。だって、私、私が勝手に……」
「好きだ」
遮らないで最後まで聞こうと決めたが、耐えきれなかった。目を潤ませて、必死に気持ちを伝えてくるナマエが愛おしくて、ライアンは強く手を握り返す。
ナマエも応えるように、手に力を入れた。お互いの目線は一時も外れない。
もう雑踏なんか気にならない。そんなのは些細なことだった。
「ナマエが好きだ」
「ライアン……」
「きみがハサミを借りにきたあの日から、僕はきみのことしか考えられない。本当だよ。だから、ナマエがたくさん僕のことを考えてくれてたなんて……嬉しすぎる」
「……私も、同じ。私もライアンが好き」
ナマエは、今までで一番の笑顔を見せた。細めた目の端から涙がこぼれ落ちる。ライアンはそれを指で優しく拭い、そのまま愛おしそうにナマエの輪郭を撫でた。
ワッと、突然周りの音が戻る。ライアンとナマエはびっくりしてあたりを見渡すと、数人のギャラリーができていた。
拍手をするもの、冷やかすように口笛を鳴らすもの、顔を赤らめてこちらの様子を伺うもの、三者三様であった。
夕陽も沈んできた。明るかった空は黒が混じり、ピンクに染まっている。
ナマエの方を伺うと、顔をさらに赤くしていた。言葉が出ないのか、口をぱくぱくさせている。その様子は今まで見たことのない姿だった。新しい一面を見られた嬉しさから、ライアンの胸はぎゅう、と締め付けられる。
「か、かわいい……」
「こ、こんなときになに言うのよ!」
「だって……」
さらに冷やかしの口笛が大きくなる。指笛も加担してきた。ナマエは正気を取り戻したのか、ライアンの手を引っ張りアパートと逆方向へ歩き始めた。
このまま家に帰ると思っていたライアンだったが、そういえばナマエはアパートの方から歩いてきたなと思い、黙って引っ張られていった。
後ろの方から変わらず冷やかしの声が聞こえる。しかし、先ほどよりも遠く、小さくなる。
そろそろいいかな、とナマエは歩くスピードを緩めた。ライアンはすぐナマエの横に並び、同じ歩幅で歩く。手は2人とも繋いだままだ。
「どこ行くの?」
「スーパー。夕飯の買い出しに行こうと思ってたの」
そういえば、お腹が空いていることに気づいた。一度意識すると途端に気になってくる。お腹がぐう、と鳴った。
はあ、とナマエは大きく息を吐き、空を見る。
「ああ、悩みが減ってお腹が空いた! 今日の夕飯は決めてあるの」
「なに?」
「トマトスープ。大きい鶏肉も入れてね。よかったら一緒に食べない?」
いたずらっ子のように笑うナマエに、一言いいねと返す。
あの日食べ損ねたトマトスープに、ライアンはやっとのことでありつけるのだった。
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