21.沖矢さんを知る

“もしもし、名前さん?”

 数コールで出てくれた沖矢さんの穏やかな声に、私はひどく安心していた。



 今日は朝から天気は荒れ模様。季節外れのかなり大きい台風が近づいていて、午後には直撃するらしいとニュースで言われていた。その通り、昼になるにつれて暴風警報が発令され、電車通勤の私は昼休憩前に退勤することにしたのだけれど、駅に着くと運休の文字が見え、私は足を失ってしまう。

“ 名前さん、今、外ですか?”
「は、はいっ、実は……」

 移動手段を調べていると遠くの方からゴロゴロと、地響きのような低い雷音が聞こえ始め、恐怖した私の脳裏に浮かんだのは沖矢さんのあの表情だった。“力になりたい”と、力強く言ってくれていたあの瞳を……。

“電車、止まってしまったんですね。すぐに向かいますよ。今はどちらに?”

 私が言い淀んでいると、沖矢さんは的確に状況を察してくれる。何も話していないのに、どうしてこんなに。

「あ、あの、駅です!今、――駅で、ロータリーにいるんですけど」
“すぐに向かいますね”
「沖矢さん、すみません本当に……」
“いいえ、連絡いただけて良かったです。ちょっと待ってください、イヤフォンにしますね”

 そう言って沖矢さんは、電話を切らずに到着するまで話を続けてくれた。彼の優しさに感謝しながら待っていると、しばらくして赤い車がロータリーにやってくる。

 私は傘を差して外に出ようとするけれそ、とても差していられない。危険だと思って閉じるけれど、その間に一気に身体が濡れてしまった。

 完全に濡れた状態で申し訳ないと思いながらも、助手席に乗り込むと、沖矢さんは後部座席から何かを取る。

「よかったら、拭いてください。それにしても凄い雨ですね」

 手渡されたのは、フェイスタオル。こんなことまで用意してくださるなんて、本当に非の打ち所のない方だと、驚いてすぐに返事ができなかった。何も言っていないのに、全てを察して動くなんて、そんな人、赤井さん以外にいるんだ。

「え……あっ、ありがとうございます」
「いえいえ、では名前さんの家へ」

 沖矢さんがそう言ってエンジンを掛けると、かなり大きな雷が近くに落ちた。車内とはいえ、その音と光を直接感じて、私は声にならない声を咄嗟に上げる。木に落ちたんじゃないかと思うぐらいの、メリメリとした音が聞こえて、心臓がどくどくと波打っていた。

「大丈夫、ですか?」

 本来は大丈夫と言うべきところだけど、そう言っていられない。正直、凄く怖かった。雷は昔から苦手で、今も手が少し震える。降りしきる雨の音が、より一層強くなった。

「名前さん、良ければ家に来ますか?雷が収まるまで」

その提案に顔を上下に振って激しく頷くと、沖矢さんはふっと笑みを浮かべて工藤邸へと車を走らせてくれた。



「ほんと、すごい雨ですね、」

 二人で雨に打たれながら玄関に入ると、沖矢さんは少し慌てたように靴を脱いで廊下に向かっていく。「ちょっと待っていてください」と言って、姿が見えなくなってしまった。

 どうしたのだろうと思いながらも、頭を拭きながら玄関に立って待っていると、沖矢さんが何故か、既に別のタートルネックに着替えて、乾いた髪で現れた。手にはスウェットとバスタオルがある。

「これ、よかったら着てください。浴室乾燥があるので、しばらく干せば乾くと思います」
「え、そんな……」
「今の名前さん、かなり寒そうです。そのままでは風邪を引く」

 私は何も言えないまま、ぐっと腰を押され洗面所へと導かれていく。しかも、中に入ると洗面台にハンガーが用意され、扉を隔てた浴室は既にファンが回っている。

「ここを出て右に真っ直ぐ、突き当たりがリビングですので、そこにいますね」

 ガチャンと閉められた空間で、私はしばらく立ち尽くしていた。今から、着替える……ということだよね?、と頭で理解しようとしていると、視線の先にコンセントに繋がれたドライヤーを見つけた。そこに沖矢さんの気遣いや、優しさを感じて、なんとも言えない気持ちになる。有難いけれど、ここまでしてもらえるなんて……。

 まだ、戸惑いはあるけれど、濡れて肌に着くシャツはヒンヤリと冷たく、少し気持ちが悪い。此処は、ご厚意に甘えるようと私は思い切ってシャツを脱いだ。そうして、明らかに大きいと分かるスウェットを広げると、懐かしい香りに包まれる。

「え……っ」

 一瞬、動きを止めて、確かめる。この匂いって……。半信半疑で、ゆっくりと服を鼻に近づけてみると、やっぱり知っている匂いがした。どうしてだろう、仄かに香る煙草の香りに、柔軟剤も同じに感じる。

 沖矢さんが煙草を吸っているのは意外だけど、でもそれを嬉しいと思った自分もいて驚いていた。赤井さんと似ているところがある度に、心が揺れてしまう。

 どうして、こんなにも沖矢さんと赤井さんを重ねてしまうんだろう。見た目も、性格も全然違うのに、すごく似ている気がしてしまう。だからすごく安心して、もっと側に……。

「……え、」

 側に、いたい?違う、私……。

 知らずのうちに芽生えていた気持ちに気づいて、私は動揺した。この感情は、沖矢さんが赤井さんに重なる部分が多くて、意識してしまっているのか。もう、心が誰かを求め始めてしまっているのか。それとも……。

 自分でもよく分からない感情を、まだ知りたくなくて、私は逃げ出すように浴室を飛び出していた。こんなこと思ってはいけないと、頭の中では分かっているのに、何故か沖矢さんの顔が浮かんでしまう。そんな自分が嫌だ。

