02.赤と黒の〜より ーバーボンー

 計画通り、水無怜奈を組織に送り込むことができた日の夜。赤井は杯戸中央病院の屋上で一人、名前を想っていた。無理に笑って頷いてみせた表情ばかりが頭にこびりついたまま、幸せそうに笑う彼女を思い出せないでいるのだけが心残りだ。

 本来は昨夜、名前に雲隠れすることになると伝えるつもりだった。しばらく会えなくなると、それを伝えても待っていてくれるという確信があってこそであり何より、今まで二人の関係は組織にも周りの人間にもばれないよう徹底的に隠し抜いてきたのだから問題はない。このまま隠し通してみせると、その決意を持ってのことだった。しかし繋がると思っていた電話はタイミングが悪かったのか繋がらず、打ち明けられないまま今日を迎えた。今では、それで良かったと心から思っている。

 結局はこうなる。どうしたって肝心な時に、側にいてやれない。あんな顔をさせているのは自分なのだと、その事実を突き付けられ目が覚めるようだった。

“もう、これを機に彼女を手放してやれ”

 それが最善だと思えてならない。彼女を愛しているのならば、全てが終わるまで姿を見せてやるなと。

「……っ」

 スマホを開くと、画面には名前からの着信と留守電の表示が数件。

“赤井さん!ごめんね、昨日お風呂に入っていたみたいで、そのまま寝ちゃって”
“赤井さん?私、今日……映画を、観に行っていて”
“ごめんね、何度も。でも声、聴きたくて”

 名前の声は、時間を追うごとに切実さが増していた。今すぐ掛け直したいと、留守電を聞く間、何度思ったか分からない。しかし一度許せば、彼女を縛りつける言葉の一つや二つ、簡単に出てきてしまいそうだった。声が聴きたいと、その望みを叶えてやることもなく勝手な結論に至ったと知ったら、彼女はなんと言うだろう。

 彼はスマホに残る彼女の履歴、全てを消し去り、彼女への想いも同時に心の奥底へと静かに沈めていく。

 どうか、笑顔で。まして、いつ帰れるか分からない男の後など追ってくれるなと願いながら。そして今後、彼女にとって心許せる人物が現れたとしたら、彼女をそばで支えられる人物が現れたのなら、名前の幸せを一番に考えてやれと心に決めて。

 もう、迷いはなかった。



 映画館火災があった日から、もう数日が経っていた。私は今朝も、起きたら真っ先にスマホに手を伸ばしたけれど、赤井さんからの連絡はやはり無い。小さなため息ばかりが口から漏れていく。随分と、彼の温度に触れていなかったせいもあって、通知のない画面が今まで以上に残酷に映った。

「大変、なんだよ……ね?」

 そう思うしかない。あの日の避難しようと必死な人々の押し合い、ぶつかり合い、悲鳴は、今でも思い出すと手が震える。思いやり、譲り合いなんて存在しない。我先にと、周りの人を押しのけて前へと進む人々の感覚は出来ればもう二度と味わいたくないものだ。

 だからこそ病院で赤井さんを見た時は、声も出ないくらいに胸の奥が熱くなった。それこそ愛の元に結ばれているんだと、心から思える瞬間だった。私たちの間には確実に見えない“何か”が存在している、そう心の底から思えた。

「行かなきゃ……」

 だから、大丈夫。赤井さんは落ち着いたら連絡をくれるはずだ。私は相変わらず通知のないスマホを鞄に入れて、気持ちを切り替えるように身支度を進めた。土曜日の今日は、杯戸中央病院へ再診へ行く予定だ。喘息の過去があったため経過観察が必要らしい。

 病院の最寄り駅を降りると、視線は自然と道路に向きシボレーを探してしまう。それは、数日前に彼が病院にいたのならまた会えるかもしれない、という淡い期待からだった。たとえ見つからなくても、こうして探していると気分も紛れる。会えない時間を過ごす間に身につけた、秘密の遊びだ。

「あ、」

 病院の駐車場に着くと、シボレーではないある車が目に入った。

ー白の、RX-7。

 以前赤井さんが、組織の奴らが乗っている車だ、といくつかの車を紹介してくれた内の一台だった。車種だけでも覚えておいてくれと念を押し、そして万が一、見かけた場合は不自然にならないよう、そのエリアから離れろと言われていたけれどその内の一台が今、この病院の駐車場に停まっている。

「どう、しよ……」

 足が竦みそうだった。あんな騒ぎがあった後であり、赤井さんも数日前ここに居たのだから、当然悪い人が病院にいてもおかしくは無いのだ。ならばここは赤井さんに言われていた通り、家に帰るべきだろうか。でも、もしかしたら似た車なだけで、私の勘違いかもしれない。

「ナンバーは、確か……」

 7と、3が付いていたような。ぼんやりとした記憶しか残っていないけれど、念のため確認しておけば、後で赤井さんにも伝えることができる。そう思ったのが、完全な間違いだった。

「僕の車に、何かご用ですか?」

 車のナンバープレートを前から確認しようと近づいた時、背後からそう声を掛けられ、私はとても後ろを振り向くことができなかった。