アメと紅茶と答案用紙

ユキさんリクエスト



窓の外からは、水滴が地面をたたく音がしていた。
この街が梅雨に入ってから、もう三日も雨が降り続けている。
季節柄仕方がないとはいえど、私は雨はあまり好きではなかった。
出かけにくいし、濡れるし、髪の毛うねるし。
ただ何となく、気持ちが落ち込んでしまう。

憂鬱だ。その一言に尽きる。
はあ、と重苦しいため息が、思わず私の口から洩れた。

「まるでこの世の終わりとでも言いたげなため息だねェ」
「んえっ!?」

突然聞こえてきた声に、私の声は変なところから出た。
振り向けば、いつの間にやってきたのか、キュウビが私の机を陣取っている。いや、今の姿はキュウビではない。理科の先生だ。
茶色い髪の毛を後ろでくくり、赤い眼鏡をかけたヒトガタの姿。ただその視線は私ではなく、机の上で広げた紙ーー答案用紙?に向ていたが。

「あの、キュウビ?何してるのっていうか何でここにいるの?」
「ん?何でだろうねェ」

シュッシュッと音を立てながら、赤ペンで丸、バツとつけていく。「キミこそ、何でそんなにため息をしているんだい?」って、私の質問に答えてないし!

「いや、あのね。ここ私の部屋なんですが…」
「知っているよ。ここがボクの部屋に見えるとでも?」
「いやいや、私キュウビの家なんて知らないから!そうじゃなくて、何でここにいて何やってるのかって聞いてるんだけど!?」
「見てわからないかい?答案の丸付け。先生であるボクは明日生徒に返さなければならない」

イライラするとお肌によくないよ、なんてこちらを見ずにキュウビが言う。自分の家ですればいいものを、なぜ私の部屋にわざわざやってきてする必要があるのかを聞きたかったのに、のらりくらりと躱されてしまった。

けれど、これはいつものことだ。
キュウビはいつも神出鬼没で、きまぐれな妖怪だから。

きっと今日だって、私の部屋を選んだ理由は、特にないのだろう。
もしかしたら、答案の丸付けをするのにただ都合がよかったから、私の部屋に来たのかもしれない。
シュッシュッとペンの踊る音が聞こえる中、私は彼を問いただすのをあきらめて、再び窓の外へと目を向けた。
私たちの間に会話はない。静かに、お互いがお互いの時間を過ごしている。

でも、この天気がそうさせるのか。
私の気持ちは晴れないまま。重苦しくて、憂鬱だ。

「…珍しいねェ。七海のそんな不機嫌な顔、見たことがない」

先に話しかけてきたのはキュウビだった。
手は動かしたままだったが、私のことを気にしてくれるなんて珍しい。

「そう、かな」
「キミはボクがみている限り、いつもにこやかだからねェ」

そう思われているだなんて意外だった。
キュウビは私のことを気に入ってくれているようではあったけれど、それはただ私の「匂い」に興味があるからだろうと思っていたからだ。
それに私はキュウビが少し怖いから、彼と会っているときの私はそこまでにこやかではないと思うのだけど。

「珍しい表情を見ることができて、ラッキーだ」
「ええ??」

ラッキーって。そんなもの見れて何がいいのだろう。

私だって、人間だ。
人並みに不機嫌になるし、憂鬱にもなる。ずっと長く生きているキュウビにはわからないかもしれないけれど、私はちっぽけな人間だから、わけもなく不機嫌になって、感情のふり幅に左右されてしまうことだってあるのだ。そしてキュウビの前ではたまたま不機嫌になることもなかっただけのことなのに。

ペンの音が止まって、ようやくキュウビはこちらを向いた。
頬杖をついて、目を細めて笑う。

「人の子がくだらないことで悩んでいる姿は面白い。キミたちの生きている時間は短いのだから、楽しいことだけしていればいいのにと思う」
「くだらないって…」
「雨が降っていようが、なかろうが。ボクにとっては取るに足らないことだ」
「まあ、そうかもしれないけど…」
「ボクにはわからないから、興味がある。いろいろな感情に流され、右往左往しているキミたち人間は、見ているだけで面白いのさ」