 気持ちを切り替えて、言われた通りリビングへと足を運ぶと、沖矢さんはキッチンでお茶の準備をしていた。

「ありがとうございます、沖矢さん」
「……服、大きすぎましたよね」
「そう、ですよね……でも、助かりました!」

 下は自分の服を着たまま、上だけスエットを借りているので、いわゆる彼シャツのようにはなっていない。それでも、男性の服を借りるというのは、なんとも気恥ずかしい。

 さらに、これは沖矢さんのものなのだから、意識せずとも鼓動が早まっていた。ちがう、ちがうと、言い聞かせるけれど、沖矢さんに視線がいって仕方がない。

「ではもうすぐ、湯が沸きますので……」

 そう言いながら背中を向ける沖矢さんのシルエットが、赤井さんと重なる。私は、赤井さんの背中が、大好きだった。何度も、抱き着きにいっては、優しく頭を撫でてくれる赤井さんが好きだった。だから、この気持ちは沖矢さんに対してじゃない。そう思うのに、気づけば導かれるように沖矢さんの背後へと足が進んでいく。

 何がしたかったのかは分からないけれど、ゆっくりと手を伸ばしていた。ごくりと、生唾を飲み込む。手が、触れてしまいそうになる。

 すると、窓の外からミシミシと音が鳴り響き、爆発音にも似た大きな雷が近くに落ちた。私は咄嗟に、沖矢さんの背中を掴んでしまう。

「……あっ」

 私が掴んだ反動で、沖矢さんの持つティーカップがカチャンと音を立てた。

 雷は地鳴りのような余韻を残しながら、ごろごろと恐ろしい音を響かせている。私は、短く呼吸をしながら外が落ち着くのを待っているのだけれど、シャツ越しに感じる体温が、愛おしくて堪らない。

 気づけばもう一歩と、沖矢さんに近づいていた。もう少し、このまま。そんな気持ちに身を任せるように、私は自分の頭を沖矢さんの背中にコツンと当てる。シャツを握っていた手も、自然と沖矢さんの腰へ回していた。

 久しぶりに感じる、赤井さんの匂い、そして温かな体温に、抑えが効かない。やっぱり、会いたくて、堪らないよ。もう一回だけ……もう、一回だけでいいから、会いたいよ。

 溢れ出してしまった感情は、止まることを知らない。赤井さん、と、私は縋り付くように腕に力を込めていた。

「……っ」

 すると、カタンっとティーカップがテーブルに置かれる。それと同時に沖矢さんがゆっくりと振り返り、あっと思う間もなく抱き寄せられていた。彼は左腕を私の頭に回すと、両耳を塞ぐようにして、広い胸の中へと私を包み込む。

 その行動に、私は全身が震えるようだった。これは以前、雷を怖がっていた私にしてくれた、あの時の赤井さんと同じ……。

「ん、」

 堪らず、溢れてくる涙。赤井さんが、来てくれた。赤井さんが抱きしめてくれていると、思えてならない。私はぐっと、沖矢さんに身体を寄せる。ピタリと、形がはまる様にフィットして、もう何も考えられない。

 それから、どれほど経っただろう。私は静かに目を閉じて、身を委ねていた。でも沖矢さんに頭を撫でられ、ハッと我に返る。慌てて彼の体を押すようにして、距離を取った。

「……雷、収まってきたようですね」

 一体、私は何をしていたんだろう。自分の行動が信じられなくて放心していると、沖矢さんは何事もなかったかのように背を向けてお茶の用意を再開していく。

「っ……沖矢、さ、」
「名前さんは、コーヒーと、紅茶、どちらがいいです?」
「……え?」
「飲み物ですよ。ココアもありますが」

 私に背を向けたまま、いつも通りの穏やかな口調で話してくる沖矢さん。それに対して、私はどうしていいか分からなかった。

 気づいてしまった自分の心に芽生えた気持ち。いつだって、優しく、包み込むようにそばにいてくれた沖矢さん。沖矢さんに惹かれる部分もあるけれど、私は彼に赤井さんを重ねている。それに、もし新しい関係を築くのなら、赤井さんを過去にしなければいけない。けれど、そんなことまだ到底無理だ。

 だから、どうしたらいいか分からない。沖矢さんと、どう接していいか……。

「名前さん、」

 すると、沖矢さんは作業する手を止めて、振り返った。

「……あまり、深く考えないでください」
「……っ」
「分かっていますから」

 それはとても優しい声で、微笑む表情はどこか切ない。何を……と思っても、それを口にする勇気がなかった。でも、沖矢さんが伝えようとしていることは、なんとなく分かる。このまま、はっきりしない態度でも構わないと、そう言われているような気がして、私は息を詰める。

 そんなこと良くないと思うのに、でも、あんな風に優しく微笑まれてしまっては、甘えたくなってしまう。沖矢さんの作ってくれた逃げ道に、今は走ってしまいたかった。今はまだ、自分の気持ちを決めることも、沖矢さんの気持ちを知ることも、できない。したくない。そんな自分が狡いと分かっていながらも、拒めない。

「さあ、何にしましょう?」

 空気を変えるように言う沖矢さんの瞳は、よく見えなかった。でも、痛いほどの優しさをひしひしと感じて、また涙が溢れそうになる。

 でも、このまま……。今は明確にしないまま、甘えてしまってもいいのかな。この曖昧さを、曖昧なままにして。

「じゃあ……」

 沖矢さんはいつまでも、優しい表情で、待っていてくれていた。

「ココアを、お願いします」
「了解」

 その時の、沖矢さんの微笑みは、とても柔らかかった。