以蔵は霧の中に立っていた。足元を見ると重い空気が漂っており、ひんやりとした濃い霧が膝から下を隠している。長い間そこにいたような気もするし、ここに来るまで一瞬だったような気もする。
地面にひっついた足を持ち上げると、ひどく身体が痛むことに気付いた。あちこち火傷や裂傷を負っている。一体どこで負傷したのか全く覚えていないが、いつまでもここに留まろうとは思えず、悲鳴を上げる身体に鞭打ち、足を引き摺りながら歩き始めた。
しばらくして、闇雲に歩いても無駄だと悟った以蔵は足を止めた。どうしようか思案していると、隣から女の声が聞こえる。
「迷子ですか?」
人の気配などなかったため以蔵はぎくりと肩を震わせた。身体ごと横に向くと、白装束の女が立っている。霧で表情は見えないが、袖からのぞく手の甲が妙齢の女を思わせた。おそらく以蔵と同じくらいだろう。
「もし、迷子ですか?」
「……そうじゃと言うたら」
「道案内して差し上げます」
以蔵の返事を聞く前に、女は歩き出した。おい、と声をかけても振り返らず、霧の中に消えそうだったので、以蔵はその背中を追いかけた。身体は、まだ痛い。足元の重い空気は、不思議と女の歩く道を作るように流れ始めた。
しばらくついて歩くうちに、不思議なことに気付いた。女から足音がしない。裸足なのだろうか、と考え、裸足なのだろうな。と1人納得した。女の着物を思い出したからだ。
そして一つの事実に行きつき、以蔵はあっと声を上げそうになったが、開けた目の前の景色を見て、その言葉を飲み込んだ。
あたりの霧は晴れ、目の前には大きな川が現れた。対岸すら見えず、流れる水さえなければ川なのか海なのかわからないほどだった。
川岸まで行き覗き込むと、魚一匹いない澄んだ水だった。飲めるのかと思い手を伸ばしたところで、女が声をかけてくる。
「その川は飲めませんよ。お身体を清めるためのものです」
「……この川の名は」
「三途の川」
やはり。と以蔵は納得した。
己は、死んだのだ。
「聞いたことがあるでしょう?」
白装束の女は、しゃがんで川原の石を積み始める。よく見ると、女の周りには平たい石ばかり落ちている。積むのにおあつらえ向きの形ばかりだったので、あえて選んで積み上げたのだろう。決して高くない石の塔を見るに、何度も崩壊したことがわかる。
2つ3つ積み上げたところで、女は手を止めて以蔵を見上げた。霧が晴れたから女の顔がよく見える。
「お身体、痛みますか?」
「ああ、痛い」
「今日まで随分と長くかかりましたから、痛みもひとしおでしょう。でも、もうすぐ良くなりますよ」
女は立ち上がり、対岸を指差した。
「あちらへ」
「泳いで行けっちゅうがか?」
「ええ。痛みも取れます」
にわかには信じがたかったが、これが三途の川というなら事実だろう。
以蔵は女の指差す先を見る。どれだけ目を凝らしても、対岸が見えることはなかった。
「おまんも行くがか」
「いいえ、私はここに残ります。それが私の最後の役目です」
「役目?」
女は以蔵の背中を押し、川に入るよう催促した。思わず力を入れ躊躇う以蔵に、女は優しく微笑み、あやすように背中をさすった。
なんとなく、その手つきに覚えがあるような気がした。
「おまん、どこぞで会うたことがあるろうか」
女はぴたりと止まり、それでも微笑みを絶やさず以蔵を見つめ返す。
「……いいえ、初めてお会いしますよ」
女はそのまま以蔵を川に押し込む。ざぶ、と足が浸かり、そこから痛みが溶けていくようだった。女が言ったことは本当だった。
「嘘じゃあないようじゃな」
振り向くと、思ったよりも川岸が遠い。ついさっき女に押されて入ったばかりなのに。
以蔵は柄にもなく恐ろしくなり、足元を見る。くるぶしまでしか浸かっていなかったはずだが、すでに膝の上まで川の水が迫っていた。
焦って顔を上げると、女の影はさらに小さく見えた。身体も足も、女のいる岸へ向かっているのに、もがくほど水の流れに押し負ける。
一歩踏み出すたび、さらに女は遠くなる。
そうしていると霧が出てきたようで、微かな女の影すら隠してしまいそうだった。
霧の向こうで女の髪が靡いている。空気は重いのに、その髪は軽やかに女の顔を隠す。見え隠れする瞳から、涙が見えた気がした。
それを見ると以蔵はたまらなくなった。途端に胸が詰まり、思わず名前も知らない女の名を叫んだ。
「おまんも来い!」
名前なぞ知らない。呼ばなければならないのに、一つも女の名は浮かばなかった。それでも、女の名を叫び続ける。
膝上までだった川の水は、すでに以蔵の首を飲み込んだ。言葉にならない女の名を叫ぶたび、口から水が入る。これ以上は溺れてしまいそうだ。
叫ぶことはできなくなっても、以蔵は必死に女に手を伸ばした。
どうしても女を連れていきたかった。
腕が千切れるのではないか、と思うほど伸ばすが、その腕も波に攫われそうになった。
自由を奪われ、薄れる意識の中で、女の声が響く。
───以蔵さん、どうか、どうかご無事で!
