10.赤く揺れる照準より ーいたー

 二人はかなりの時間、沈黙していた。

 名前が何も言おうとしないためではあるが、赤井も折れるわけにはいかなかった。彼女が話すまで、家に返すつもりもなかった。

 無言の圧をかけ続け、名前を誘導していく。心の準備が出来るまで、いつまでも待つつもりでいると、やがて彼女は大きく息を吸った。

「実は……恋人が、」

 ようやく出た声は乾いて、辿々しい。途中言い淀んでしまう彼女と目が合えば、赤井は安心させるように頷き、続きを促すように微笑んでやる。

 そうして彼女は、一人で抱え切れなくなっていた想いの全てを語っていった。



「すみません、こんな……変なこと……」
「いえ。しかし残念ですが、その人物は偽物の可能性が高いですね」
「……え?」
「いくら人混みだったとはいえ、この日本でライフルを扱うということはかなりの悪人。そして向こうのビルから百貨店までの距離も短く、当てるのは容易かったはず」
「……っ」
「貴女が思う通り彼が本物ならば、周り構わず撃てば良い。しかし撃たなかった。ということは、彼が偽物だと気づいたのではないでしょうか?理由は分かりませんが、単独で動いていたメンバーの仕業だった、という所かと」

 そこまで言い切れば、名前は言葉が出ないようだった。瞬きを何度も繰り返している。

「念のためしばらくは米花百貨店周辺に近寄らず、偶然にもまたその男を見かけた場合にはすぐに立ち去った方が良いでしょう」

 そう言うと、彼女は静かに頷いてくれるが、一体どこまで理解しただろうか。大事なのは、狙撃が何故、行われたかではない。奴らの目論見など、彼女は知らなくても良いのだ。

 ただ一つ。確かな事実だけを、しっかりと受け止めていてほしい。だからこそここでしっかりと、念を押さなければいけない。それが、酷く彼女を傷つけると分かっていても。

「名前さんのお相手の方は、その……」

 沖矢昴としては、自分の推理によって、彼女の僅かな希望を打ち砕いてしまったことに申し訳なく思うしか無い。しかし赤井自身にとっては、とにかくその男に出会ったら無視して逃げろと、言うほかなかった。二度と、出くわさないでくれ。そして、自ら探しに行かないでくれと願って。

「はい……分かって、います」

 気になさらないでください、そう言って背もたれに寄りかかる名前は今、何を思っているのだろうか。変わり映えのしない地下駐車場の景色を見ているが、その目には何も映っていないのだろう。

 今朝、百貨店で話した時の明るさは消え、悲しみの色を見せる名前。しかし、彼女に対して何も言えず、その静けさを掻き消すように車のエンジンをかけるしかなかった。

「家まで、お送りします。宜しいでしょうか?」

 小さな声で返事が聞こえ、赤井はアクセルを踏む。名前の話す内容、そして今現在、誰にも追跡されていないことから、組織に彼女の存在がバレていないと分かったのは大きい。

 かなり危険な状態だったが、なんとか奴らの目を搔い潜ることができているようだと安堵する。しかし一方で、心配なのは名前自身のことだった。

 いつまでも平穏が訪れず、いたずらに感情ばかりが翻弄されて。それを一人で耐えさせなければいけないないなど。もうこれ以上、どうか彼女の身に何も起こらないでくれ。そう願うだけでは、足りない気がした。

 軽く息を吐き、ミラー越しに名前を見ると変わらず窓の外を見ている。車をゆっくりとマンションの横へ停めると、彼女はこちらを向いた。

「沖矢さん、今日は本当にありがとうございました」

 この時間で、彼女も感情を整理していたようだ。その声は、先ほどよりも随分落ち着きを取り戻しているように聞こえた。

「いえ」
「沖矢さんには、助けてもらってばかりです」
「……そうでしょうか?」

 この会話の先を予想して少し身構える。

「実は黒のシボレー。彼の愛車で」
「……そう、でしたか」
「私、お別れが、できてなかったから。車に乗せていただいたとき、初めて気持ちの整理ができて」

 でも、今日あの人を見てまた揺らいじゃったんですけど、と苦笑いをする名前に対して返事をすることなど、到底出来なかった。

「あの時、彼もいた気がしたんです」
「……っ」
「最後に……最後に一緒に、ドライブできた気がして……だから、今日もですけど、本当にありがとうございました」

 こんなにも胸が痛むものなのかと、彼女の、切なくも前を向こうとする姿に気持ちが揺れ始める。それでも、今するべきことは分かっていた。

「いましたよ」
「……え?」
「いましたよ。彼も、あの時。そしていつも、そばにいます。ずっと、願ってもいます。貴女の幸せを」

 その意味の真意を知る由もない名前は、少ししてから、ふっと微笑んだ。

「そっか……よかった」

 その、自然な口調が、余計に感情を揺さぶられる。

「あっ、それで……お礼しなきゃって、っ」

 ただ、名前がそう言いながら、鞄からスマホを取り出す様子を見て、赤井は彼女の名前を呼んで制した。

 本当は、沖矢昴を、名前にとって相談しやすい人物にしてしまいたかった。しかし、今後どのような局面がやってくるか分からない今、なるべく繋がりが分かる証拠は残したくない。もうこれ以上は、踏み込むべきではないのだ。

「では、今度デートにでも」
「え?……ああ、えっと」

 名前が戸惑うことを分かっていてこの冗談を言うのは酷かと思ったが、そうでもしないと沖矢を装えそうになかった。案の定、予想外の誘いに名前は困惑し、ばつの悪そうな表情をしている。

「冗談ですよ。彼が、見ているかもしれませんしね。お礼は、お気持ちだけで十分です」
「でも……」

 そう言って、困った表情をする名前。もう十分、分かっているさ。そんな言葉をかけてやりたいが、そうもいかない。

「ではどうかこれからも、笑顔でいてください」
「……っ」
「また、いつか会える日まで」

 そうして返す言葉が見つからずにいる彼女を置いて、先に運転席から降り、名前が座る方の後部座席のドアを開けてやる。

「また、くれぐれも今日のような人物を見かけても近づかないように」
「あの、」
「さあ、見ているので中へ入ってください」

 名前は、悲し気な表情をしていた。

 そんな彼女の顔を、もう見ていられなかった。冷たくも、マンションへ入るよう促せば、彼女は小さくお辞儀し駆けていく。

 その背中を静かに見守りながら、赤井は一人天を仰いだ。