始まりの音なき合図春時雨

どこか他人事というか、わたしには驚くほどの衝撃があまりなかったというのが正しいと思う。目の前の教師かどうかすら怪しい黒づくめの男が発した一言で、周囲は顔面蒼白になったり、怒ったり、泣きそうになったり。そんな阿鼻叫喚なこの光景の中で、わたし一人だけが空を見つめて「このあと夕方辺りにひと雨くるなぁ」なんてことを考えていたのだ。

今から10分ほど前、教室に集まっていたわたしたちの前にこの男が現れた。男はわたしたちの担任教諭になる「相澤消太」と名乗ると、体操着に着替えてグラウンドに集まるようにと指示を出し、渋々集まったわたしたちに向けて「個性把握テスト」という「個性を使った体力テスト」を行うと言った。それだけならまだしも、テスト内容の概要を知ってテンションの上がった誰かが「面白そう」と軽率な発言をしたおかげで相澤先生の逆鱗に触れ、テスト最下位のものは「除籍処分」にするとのこと。苦楽を乗り越えてようやく入学できた雄英高校ヒーロー科を入学初日で去るなんてことになれば親に顔向けできないだろう。みんなが絶望的な顔をするのも理解はできる。

ただ、わたしにしてみたらぶっちゃけた話、最下位で除籍だろうとそれ以外で残留だろうと、割とどうでも良かったのだ。


「冷静なんですのね」


50m走を一生懸命に走っているまだ名前すら憶えていないクラスメイトを見つめていると、横からポニーテールの女の子に話しかけられる。その子は「八百万百やおよろずももです」と名乗り、みんなまだオロオロとしてる生徒が多い中でわたしがやけに澄ました顔をしているのが気になって声を掛けてきたのだという。

「…そう?驚いてないだけだよ」
「じゃあやはり、あなたも除籍の話はウソだとお思いで?」
「うーん、さあ…嘘でも本当でもどっちでもいいっていうか…」
「…?では、最下位にならない自信がおありということかしら」
「と言われると、そうでもないような……」

曖昧な表現で返答するわたしに八百万さんは首を傾げる。そうこうしている間にもどんどん走者の記録は済んでいき、とうとうわたしの番になってしまった。「つぎ、苗字」と相澤先生の呼びかけにより、わたしはトラックのスタート地点に立ち、ピッ、という笛の音を合図にコースを走る。


「6秒49」


運動神経はそこまで悪くもないから、全国的な女子の記録の平均から考えると割と足は速い方だと思う。けれど、いま行われているのは”個性を使った”体力テスト。他の人たちは個性を駆使しながら続々と3〜5秒台の記録を出し続けているから、わたしの出したこんな平均的な記録はあってもなくても大して変わらないだろう。現に、50m走を終えてわたしの順位は暫定で18位。最下位に近い状態で、いつ「除籍」を言い渡されてもおかしくない。

では何故ここまで冷静でいられるのか。
それは順位や記録、今後の進退にあまり興味がないからというのが一番の理由だと思う。

ただ勘違いしないで欲しいのは、どうでもいいと思っているわけでも、ヒーローになりたくないわけでもないということ。むしろその逆で、幼い頃からヒーローを志し、時間をかけてたくさんのことを準備してきた。わたしは「ヒーローになるべくして生きてきた」し、これからだってそうだ。「ヒーローになり、より沢山の人々を救いたい」そういう気持ちの面ではここに居る誰にも負けない自信がある。

とはいえ、わたしの個性は”体力面”や”身体能力”に特化していない。だからこのテストがヒーローとしての素質を図るべく行われているのであれば、わたしの素質は0ということになる。こんなテスト如きでわたし自身や、わたしをヒーローにするべく育ててくれた”師匠”の力量を図られるなんて馬鹿馬鹿しいと思っているのだ。

どんな記録だろうが、結果だろうが、わたしがヒーローに相応しいことを証明すればいいだけのこと。しかし、これで本当に最下位になってしまって除籍とされるのであれば、それはそれで仕方がないと割り切らなくてはいけない。きっとこの学校の方針にわたしが合わなかっただけなのだろう。そもそもわたしの目標は「雄英で学ぶ」ことではなく「ヒーローになること」なのだから、別に雄英じゃなくたっていいのだ。もしも除籍にされてしまったら他に移ればいいだけだ。

そんなこんなで周りの子よりも落ち着いて競技に臨めたと思ったが、その後の握力、立ち幅跳び、反復横跳びなど、最下位になってもおかしくない記録ばかりを取り続けているわたしは、周囲の視線も先生からの圧も全てを一身に受けている。もう一人の平均的な記録を作っている緑髪の地味目の男の子とわたしで最下位争いをしている状況だ。

「つぎ、苗字」
「はい」

緑髪くんがなんだかとんでもない威力の個性を使い、705.3mというボール投げ競技ではトップ争いもしかねない記録を残したおかげで、現在わたしが繰り下げ最下位。名前を呼ばれ、こぶし大の特殊なボールを相澤先生から受け取り円の中へ移動する。

