覚めない白昼夢
ガチャリ、と鍵が回る音が静かな部屋に響く。
少し間を置いて開いた扉から、大きな男の身体が入って来た。疲れた様子で大きく息を吐き、肩を竦めて関節をポキポキと鳴らす。ナックルシティのジムリーダー、そして宝物庫の番人という二足の草鞋。それを担うにはいくら若く活気のある男といえども徒労感を隠し切れない。一日の終わりとなれば尚の事だ。
しかし、男が部屋の奥に視線を向けた途端、その顔には疲労を一瞬で拭い去る程の柔和な笑みが広がっていく。元より垂れがちな目尻を更に下げ、大振りな犬歯を覗かせて笑う男が向かう先には、ソファにもたれ掛かって座る一人の少女がいた。
「ただいま、ユウリ」
甘く蕩けきった声で少女の名を呼び、足元に跪いて小さな両手を包み込む。さながら姫に従う騎士のような姿勢で少女の手を自分の頬に押し当てると、血の通った肌の温もりが伝わってきた。抵抗するでもなく、かといって自ら男に触れる訳でもない、ただ呆然と前を見据える少女の手に頬を擦り寄せながら男はうっとりと目を細めた。
「ユウリ、"おかえり"は?」
「…………」
「お、か、え、り、だ。ユウリ、言ってみろ」
甘く囁くような指示をすれば、男の耳には少女のか細い言葉が届いた。鈴が転がるような愛らしい声で、彼の帰宅を喜んでいる。嗚呼、なんと愛おしいのだろうか。思わずその手を引いて抱き寄せると、華奢な身体が男の腕の中に飛び込んで来た。
その身を心底愛おしげに抱き上げ、柔らかい唇を味わうような口付けを送りながら二人は寝室へと消えて行った。寂しい思いをさせてしまったのだから、今夜もうんと愛してやらなければ。既に体の中心に熱が溜まっていく感覚に男は一人ほくそ笑み、少女を連れて二人だけの世界に溺れていった。
──────
「だーかーらー。何で俺様にこんな事させんだよ?」
「すまないとは思っているんだ、何分俺も新しい仕事ばかりで手間取っていてなぁ…」
ローズ委員長の引退後、後任となったのは元チャンピオンのダンテだった。新たな役職と初めて取り掛かる仕事の量は残念ながらダンテ一人では到底処理出来るものではなく。弟のホップの手を借りても出来る事は限られている。その為、ジムリーダーとしての報告書を届けに頻繁にやって来るキバナも必然的に手伝いに駆り出されているのだが、毎度毎度ぶつぶつと文句を言う度にダンテが申し訳なさそうに謝る、その図が早くも定番の流れとなりつつあった。
そんな二人のやりとりに、お決まりの反応がもう一つ。彼女は決まって楽しげにくすくす、と笑いながら間に入って来るのだ。
「おー、ユウリ」
「キバナさん、いらっしゃい!来てたんですね」
「いらっしゃいってお前さあ…ダンテの嫁かっての」
そう冗談交じりにからかうと、ほんの一瞬───ユウリとダンテの視線が絡み合い、次の瞬間には磁力が反発し合うように顔を反らす。見ればユウリは耳まで真っ赤に染め上げて、そそくさと別の部屋へと消えて行った。
「…いや、ただの冗談じゃねえか」
思わず呟いた一言に、ダンテがわざとらしい咳払いとただ一言、ああ、と返した。
分かりやすくて嫌になる。二人が互いに想い合っているのは明白だ。ユウリがなぜ暇さえあればここに顔を出しているのか、なぜダンテも彼女が通いに来る事を止めないのか。そんなもの、少し見ているだけですぐに分かった。焦れったい。酷く苛つく。何故ダンテなのか。何故、自分では駄目なのか。ポケモン同士の勝負でも、一人の少女の心を奪う勝負でも、何故かダンテに勝てない。一度も、勝てた試しがない。
悶々とする頭を抱え、書類を放り出してテレビの電源を入れる。少し休憩を挟むか、と問うダンテの声すら今は苛立ちを呼び起こす原因になって仕方ない。無造作に音量を上げてチャンネルを適当に回すと、画面の上中央に緊急速報が出た。
<ワイルドエリア 巨人の帽子付近にてシャンデラが大量発生中 原因の究明を急いでいます 危ないので絶対に立ち入らないでください>
読み終わるとほぼ同時、スマホロトムも同様の緊急速報を受信したようだ。
