09.赤く揺れる照準より ー糸ー

 無事に事態が収束した後、赤井は駐車場へ戻るために、周囲を警戒しながら百貨店の外に出た。

 しかし、少し先で女性が二人しゃがんでいるのが見え、眉間に皺を寄せる。念のため女性の顔を確認するように近づくと、そこには呼吸の仕方を忘れたように肩を揺し苦しむ、名前の姿があった。

「名前?!」

 そう言って肩に触れるが、反応はない。呼吸が激しく乱れている。思わず名前の横で付き添っていた女性に、鋭く視線を向けてしまうが、彼女が一般人だというのはすぐに見て取れた。

「彼女は知人ですので、もう問題ありません」

 名前とその女性の間に割って入るようにして女性を立ち去らせると、赤井は瞬時にジャケットを脱ぎ、名前の頭へかけた。今更、顔を隠しても意味はないかもしれないが、名前の身の安全を考えた上での行動だった。

 奴を、見たのか。それ以外考えられないこの状況に、気持ちが動揺する。ここから立ち去らせたはずなのに、どうして。

「名前さん、大丈夫ですよ。ゆっくり息を」

 彼女の背中を撫でつけながら、努めて冷静に声をかけてやる。とにかく落ち着かせることが必要だった。

 以前、名前をストーカーから守るために、自然な形で彼女と出会い、その後は密かに彼女の自宅周辺を警護していたが、何故か犯人に出くわすことがなかった。諦めたのだろうか。その真相は分からずじまいだったが、これで危機は脱したと思われていた矢先の出来事に、赤井はぐっと歯を食いしばる。

「あれ?沖矢さん?」

 すると、背後からコナンの声がして彼は動きを止める。名前の存在を鋭い少年に知られるのは避けたかったが、この状況では仕方がない。

「すみません、毛利さん。今から車を取りに行くので、少しだけ彼女を見ていただけますか」

 それだけ伝えると、彼らの返事を待たず、その場から駆け出し駐車場へ向かう。とにかく名前を、安全な場所へ。そして、誰よりも先に状況確認をしなければ……。

 急いで車を取りに行き、米花百貨店の路肩に荒々しく停めると、赤井は名前の様子を見ている三人には何も言わず、真っ先に彼女に駆け寄る。

「名前さん、腕を……運びますね」

 彼女の腕を自身の首へかけ、抱きかかえると、名前はそっと、沖矢のシャツを掴んだ。無意識なのだろうか、その縋るような様子に思わず腕に力を込める。大丈夫だ、ここにいるよと伝わるように。

 そうしてガードレールを跨ぐと、少しその重みが増した。名前が、意識を手放したのだろう。その小さな体を包み込むように、再度抱き直して赤井は後部座席のドアを開ける。

「お、おい、その人、本当に大丈夫なのかよ?」

 何も言わず見ていた三人だったが、毛利小五郎がそう声をかけてくる。

「問題ありません、みなさんがいてくださり助かりました」

 名前を助手席に寝かせ、体勢が辛くないように手足の位置を変えながら、発信機や盗聴器がないかも確認した。問題がないと分かり、このまま立ち去ろうとすると、コナンが納得できないとでも言いたげな表情をして駆け寄ってくる。

「ねえ、その人……」
「君の領域ではない」

 沖矢昴らしくない言い方に、何も言い返せないのだろう。コナンはそれ以上追及するのを諦めたようだった。そうして荒々しく運転席のドアを閉め、無心で車を走らせた。



 しばらく車を走らせ尾行されていないか何重にも確認した後、赤井は米花百貨店の地下駐車場に戻っていた。

 エンジンを切ると、車内は一気に静寂に包まれる。ちらりとバックミラーを確認すると、疲れ切ったように眠る名前が見え、思わず唇を噛んだ。こんなはずではなかったと。そう思っても、もうどうにもならない。

 今はまず名前のためにと、自動販売機で水を買い、なんとか気を落ち着かせた。

「名前……」

 後部座席の窓越しから、彼女の姿を見つめる。今の距離が、本来あるべき姿なのだと分かっていても、気づけばドアを開け、その髪を撫でていた。

 もう随分と安定しているようだ。細く、白い首筋に指先を当てて脈を測ると、その鼓動は平常に戻っている。しかし彼女の頬に残る、涙の跡が痛々しい。ならばせめて、夢の中だけでも穏やかであれと、何度も名前の頭を撫で付けていた。

 愛おしいその存在を、危険な目に合わせ苦しませている原因が自分であるからこそ、本来は触れることすら許されないような思いさえしたが、それでもやめられない。

 やはり、どれほど会わないでいようと、気持ちをしまい込んだとしても、愛おしさが無くなることなどないのだ。むしろ……。そこまで考えてから、思考を無理やり止める。今はただ、もう一度。もう一度だけ、とその髪に触れてその体温を感じていた。

「ん……おきや、さん?」
「……ええ。ご気分はどうです、名前さん」
「……ここ、は?」
「米花百貨店の地下駐車場です。すみません、勝手に」

 名前はゆっくりと瞼を揺らすと、沖矢の姿を捉えた。しかし、その声が聞こえているのか、いないのか分からないくらいの反応だ。それでも起き上がろうとする名前を、赤井は支えてやりながら座らせ、先ほど買ったペットボトルの蓋を軽く開けて手渡す。

「どうぞ」

 そう言って勧めると、名前は軽く頭を下げ、何口か飲み進めた。その姿を見届けて、運転席へと戻っていくが気は重たい。

 これから、名前に状況確認をしなければならなかった。どこまで危険が及んでいるか、把握しなければならない。赤井はバタンと、運転席のドアを閉めてから、息を吐いた。

「名前さん、体調はどうですか?」
「……もう、大丈夫みたいです。ちょっと頭が痛いですけど」
「そうですか。すみません、今手元に何もなくて」
「いえ。でも、本当に、沖矢さんがいてくださって助かりました。お水も……」

 先ほどの出来事を思い出しているのか表情は不安げだが、受け答えはしっかりしている。体調はやはり、問題なさそうだ。

「一体、何があったんですか?」

 そう言うと、予想通り名前は俯き黙り込んでしまった。

 当然、死んだはずの恋人に会いました、とは簡単に口にできないのだろう。それに、恋人がいることは伏せさせていたのだから、素直に話すとも思えない。そんな、絡まり合った糸を、どう解いていくか。

「人が感じる辛さ、ストレス、というのは、悩みの原因と、その悩みを人に話せないことの掛け合わせによって肥大化するそうです」
「……っ」
「つまり、誰にも話せない、というのはかなりの苦しみになる、ということ」

 そう伝えると、ルームミラー越しに名前が顔を上げたのが分かった。

「話してください、全て」
「……っ」
「幸い、我々は互いに何も知らない者同士。知り合いの耳に入ることは決してあり得ませんし、ここで話した内容が外に漏れることはありません。大丈夫ですから……話していただけませんか?」

 名前は、沖矢を見つめながら、少しだけ口を開けた。しかし、悩むように俯くとそのまま口を閉ざしてしまった。