01.赤と黒の〜より ーすれ違いー

 その日、杯戸中央病院は混乱状態に陥っていた。ファミレスでは食中毒、最寄駅では異臭騒ぎ、映画館では火災と三つの騒ぎが同時に発生し、各現場から徒歩圏内に位置するこの病院には多くの怪我人や病人が押し寄せている。

 これも全て、“奴ら”の仕業だ。赤井は時限爆弾の処理をジョディとキャメルに任せ、組織の真の狙いを探るため江戸川コナンと共に病院内へ戻り、周囲を見渡していた。不審人物がいないか、この混乱に乗じて妙な動きがないか。些細な違和感を見逃さぬようにと意識を集中させていると、治療を求め声を荒げる人々に混じり宅配業者達が複数名、立ち往生しているのが目に付く。確認してみると、送り主は“あの”楠田陸道。ならば、他の荷物も……。

“名前……?”

 そうして周囲に目を向けた彼の視界に、見覚えのある背中がちらりと映る。それは一瞬にして思考が停止してしまう程に、予想外の出来事だった。

 人がひしめき合う中で、視界は時折遮られてしまうがしかし、長椅子に一人腰掛けるその華奢な背中はどう考えても“彼女”にしか見えない。そこに居る筈のない、いや、居てはならないはずの、大切な大切な。

「ねぇ、赤井さん」

 コナンが赤井を呼びかける。しかし、彼の耳には届いていない。どくどくと波打つように心臓の鼓動が早まっていく。杯戸町は彼女、一ノ瀬名前が住むエリアだ。さらに彼女が座る長椅子の横には、“火災被害者”と手書きの文字で簡易的に書かれた紙が張られていることから、映画好きの彼女が偶然その現場に居合わせてしまったのだろうということが推測できる。

「……っ」

 気づけば足が一歩、彼女の方へ向いていた。やはりあの背中は名前としか思えない。この状況の中、取り乱す様子もなくただ静かに、自分の番が来るのを待っている姿が何よりの証拠に思えた。一刻を争う状態ではないのだろうが、怪我などしてくれていないだろうか、まさか奴らとの接触は……。

「……っ!」

 すると何かを感じ取ったのか、名前が後ろを振り返った。彼女の瞳は朧げに遠くを映しては、赤井を見てピタリと動きを止める。目を見開き、小さく息を吸うように口を開けていた。

 彼女も信じられない思いでいるのだろう。しかし驚きに固まっていた表情はやがて、安堵と共に綻んでいく。やっと会えたと、その瞳が訴えている。しかし彼女の口が赤井の名を呼ぼうと動くのを見て、彼は思わず視線に強い想いを込めた。

“よせ……っ”

 二人の繋がりをここに残してはならない。決して、名前と接触する訳にはいかないのだ。

 歯を食いしばるように名前を見つめると、彼女は何かを察したのだろう。声を上げるの堪え、代わりに唾を飲み込んでいた。本来ならばここで、赤井自ら目を背けるべきなのだろうが、そんな事出来やしなかった。愛しい、最愛の恋人である名前を前にして、それも事件に巻き込まれ不安で堪らないであろう筈の彼女を前にして、他人の振りなどしてやれるはずがない。

「……っ」

 一体、どれくらいの時間そうしていただろう。実際には数秒の出来事だったのだろうが、永遠に感じられるほど長く思えた。その間に、先に動いたのは名前だった。

 彼女なりに、必死に考えた結果だったのだろう。怪我人で溢れかえっている病院。そこにFBI捜査官である恋人がいる理由。そして不特定多数の人が周りにいるこの状況で行動すべきことは。

“名前……っ!”

 彼女は瞳を揺らしながらも、口元に笑みを浮かべ、そして頷いて見せる。まるで私は大丈夫だと伝えるかのように、無理に笑みを作っていた。

「……赤井さん?」

 名前が静かに、前を向いて座るまでを見届けながら、赤井はようやく視線をコナンへと向けることが出来ていた。

 彼女が今も不安な思いを抱えているのは明らか。幸い、大きな怪我などは無さそうであったが、しかし心の傷は計り知れないだろう。火災現場で一人、恐怖に震えていたであろう名前のことを思うと今すぐにでも駆け寄りたかった。

「いや……」

 しかし彼女はこちらの状況を察して、他人のふりを自ら決め込んだ。いや、そうさせたというのが正しいだろう。水無怜奈奪還計画がまさに動いている今、無防備に彼女と接触する訳にはどうしたっていかなかった。判断を見誤れば、彼女を道連れにしてしまうことになる。

「行こう、ボウヤ」

 こうする他に道はなかった。赤井は強い意志の籠った声で、自らの意識を切り替えていく。名前に背を向け、荷物が届けられたであろう病室へと急いだ。名前が彼の背中を、もう一度だけと目で追っていたことなど知る由もなかった。