それは褒められているのだろうか。
キュウビの言っていることは難しくて、いまいちピンとこなかった。

「フフフ。キミのその「意味がわかりません」って顔。いいねェ」
「はあ…」
「キミは、」

そこで言葉を切ると、キュウビは立ち上がった。あっという間に私との距離をつめてしまう。はっとした瞬間には、彼の手が私の首にかかっていた。

「きゅ、きゅうび」
「このまま締め上げたら死ぬんだよね」

細められた瞳が私を見下ろしてくる。少しでも力を入れられたら、私は呼吸困難となるだろう。そんなこと、わかりきっているのに、キュウビは確かめるように私の首をやわやわと触った。

「こんなに脆くて小さいのに、どうしてだろうねェ」
「な、何が」
「ボクはキミが、気になって仕方ない。本当、」

ムカつくほどにね。

彼の意図が読めなかった。目の前のキュウビが怖くて、私の口からはひゅうひゅうした息が漏れる。助けを求めたくても、首に手がかかっているせいなのか、うまく声が出せなかった。

「その怯えた顔も、雨に愁う顔も、いつもの顔も、見ていて飽きない」
「っ、」
「特にその怯えた表情は堪らないねェ」
「あ、の」
「何がボクをそうさせるのかな?七海、キミにはなぜだかわかるかい?」

わかるわけないし、わかりたくもない。ここにきて恐怖よりも、この理不尽な状況に苛立ちが増して、私は初めて彼を睨んだ。「おや、初めて睨まれたな」キュウビには屁でもなかったようだけど。

キュウビの手が、私の首から離れた。本当に絞められていたわけではないのに、息苦しくて、大きく酸素を吸い込む。「キュウビ…!」文句のひとつこそ言ってやろうと思ったのに、再びキュウビが私の首に手を寄せるから、思わず体が固まってしまった。ただ今度は指先で、私の鎖骨あたりを撫でるだけだった。

さわさわと撫でられて鳥肌がたつ。
さっきからこの狐は一体何がしたいの。

「キミに問題を出そう」
「…問題?」
「そう。『ボクはキミに何を望むか』」

そんなのわかるわけないでしょ!
私の歪んだ顔を見て、目を細めてキュウビが笑う。

「よく考えてごらん。今までのボクの台詞を思い出すといい」
「そ、そんなこと言われても」
「そうだなあ。ヒントをあげよう。とりあえず今は喉が乾いたかな」
「…紅茶でも飲む?」
「それはいいねェ」

よろしく頼むよ、と言ってキュウビは私からようやく離れた。ドッドッと心臓が私の胸を内側から叩く。浅い呼吸を止めたくて大きく息を吸って吐き出した。

「じゃあ今持ってくるから…」
「ああ。よろしく。…………でも、七海」

とりあえずキュウビから距離を取れると思ったのに。すぐに声がかかった。ドアノブに手を触れたまま振り返る。
キュウビは再び私の机を陣取っていて、頬杖をついていた。

「さっきの問題、紅茶が答えではないからね」

三日月の形をした瞳が、ぎらりと光る。じゃあどうしらいいのと出かかった台詞を飲み込んで、私は彼に背を向けた。

「キミの『答え』を楽しみにしているよ」

それはまるで本当に、教師から出された問題のようだったけれど、私は何も考えないことにした。キュウビの言うことはいつも難しくてわからない。ただ今は、目の前にいる彼を満足させなければならないという使命感だけだ。憂鬱さと相まって、頭の中はぐしゃぐしゃしている。

「わかるわけない」

私はキュウビじゃないもの。
心の中でそう呟いて、私は階下へと降りていった。

「いつになったら気付いてくれるんだろうねェ」

そして彼の呟きも、私の耳には届かなかった。

窓の外では相変わらず、雨の音がしていた。