女の声を聞いた途端、以蔵は弾けるようにひとつの名が浮かんだ。それはかつて女の口から聞かされたものだった。
「ナマエ!」
その名前は音にならず、泡となって消えた。水と泡の音が耳元で大きく鳴る。
最後に見たナマエの姿は、すっかり霧の向こうに隠れてしまい、石積の塔と見分けがつかなくなっていた。
聞こえてくるのは、女の声か、それとも耳をつんざく水の流れか。
◆◆◆
ばしゃん。車が目の前を通り過ぎ、タイヤに弾かれた水溜りが以蔵の足元を濡らした。以蔵は驚いて後退りしたが、雨足はさらにひどくなる。
その日以蔵は、古い友人である龍馬と会う約束をしていた。しかし、駅を出た途端、バケツをひっくり返したような雨が降りはじめたのだ。天気予報を見ていなかった以蔵は、傘なんて持っていない。駅で立ち往生するわけにもいかず、かといって傘を買うほど遠い目的地でもないため、結局、走って向かうことにした。
思ったよりも雨足が強く、龍馬と会う前にずぶ濡れになりそうだと踏んだ以蔵は、駅からそう遠くない喫茶店の軒下に逃げ込んだ。軒下から空を覗くと、雨はしばらく止みそうにない。以蔵はスマホを取り出し、龍馬へ遅刻の謝罪メッセージを送った。
スマホをポケットに突っ込み、再び空を見上げる。
「えらい目に遭うたちや」
「まあ!」
1人ごちていると、からん、と音を立てて喫茶店の扉が開く。中から出てきたのは同い年か少し下くらいの女性だった。以蔵がいることに驚いたのか、声をあげて頭のてっぺんから爪の先まで見る。すると、どうやら以蔵が雨に降られたことに気付いたらしく、女性は出てきた扉を大きく開いて手招きした。
「たいへん、入ってください。突然の雨で驚かれたでしょう」
以蔵よりも女性の方が大慌てで、その勢いに以蔵は気圧される。このまま濡れ鼠になるわけにもいかないため、以蔵は中で少しの間休ませてもらうことにした。
「ごめんなさい、大声出して。まさかお客様がいるなんて思わなかったから……」
「いや、こっちこそすまん。勝手に雨宿りさせてもろうちょった」
「気にしないで。どうぞ、かけてください」
以蔵をカウンター席に案内し、メニュー表を置く。「タオル取ってきますね」と、女性は店の裏へ消えた。
ぐるりと店内を見渡すと、木の壁やテーブルが温もりを感じさせる。どれも深い茶色がベースで、落ち着いた内装だった。椅子の数も少なく、店員も先ほどの女性以外見かけない。
以蔵は雨に降られた疲れを払うように、ひとつ深呼吸した。コーヒーでも頼もうとメニュー表を開いたところで、女性が店の奥から戻ってき、タオルを以蔵に差し出した。
「身体、拭いてください」
「なにもかも悪うてすまん」
以蔵が雨水を拭いていると、女性はほっとしたようにぽつりとこぼした。
「でも、ご無事で何よりだわ」
以蔵は思わず手を止め、以蔵は女性の顔を見る。ご無事で、と以蔵は口の中で繰り返した。昔、どこかで聞いたことあるような気がしたからだ。どこだったのか───記憶を探ったが、思い当たることはなかった。以蔵は、喉まで出かかった言葉が出てこないようなもどかしさを覚える。女性は何も気にしていない様子で、以蔵の視線に気付くと不思議そうな顔をした。
「あの、なにか?」
「いや……」
以蔵はバツが悪くなり、女性から目を逸らした。自分でも違和感の正体がわからない。視線を外した先に、女性のネームプレート見えた。それは胸元できらりと光って、以蔵の目を引いた。
「ナマエ、」
思わず口をついて出てしまい、以蔵はしまったと口を手で覆った。それは、ネームプレートの刻まれていた、女性の名前だった。突然名前を呼ぶなんて不躾だったかと女性の顔を見ると、予想に反して戸惑いの表情を浮かべていた。
「……私、あなたと会ったことがあるかしら。なんだかずっと昔、呼んでもらったことがあるような……。変な感じ」
ナマエと呼ばれ、女性は恥ずかしそうに髪をいじった。その様子を見ていると以蔵も恥ずかしくなってきて、顔が熱くなるのを感じた。
外の雨音は少しずつ弱くなり、今は窓を控えめにノックしている。
2人だけの静かな空間で、先に口を開いたのはナマエだった。
「あなた、名前なんていうの?」
きっと、これから何度もここを訪ねることになるだろうなと、以蔵は借りたタオルを握りしめた。
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