21.〜〜〜より ー楽しみな日ー

 今日は、ここ最近で一番楽しみにしていた日。映画好きには堪らない、あの有名な洋画のデジタルリマスター版上映の特別試写会へ行く日だ。

 まさか、本当に当たるなんて思わず、チケットが当たってからはずっとこの日を待ち遠しにして仕事に励んでいた。場所は、新しく建てられた商業ビルの7階に入っているシネコン。まだ他の店舗は入っていないけれど、この日に合わせて映画館だけ先行して営業するそう。

 ペアで当たった、このチケット。最初は一人で行こうと思っていたけれど、いろいろ考えて沖矢さんに聞いてみたら、意外にも良い返事が返って来た。“映画館、ですか。もう随分久しいです”、と言って微笑んでいた彼の表情が、印象に残っている。

 今日は久しぶりにネイルもして、とても気分がいい。私は下で待ってくれている沖矢さんの元へと、笑みを浮かべながら部屋を出ていた。

「沖矢さん、お待たせしました!お迎えありがとうございます」
「いえ……」

 マンションのすぐ横に、車を停めて待っていてくれていた沖矢さんの車に駆け寄ると、何故か彼は表情を少し曇らせる。何かに悩むように眉間に皺を寄せ、視線を外されてしまった。

「あ、あの……?」
「いえ……その、名前さん、今日は少し雰囲気が違って見えたもので」
「あっ……そう、ですかね……?」

 心の内を、見透かされてしまったようで、心臓がドキリと波打つ。確かに私は今日、今までと少し違った気持ちで、この日を迎えていた。

 あの嵐の日以降、沖矢さんとはショートメッセージでのやり取りがずっと続いている。週末は、少し電話もする。会うこともある。それ以上、何をするということはないけれど、心の寂しさを埋めるように時間を過ごしていた。でも、沖矢さんが何も求めず、ただただ優しくしてくれている訳ではないことぐらい分かっている。だから、どこか負い目を感じたまま。

 こんなの、良くない。ちゃんと、向き合わなくてはけない。私はそう、思い始めていたから……。

「でも今日、楽しみだったんです……ずっと、」

 少し俯きながら、私は沖矢さんの方をチラリと見上げる。すると彼は何も言わず、少しだけ、ほんの少しだけ口角を上げると頷いた。

「……行きましょうか」

 何故か、切なくも見えた沖矢さんの表情が気になったけれど、それからの彼はいつも通りだった。私の近況を聞いては笑ってくれていたので、深くは考えなかった。



 映画の上映は18時から。ただ、上映前に軽くお腹を満たしておきましょうと話していたので、私たちは車を停めて、映画館周辺を少し歩いていた。

「沖矢さん!どこに入りましょうか!調べたら、ここか、ここのカフェが良さそうだなって思っていて……」
「どちらでも構いませんよ。名前さんの行きたいところへ」

 うーん、そう言われてもなあと思いながら、私はふと、赤井さんとの会話を思い出す。

“赤井さんは、どこに行きたいですか?”
“名前の行きたい場所がいい”
“……うーん、そうじゃなくて、”
“名前といられるだけで十分なんだ。生憎、流行りのものや、洒落た店には疎いんでね”

 そう返されて、少しいじけていたっけ。私としては、一緒に見たい景色とか、一緒に食べたいものとか、そういうのを赤井さんからも提案して欲しいのに、と悶々と思ってた頃もあった。赤井さんとしては、それが本当に彼の望むことだったらしい。“私の行きたいところに行きたい”、と。でもそれ以降、私が悩む時、案がない時は、スパッと決断してくれるようになって、上手く過ごせるようになったんだ。そういうバランスが本当に上手な人だった。

「名前さん?」
「え?……あー、じゃあ、こっちのお店にします!」

 選んだのは、映画館の近くで、テラス席があるカフェ。ちょうど映画館のビルに出入りする人が見える位置にある。絶対にあり得ないけれど、もしかしたら来日した俳優さんが乗った車が通ったりするかも、という淡い期待があった。

 そうして私たちは、それぞれ好きなものを選んで、テラス席へ向かう。でも、私はしっかりサンドイッチにデザートまで付けたのに、沖矢さんはコーヒーしか頼まなかった。どうしたのだろうと聞くと、ディナーが楽しみなのでと言って、視線を道路側へと向けている。ずっと、気にはなっていたけれど、映画館周辺に来てから、沖矢さんの視線はどことなく落ち着かなかった。どうしたんだろう。もしかしたら、私が話し過ぎているのかもしれない。あんまり、楽しくないのかな……。

 急に不安になってくると、沖矢さんは顎に手を添えて口を開く。

「妙ですね」
「……え?」
「映画館のビルですよ。妙に殺気立っているような」
「うーん……そう、ですか?有名人の方も来られるし、その警備とかですかね?」

 殺気なんて、全く感じない私は、呑気にそう返していた。確かに、人がたくさんいて慌ただしさはあるけれど、気にするほどじゃない。そう思っていたのに、沖矢さんはそれからめっきり口数が減ってしまった。

 今の沖矢さんは、米花百貨店で偶然会った時に感じた雰囲気に似ている。むしろ、その時よりもピリついているようで、少し怖い。世間話なんてできないようなその空気感に、なんだか気まずくなって、楽しみだった試写会へのモチベーションまで下がってきてしまった。私はズルズルと、残り少ないアイスカフェオレを飲みながら、少しだけ息を吐く。

「名前さん、すみません」
「……っ」
「実は少し……妙な胸騒ぎがして」

“妙なんだ。嫌な胸騒ぎがする”

 そんなことも、赤井さんは何度か言っていた。それは大抵当たっていて、私はその妙な胸騒ぎに助けられたことも過去にあったけれど、ここは日本。何かが、起こる訳ない。今日の沖矢さんは、他に気になることがあるみたいだし、気を使って一緒に映画を見るのは違うような気がする。無理に、一緒にいるのはお互いにとって良くない。

「あの、沖矢さん……」

 私が、遠慮がちにそう切り出すと、沖矢さんは視線をこちらに戻してくれた。

「……もし、あんまり気分じゃなかったら、今日は私一人で……」
「っ、いえ!」

 思いの外、強い意志の込められた返事に、逆に私が驚く。どうやら、映画は見たいと思ってくれているらしいと、思うけれど、不安は残ったまま。

「すみません、少し周囲が気になってしまい……」
「はぁ……」
「しかし、映画は楽しみに思っています、名前さんに声かけていただけて、嬉しくも思っています。こちらのコーヒーも、美味しいですし」

 カップを持ち上げながら沖矢さんは微笑み、静かに味わっている。その姿は、少し取り繕っているようにも見えたけれど、そう言っているのならいっか、と前向きに考えることにした。

 まさか、彼の胸騒ぎが当たるなんて、思いもせず。