シャンデラはゴーストタイプのポケモン。通常、巨人の帽子付近の縄張りにはゴーストタイプのポケモンは近付かない。ワイルドエリアの中で生態系が乱れるような何らかの異常が発生しているのかも知れない、と焦りを含んだ声でダンテは呟き、すぐに駆け付けるべく立ち上がった瞬間、別の部屋にいたはずのユウリが既に出発の準備を整えて玄関に向かっていた。
「私が行きます。ダンテさんとキバナさんは何かあったときの為にもここに残ってください」
「だが、ユウリ君…」
「私の手持ちにはサーナイトもいますし、レイギレオンもおます。シャンデラなら水にも弱いはずですから大丈夫。任せてください」
そう告げる少女の顔つきは、いつもの年相応のものとは打って変わって凛とした逞しさが備わっている。ガラル地方の女王に相応しい強さを持って今にも飛び出そうと扉を開けかけた少女の背に、男は声を掛けていた。
「待てユウリ、俺も行く」
「…キバナさん?」
「空飛ぶタクシーを待つより俺のフライゴンで飛んで行く方がよっぽど早い。だろ?」
その身が心配だと告げれば、恐らく一蹴されていただろう。だが、それらしい理由をつければ断る理由を探すのに時間が掛かる。今は特に急いでいるのだ、断る事は無いはずだ。その読みは見事に当たり、二つ返事で了承した少女を追い掛けて早足でその場を離れ、ボールから出したフライゴンに乗って二人はワイルドエリアへと飛び立って行った。
空から見下ろすその現場には、確かにシャンデラが所狭しと大量発生しているのが分かる。他のポケモン達の縄張りも見回してみたが、特に異常があるようには思えなかった。原因不明の大量発生、生態系の異常でないとなると確実なのは手荒になるが片っ端から倒して後々回収に来るしかないだろう。少し離れた場所で地面に降り立ち、極力気配を悟られないようにする為にはギリギリまでポケモンは出さないまま進む方が良い。いざとなればサーナイトやレイギレオンがいるから、と先頭を行く少女の後を追いながら、男はふと静かに口を開いた。
「なあ、ユウリ。シャンデラが厳しく個体数を管理されている理由を知ってるか?」
「はい…シャンデラは強いけど、同時に危険なポケモンです。その炎で人を包んで、魂ごと焼き尽くしてしまう。だから個体数は管理され、特定の分布にしか存在しない…そうですよね?」
「ああ、流石だな。ダンテとの勉強会が役に立ったか」
ダンテの名を口にした途端、微かに跳ねた細い肩。ただその名を聞くだけで、身体が反応してしまうのか。そこまであの男が恋しいか。思わず握り締めた自分の拳がギリ、と鈍い音を立てる。屈み込みながら少しずつ前を進む小さな背中に、更に声を潜めて声を掛けた。
「ただ、一つ間違いがある」
「……間違い?」
「シャンデラは魂を焼き尽くす。でもな、それだけだ。肉体から魂を抜き取って焼き尽くすんだ」
わざわざ訂正する意図が分からないのか、ユウリは怪訝そうな顔をして振り返る。その視線の先には、いつの間にか真後ろまで迫った男の腰元が在った。男はその大きな体躯を屈ませることもなく、ただ静かに立ったまますぐ傍の少女を見下ろしていて。
「昔、こんな事件があった。人形愛好家の男がシャンデラを使って、誘拐してきた女達の魂だけを焼いたんだとよ。残るのは温かくて柔らかい、血の通った肉の人形。魂が無くても人間は死なねえ。ただ空っぽの器が残るだけだ。男は逮捕されるまで、魂の抜け殻と暮らしていた。自分の思うままになる理想の人形の作り方。それに必要不可欠なのが、あのポケモン。シャンデラだ」
抑揚のない声で語られるおぞましい事件の内容に、少女の身体が次第に震え始めていた。それが実際にあった事件なのか、作り話なのかは分からない。ただ一つだけ、目の前に佇む男の思惑を理解したその目が段々と見開かれ、抗えない恐怖で込み上げて来る涙に濡れていくのとは対照的に、彼の目からは光が失われていく。
蛇に睨まれた蛙。まさにその状態のユウリの両腕を掴み、男の腕力で軽々と持ち上げれば簡単に身体は地面から離れた。
「、ひ…っ…きば、な、さ…っ…やめ…っ…」
「心はダンテのもので良い。どうせ燃えちまうからな」
ふわり、と宙を舞うのは、少女。