どっちでもいいとは言ったものの、別に本気を出していないわけではなかった。ただわたしの個性はこのテストにそぐわないから使用していないだけで、力を温存している訳でも適当にこなしている訳でもない。でも多分、周りはわたしを「やる気のない奴」と思っているのだろう。視線やわたしがボールを投げるまで待っているときの態度がそう物語っていた。

そうなってくると話は変わる。
わたしの夢に対する情熱も、やる気も、根気も。どこの誰であろうと軽くみられるのは御免だった。このテストで最下位を取ろうが、わたし自身の力量を推し量ることは出来ない。けれど、指針になってしまうのは事実だった。きっとこのままわたしが最下位をとり除籍されたら「大したことないやつ」「何で入学できたんだ」「この先もヒーローになることはないな」そんな風に見られるのだろう。今までヒーローになるために生きてきた人生の大多数を否定されるのだろう。

ぎゅうっとボールを握りしめ、思いっきり振りかぶる。全神経を右腕に集中させ指先に至るまで意識する。離れようとするボールを最後の最後まで押し出すように投げると、ボールは空を裂き弧を描くように上空を飛んで行った。


「314.7m」


こんなことで過小評価されるなんて、そんなのまっぴら御免だ。

持ちうる限りの精一杯の力でボールを投げ飛ばすと、端末の表記が良記録を映し出す。まさかここまで伸びるとは思わなかったが、これで少しはこの呆けた顔で見ていたクラスメイトやつまらなさそうな顔をしている教師を見返せただろうか。そう思い相澤先生の顔を見る。

すると、驚いた顔をしているだろうと予想してわたしが思い描いていた表情とはまるで違い、相澤先生は眉を寄せ、不快感を露わにしていた。そればかりか荒めに足音を立ててわたしに詰め寄る様子を見ていると、相当怒っているように見える。一体何が気に入らなかったのか、なぜ怒っているのか。何もわからずにさっきボーっと空を見上げていた時と同じような顔ですぐそばにある相澤先生の顔を見上げた。


「おい、なぜ肩を脱臼するほどの力で投げた」


グイっと先生が持ち上げたわたしの右腕はぷらりと力なく垂れさがっていた。相澤先生の言う通り、肩が抜けている。周囲で一部始終を見ていたクラスメイトは「痛そう」と軽く悲鳴を上げている。

何故って、なぜ?このテストに合格するためには最下位を取ってはいけないと言ったのは先生じゃないか。わたしだって、どっちでもいいとは言ってはみたが、出来ることなら除籍にはなりたくないのだ。最下位にならないためには、リスクのある個性を使って好記録を絞り出した緑髪くん同様、わたしも怪我をしてでも好記録を出す必要があった。なぜ、そんなに怒られるんだ。


「このあと動けなきゃ何の意味もないんだぞ」


あぁ、なるほど。
さっき緑髪くんもリスクのある個性を使おうとして同じように怒られていた。「一人を救けてあとは木偶の坊」なら「お前の力じゃヒーローになれない」と。確かにたくさんの命を救わなければならないヒーローが、一人助けてあとは要救助者と同じように倒れてしまっては本末転倒だ。そんなヒーローに助けられちゃ、助けられる側が迷惑というもの。

しかし、逆を返せば「倒れなければいい」とも受け取れる。
木偶の坊にも、使えないヒーローにもならなければいいだけのこと。

険しい顔でわたしの答えを待っている相澤先生にわたしは「大丈夫です」と言いながら、引き剥がすように先生のその手を突き返した。周囲からの視線を受けながら脱臼したほうの右肩をそのままグッと上に押し上げる。


「肩は入れ直し慣れてるので」


ゴリッ、
小気味よいほどいい音を鳴らしながら元の位置に戻った右肩。再び聞こえる静かな悲鳴。動きもスムーズだし特に問題なさそうだ。別に肩なんて、いくら外れようが動けなくなることはない。それを証明するためにもう一度右腕でボールを持つとそのまま振りかぶって投げ飛ばした。

「298.2m」

ほらね。そう伝えるかの如く、地面に転がっているボールに指を差して相澤先生の顔を見て主張する。一回動いて木偶の坊にもならず、2回目もパフォーマンスを落とさずに投げられた。まだもう一回投げろと言われれば投げられる。これで相澤先生が懸念していた問題は解決しただろう。そう思っていると、相澤先生は相変わらず眉間に皺を寄せていたけれど、次第にハァ…とため息をつきながら「全くどいつもこいつも…」と頭を抱えて呟く。


「……まぁいい、次の競技やるから移動しろ」


表情を見る限り少し投げやりな感じは否めないが、どうやらお咎めは無しらしい。とりあえず途中で除籍宣告などはせず、最後まで競技をやらせてくれる様子を見て一安心しながら移動する人たちに紛れ込むと、若干周りにスペースが出来ていて避けられている気がしてならない。「怖がらせちゃったかな」と申し訳ない気持ちもするが、まぁ仕方のないことだ。さっき話しかけて来てくれた八百万さんだけ「肩は大丈夫ですの?」と声を掛けて来てくれたので「Plus Ultraさらに向こうへ」と返しておいた。