「私があなたを見たとき、もうこの世のものではないのかと思いました。雨に打たれ、うつ伏せで倒れたあなたの身体はとても冷たく、あちらこちらに痛々しい傷を負っていたので、仏様だと思って手を合わせようかと思ったほどです。
当たり前のように私の家の前で倒れているので、放っておくのも怖かった。傘を差したまましゃがむと、小さな声で「水」とだけ言うので驚きました。だって息があると思わなかったから。
私は傘を脇に置き、あなたを引きずって家に入れました。さすがにずぶ濡れのあなたを部屋に上げるわけにはいかず、蓑を脱がせた後は玄関先に置いたままにしてしまいました。井戸水を汲み、風呂を沸かしました。その間に、あなたが息を引き取ってしまうのではないかと気が気じゃなかった。
風呂を沸かしている間、私はあなたの頬を両手で包み、しきりに体温を測りました。家に入れただけじゃやはり身体は冷たいし、濡れた服があなたの体温を奪っていく。私は意を決してあなたの服を、上だけ脱がせました。指先に触れた肌は、自分のそれよりずっと冷たかった。私は部屋の奥へ行き、箪笥の中からなるべく暖かい服を選び、あなたに羽織らせました。女物だったけど許してちょうだい。
それでもあなたの体温は十分に暖まらなかった。待っている時間ももどかしくて、小さな鍋でほんの少しお湯を沸かしました。猫の舌でもやけどしないくらい、ぬるいものですけれど。あなたの欲しかった水で、少しでも元気になれば良いと思ったのですよ。
あなたの口元に持っていくと、小さく口元が動いて、喉が上下しました。水を飲む元気はあるのだと安心したのを覚えています。鍋にある白湯をすっかり飲み干すと、あなたは閉じていた瞼を開いて私を見つめました。鍋を持っていた私の腕を、存外力強く掴んで、「おはんは誰じゃ」と一言。掠れた声だった。返事をしようとしたけれど、掴んでいた腕の力が抜け、また瞼を閉じたので、お返事はしませんでした。代わりに、胸の辺りをあやすように叩きました。ゆっくり休んでほしかったのです。きっとあなたがしっかりしているときにやっていたら、小突かれていたでしょうね。
ちょうどお湯も沸いたけれど、あなたは立ち上がる元気もないし、湯釜まで連れて行くのは無謀だなと思いました。今度は大きな鍋にお湯を汲んで、手拭いを濡らし、適度に絞ってあなたの首元から拭きました。自分が寒いとき、温めてほしいところはどこか想像しながら拭きました。首から胸元、腕、お腹、手……少しでも心地よかったなら幸いです。
来客用の布団など当然持ち合わせてはいませんので、何枚か私の服を敷いて、布団のような形にしました。随分と皺になりましたが、あなたの命に比べれば安いものです。
翌日、すっかりもぬけのからになった布団(ではないですが、便宜上そう呼ばせていただきます)を見て、愕然としました。こんぴら狗の方がまだ人間に恩義を感じてくれていると思います。
昨晩の傷だらけのあなたを思い出し、もう人助けはしないと思ったものです。傷だらけの人を助けるなんて、思い返しても正気の沙汰ではない。面倒ごとに巻き込まれそうですしね。
だから、戸を開けてあなたが立っていたとき、悲鳴をあげたことは許してくださいまし。
朝は陽の光を浴びることが私の日課なのです。起き抜けに背の高い、昨晩まで死にかけだった男性が目の前に立っていたのですよ? 平手打ちをしなかっただけまだましというものです。
あなたは私の悲鳴に驚いて、顔を歪ませましたね。怒りだったのか、私の声が不快だったのか知りませんが、その様子は私の心を傷めました。でもあなたはすぐに謝罪の言葉を口にしました。それに免じて許してあげます。
私は気を取り直して、あなたを家の中へ入るよう促しました。少し躊躇したあと、あなたは敷居を跨ぎました。
それが私たちの始まりです。
朝にあなたを見ることはありませんでした。夜遅くに出ていき、陽が落ちたころ、時折私の家を訪ねてくる。それは毎日であったり、長ければ5日ぶりのこともありました。決まった日があったわけではないけれど、あなたの帰りを待つ日々は退屈しませんでした。
あなたの帰りを待つ四度目、私はあなたの名前を知りました。隠したがっているのかと思って聞かなかったけれど、あなたの方から名乗ってくださりました。ぶっきらぼうに「俺は以蔵という」と発したので、こちらも名乗らねば無作法だと思い、「ナマエ」と一言告げました。
「ナマエか、雨の日はありがとう。助かった」。そう言われ、私は初めてあなたからお礼の言葉をもらってないことに気付きました。「いいのですよ、気にしないでください」と言うと、あなたはその言葉を期待していたのか、満足げに微笑みました。
以蔵さんが私の家に出入りするようになってからしばらくして、街中では辻斬りの話題で持ちきりになりました。何やら幕府の役人が斬られていただの、それは喉を突かれていただの、短銃で一発撃たれていただの、物騒なことです。
