序章
私は今日、お見合いために実家に帰って来ている。
このご時世にお見合いなんてくだらない。内心ではそう思っている。20代にして今まで浮いた話の一つもない、思春期の頃から同年代の女の子達のように色恋沙汰に頭を煩わせることもなかったとなれば親が心配するのもまあ仕方のないことなのかも知れないけれど。
そもそも、私に結婚願望は全くない。それ以前に男の人と恋愛をする気がないのだ。今は、という期間限定のものではなく、生涯。
それでもこうして帰って来たのは、大好きなお婆ちゃんの為。随分と前にお爺ちゃんに先立たれてからもお婆ちゃんは気丈に振る舞ってきたけれど、去年の冬に病気で倒れてからは見る間に衰弱してきて今はほぼ寝たきり状態だ。
そんな彼女のたっての願いで「孫娘の花嫁姿を見てみたい」と言われれば、素直に叶えてあげたいと思うのが孫の心理というもので。
幸いにも、お婆ちゃんの願い事は"花嫁姿が見たい"なので、それくらいならばいくらでも叶えようがあるというもの。別に本当に結婚する必要はない、相手の男性と交渉してウエディングドレス姿の写真撮影だけ協力してもらうとか…まあ、そんな感じで誤魔化せば良いのだ。相手の了承を得られるかはまた別として。
そんな具合で考えを巡らせながらリビングのソファーでくつろいでいると、母が二人分のコーヒーを乗せたお盆と一冊の冊子を手にして私の隣にやってきた。
さりげなく、でも確実に私の視界に入るように置かれた冊子には敢えて触れずにのんびりとコーヒーを飲みながら「元気にやってるの?」「うん」「仕事は順調?」「ぼちぼちかな」なんて他愛もない話を続けていると、いつまでも私が興味を示さないことに痺れを切らしたのか、母が自ら冊子を開いて私に寄越してきた。
「…何それ」
「お見合い相手の男性の写真よ」
「いらない、興味ないから」
やっぱり思った通りだった、だから意識的に冊子を無視したのに。顔を背けてはっきりと拒絶の意思を示す私に母はわざとらしく大きな溜め息を吐いて、失望したとばかりに冊子を閉じて私の膝の上に投げる。私はそれをできる限り触らないように親指と人差し指の間で摘み上げ、ソファーの下に落としてからほっと一息吐いた。
何だか汚された気分。顔も名前も知らない相手から受けた汚れを落とすように、私はお気に入りの櫛を取り出して髪を梳かし始めた。
「その櫛、まだ持っていたのね」
「あ、うん。だってお婆ちゃんがくれたものだし」
子供の頃からずっと使い込んでいる櫛。頻繁に手入れをしているからかも知れないが丈夫で一度も壊れていない上に、これで髪を梳くとどんなに気分が落ち込んでいても元気が湧いてくるのだ。
いつも肌身離さず持ち歩いているそれを丁寧にポケットにしまい込むと、怪訝な顔をして私を見ている母に気付いた。
「それ、お婆ちゃんからのプレゼントじゃないわよ。確か名前がお祭りで巫女舞を踊った時に記念に頂いたものじゃなかった?」
そう語る母の言葉をきっかけに、私の頭の中で遠い記憶が一気に再生を始める。
どうして今まで忘れていたのだろう。そうだ、私はあの時にこの櫛を受け取ったのだ。6歳当時、今は亡き母方の祖父母が住む田舎の祭りで神楽を踊った。その地域で一番大きな神社で、夏休みということもあり日夜練習に励んでいて、本番の前後は特別におやしろの中に入れてもらえた事も覚えている。そしてそこで邂逅した、不思議な男の人達。
次々と溢れ出してくる記憶に圧倒されて、私の思考は停止する。母の声が遠く聞こえて、かろうじて理解できた「どうしたの?」という問い掛けに「少し疲れたから、部屋で休んでる」と告げて私は席を立った。
飲みかけのコーヒーを片手に懐かしい部屋に踏み入れると、一瞬で子供の頃に返った気分になる。高校卒業と共に実家を出るまで暮らしていたその部屋は、今思うとかなり子供っぽさが残っている。年相応の物は学校の教科書や制服だけで、壁には幼い頃に落書きした画用紙達が未だに貼り付けられたままだ。
何となくその絵達に視線を巡らしていると、一枚の落書きの前で目が止まった。赤いクレヨンで真ん中に大きく書かれた鳥居、それを背にして立つ濃紺の狩衣を着た男性。その顔には鼻も口もなく、ただ双眸の代わりに二つの三日月模様が浮かんでいた。
知っている。私は、彼を知っている。
知らず知らずの内に伸ばしていた指先がその画用紙に触れた瞬間、私の目に映ったのは一瞬の闇。そして、私は意識を手放していた───