力一杯投げ飛ばされ、男に救いの手を伸ばしながらシャンデラの群れの中へと落ちて行く様は、まるでスローモーションのように男の視界に焼き付いていた。新鮮な魂の香りを嗅ぎ付けたのか、シャンデラ達はある一点に群がって狂ったように鳴き声を上げている。どの個体が彼女の魂を喰らうのだろうか。
しばらくすると騒めきが収まり、群れが再び周囲に散らばり始めると男は自分のボールからフライゴンを出し、静かな声で命令を下した。
「焼き払え。欠片も残すな」
フライゴンは男に忠実だった。口から紅蓮の炎を吐き出して、シャンデラ達を燃やし尽くしていく。響き渡る絶叫と燃え盛る炎の壁の中、男の為に残された道をゆっくりと歩いて行けばそこには静かに横たわるユウリの抜け殻が横たわっていた。そっと抱き上げ、左胸に耳を寄せると規則的な鼓動が聞こえる。生きている。肉の人形として、生きている。顔を覗き込めば、光を失ったその瞳に映るのは酷く優しげな男だけだ。
「やっと、やっと手に入れた、俺だけのユウリ───」
きつく抱き締めたその身体は柔らかく、温かい。かつて事件を起こした男も、同じ高揚と幸福を感じていたのだろうか。
知らず、はは、と笑い声が漏れた。それを皮切りに笑いは込み上げ続け、炎が燃え盛る音とシャンデラの叫びが混ざり合う地獄の底のような一帯に、獣の咆哮にも似た雄叫びが響き渡っていた。
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ワイルドエリアのシャンデラ大量発生事態は収束を迎えた。
被害は巨人の帽子近辺の草原と、ガラル地方の新しいチャンピオンの命。鍛え上げたポケモンを連れて乗り込んだが想定以上の数に苦戦を強いられた結果、隙を突かれて魂を奪われたチャンピオンの亡骸は火災に巻き込まれ、見るも無残に焼かれてしまった。
表向きではそうなっている。空席となったチャンピオンの座はダンテが現理事長となっている事もあり、繰り上げ式にキバナが推薦されていたが、彼は迷う事なく断った。今の彼にとって、最早チャンピオンの座など取るに足らないものなのだ。
「…兄貴、ユウリの様子は…?」
「…分からない」
そのたった一言に、ダンテの苦悩が詰まっていた。
キバナが少女の身体を抱きかかえ、戻ってきた瞬間は今もまだ脳裏に焼き付いている。彼は終始俯いたまま肩を小刻みに震わせ、ユウリを決して離そうしなかった。彼女の肌は何時間経とうと健康的な白さを失わず、脈を測っても確かに生きている。けれど決して意識が戻ることはないのだ、もう二度と。
暖かい身体に縋り付くように掻き抱くキバナの姿は本来の長身が嘘のように小さく見えて、小刻みに肩を震わせる彼がユウリの抜け殻を連れて帰ると告げた時には了承する他なかったのだ。時間を掛けて心の整理がつけば、事情を知っている弟とキバナと三人だけで荼毘に伏せてやろう。そう決めたものの、彼がユウリを手放す気配は一向に無かった。
弟は必ず「ユウリの"様子"は?」と聞いてくる。まるでいつか奇跡が起こり、彼女の魂が戻ってくると信じているかのようだ。それが一層のことダンテの心を苦しめて止まない。
キバナはといえば、一見すれば既に以前と変わらない。いや、変わらな過ぎるのだ。まるで何事もなかったかのように、ユウリが生きているかのように。彼女と交わした会話を語り、家で二人で撮った写真を見せてくる。
その抜け殻はもうユウリではないのだと、解放してやって欲しいのだ、と説得する為に家に押し掛けた回数も一度や二度ではない。しかしその度に彼女が生きているかのように語られる有り得ない話の数々に、自分の精神の方がやられてしまいそうだった。
「彼奴は…キバナは、もう───覚めない白昼夢の中に居るのかも知れないな」
ホップは既に居なくなっていた。独り言ちるダンテの心には、寧ろそうであって欲しい、と願う気持ちが渦巻いている。彼女の魂の死。それがキバナの心に癒えない傷を付け、本人すら気付かない内に狂気の白昼夢に囚われてしまったのだ。そうだ、そうに決まっている。
考えるな。全てがあの男の手によって仕組まれていた可能性など。考えるな、考えるな、考えるな。
ならば何故、今も胸につかえて無くならないのだろうか。
彼女を抱きかかえたあの男が、肩を震わせていたのは。笑っていたからなのではないか、と疑ってしまうこの感情は。