……実を言うと、私はそれが、以蔵さんがやったことだと知っていました。
謝らなければなりません。あなたが夜中に出て行った日、一度だけ、本当に一度だけあなたの後ろをつけていました。あなたはどこから来てどこから帰ってくるのか、気になって仕方がなかったんですもの。
あの日の愚かな自分を、行動を、これほど後悔したことはありません。
以蔵さんが誰かと言い合ったあと、ばっさりと人を斬るのを見ました。そのあと、刀で喉を突いたのも。
人が血を流し絶命する姿を、生まれて初めて見ました。道で死んでいる浪人を見たことはあります。でも、先ほどまで動いていたものが、命を失う姿は初めてだったのです。その様子はしばらく私の心に翳りをもたらしました。あの日見たことは、一生忘れることはないでしょう。
でも、驚いたでしょう。私があなたを辻斬りだと知っているなんて、微塵もそぶりを見せなかったから。 だってそのことを伝えたら、あなたがどこか遠くに行ってしまいそうだったんですもの。出会ったあの日、水を飲むこともできず倒れていたのですから、人を頼ることができない理由がおありだったと思います。
私は以蔵さんに何も話すことはできませんでしたが、以蔵さんは私にぽつりぽつりと話をしてくださるようになりました。幼いころ大層な苦労をしていたこと、土佐で出会った男のこと、その男を自分の片割れのようだと思っていたこと、師から学んだこと。そして、それら全てを失ったこと。
片割れと思っていた男性の話をするときのあなたは目が輝いていました。私がその人に会ってみたいと感じるほどに。しかし、日を追うごとにあなたの目は輝きを失い、仄暗い色を灯すようになりました。
片割れと呼んだ男と違う道を歩むあなたの話を、私は肯定も否定もせず、ただじっと聞いていました。あなたが顔を歪ませれば膝をさすってやり、胸を抑えれば背中を撫でました。あなたの震える膝もずっと見つめていました。私の手をつたい、苦しさが外へ出ていけばいい。その一心でした。
突然、あなたから力が抜けたのを、手で感じました。膝から目線を外し顔を上げると、あなたの瞳から仄暗い色は消えており、代わりに純粋なゆらめきを感じました。
「おまんともっと早く会いたかったのう」
そう言って、私の頬を指先で撫でてくれました。でも、私は咄嗟に、「ひどい」と口をついて出そうになりました。だってまるで、この先が無いみたいじゃないですか。
私はたまらなくなり、以蔵さんの胸へ頭を預けました。あなたは少し身体をはねさせましたが、私がやったように、そっと背中をさすってくださりました。私はいっぱいの涙をまつ毛に溜め、決して流すことはしませんでした。
朝起きると、あなたはまだ家を出ていませんでした。陽の昇っている時間に、以蔵さんの顔を見るのは初めてでした。帯を締め、居間にどっしりと立っているあなたは、起きた私を見て一言「行ってくる」と。そのようなこと、今まで言われたことがありません。きっと、今日の出先は、私が関することのできない、以蔵さんにとって大切な用事があるのだと思いました。
私は「どちらへ」と返そうと思いましたが、あなたの穏やかな瞳を見ると、昨晩のことが思いだされ、胸が詰まりました。喉に言葉がつっかえ、代わりに「さようですか」とそっけない言葉が出てきました。あなたは眩しそうに目を細めると、ゆっくりと私に近づき、頬に手を添えました。以蔵さんの名前を呼ぼうとすると、あなたはぐいと顔を近づけ、優しく口付けをしました。目を瞑るひまもなく、ゆっくりとあなたの顔が離れていく。そのままするりと背をむけ、「ではな」と挨拶をして、もう私を見ることはありませんでした。
「以蔵さん、待って。どちらへ行かれるのですか」
私があなたへ、言えなかった言葉です。あなたが家を出て行ってすぐ、私は転がるように駆け出し、土間へ向かいました。足の力は抜け、立っているのがやっとでしたが、私はあなたを呼び止める声を持ち合わせてはいません。すぐに追いかけたのに、道に出ると、あなたは影も姿もありません。
どちらへ行かれたのですか。
あれから三度、冬が来ました。以蔵さんが出ていってから、辻斬りの噂は聞きません。最後に私に言った別れの言葉は、再会の返事ができない言葉でしたね。
私は、以蔵さんから何も聞くことができなかった。問いかけるようなことがあれば、あなたは二度と私の前に現れることはないと思い込んでいたのです。でも、その選択も間違いでした。あなたが本当に話したかったことは、昔話でも、私への挨拶でもなかったのでしょう。
私は今でも後悔しています。あなたとの最後を思い出すたび、喉を突かれたように言葉が出てこなくなるのです。」
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