(番外編)沖矢さんに電話をする

(爆発事件前のお話)

 年下の、同僚の女の子が結婚すると、今朝報告があった。結婚のニュースは、本当に嬉しい。

 でもどうしても、勝手に想い描いていた赤井さんとの未来を思って、気が沈んだ。このまま部屋を出て、夜の街を彷徨ってみたら。そんな衝動にも駆られる。そうすれば同じ気持ちの、誰かに会えるのかもしれない。

 そんな感情も湧き上がってくるけれど、当然そんなことはできない。する勇気もない。何より一時の感情で行動しても、何も解決しないのは分かっている。だから、ウィスキーの瓶を取り出した。一人で自棄酒するぐらいなら、問題ない。もうちゃんと大人だった。

 今日は眠ってやるものかと自分に言い聞かせて、あえて恋愛映画を流し、グラスに口を付ける。ウィスキーの味は、彼の好みという理由で気づけば慣れてきていた。くらっとくるその度数の強さと、戦うつもりで一口味わう。

 時刻は、もう深夜。私は気づけば、沖矢さんに電話を掛けていた。期待していなかったのに、彼は数コールで出てくれる。もうこんなに遅いのに。まだ起きているんだ。ふわふわとした思考で思うのは、そんなことだった。でも、出てくれたことが嬉しくて、少しだけ笑顔になる。

「名前さん?!どうされ、」
「あ、おきやさん」

 沖矢さんの声は、少し焦っているように聞こえた。こんな時間だからかなと、私が気にせず緩やかに話すと、沖矢さんは少し息を吐く。

「名前さん今、自宅ですよね?」

 沖矢さんの声は、聞いていて落ち着く。やっぱり電話をかけて良かった。「そうですよー」と、間延びした声で返事をすると、沖矢さんはまた深く息を吐いている。

「名前さん、どうし、」
「あ、ね、おきやさん。今、私は、何を飲んでるでしょーか」

 ただ、私は話したい事が沢山あった。内容なんて、ない話をただただしていたかった。でも沖矢さんを困らせてしまったみたいで、彼はいよいよ3度目のため息を漏らしている。

「おきやさん?」
「……梅酒でしょうか」
「ん、ちがいまーす」

 でも、それも勘違いだったみたいだ。私は「沖矢さん、クイズ外れましたねー」なんてちょっとした優越感を感じながら、氷を入れ直したウィスキーに口をつけた。

 カランカランと、氷がグラスぶつかる可愛い音がする。この音はすきだ。何回か、わざとグラスを傾けて音を鳴らしてみる。

 そういえば、赤井さんもよくやっていた。それが大人に見えて、かっこよくて、こうして今は彼の真似を無意識にしてしまうんだ。

 そうして思い出す彼の姿。
 やっぱり、赤井さんに会いたい。

 涙腺が緩みそうになって、もう一口、ウィスキーを飲む。会いたくて、触れたくて、抱きしめて欲しくて。こんな夜に、幽霊でもいいから会いにきてくれたらいいのに。

「何が、あったんですか?」

 そう、沖矢さんに言われて、鼻水を少し啜った。泣いてるなんて、バレたくない。わざと明るい声を出した。

「うーんっ……こえ、聞きたいなって」

 赤井さんの声が、聴きたい。でも留守電は、全部消してしまった。こんなことなら残しておきたかった。そうすれば、何度も何度も繰り返し聞いて、一生忘れないのに。

 いつか私は、あの低く、でも優しい、あの声も忘れてしまうのかな。そう思っていると、また沖矢さんは大きく息を吐いたみたいだ。

「あ、起こしちゃい……ました?」

 迷惑、かけてしまっているかもと、少しだけ残っていた冷静な自分がそう思う。やっぱり電話切ろうかな、そう思っていると沖矢さんは優しい声で答えてくれる。

「いいえ、起きていましたよ」
「……そ、っか」

 それ以降は、沈黙になった。上手く、言葉が続かない。私は、どうしたかったんだろう。切ろうと思った電話も、沖矢さんの優しい声を聞いたら、続けたくなっていた。私は完全に酔っていた。

「電話、いただけて嬉しいです。それに、迷惑とも思っていません。名前さんの話、聞かせてください」

 優し気な沖矢さんの声に、涙腺が緩みだす。もう、感情はぐしゃぐしゃだ。でも、会話を続けてもいいんだと分かると、口元は自然と緩んでしまう。それなら、今の気持ちを聞いてもらおう。

 私は勢いをつけるように、もう一度グラスに口をつけた。こんなこと、普段なら絶対に誰にも言えない。でも、今は言いたかった。こんな夜に、ただ弱音を聞いて欲しかった。

「本当は、今日……どこかへ行こうと思ってっ」
「……っ」
「やったことない、ですけけど……一人でバーとか行ったら、そしたら、この気持ちも、」
「何が言いたいんです?」

 ゆっくりと、呟くように言葉を発していたけれど、沖矢さんは少し冷たくそう言い放った。見えない棘のようなものが心に刺さった気がして、顔から笑みが消えてく。じゃあはっきり言いますよと、思考はどんどん悪い方へ向かっていった。

「どうしようもなく、一人じゃいられない時って、ありませんか、誰でも」

 そういう話、よくあるじゃないですか。したことないけれど、してみようかなと思う気持ちは、今なら理解できる。

 一人じゃないと、言ってくれる誰かを探しに行くことだって、悪いことじゃないはず。自分を正当化するように、いろんな思いが蠢いていた。沖矢さんからは、そうですよね、分かります、と言ってもらえるだけでいい。この気持ちに共感して欲しかった。それだけだったのに。

「自分の価値を下げるような真似、したら許しませんよ」

 そんな、私を非難するような言い方をされて、ストレートに心が傷ついた。沖矢さんが正しいのに、酔いが回った頭は悪い方に働いていく。考えるよりも先に、心に刺さった棘を返すように、質の悪い冗談を口走っていた。

「じゃあ、おきやさんならいい?」

 この言葉を言うまで、気づいていなかった。沖矢さんがどれほど、怒っていたかなんて。

*****

「どういう意味だ」

 赤井は、低く、冷たい声で名前に言い放っていた。夜、零時を回った頃に掛かってきた電話。何かあったのではないかと、肝が冷えるような気持ちで電話に出ていたというのに。その予想は大きく外れていた。

 電話口から感じる、名前の危うさ、そして声から感じる諦めにも似た彼女の空虚感に、嫌な気がしていた。それ以上言うな、馬鹿な事考えるなと、その口を封じに行きたかった。しかし、彼女の言葉は止まらない。挙句の果てに、質の悪い冗談を口にするものだから、さすがに耐えられなかった。

 かろうじて沖矢昴の声ではあるが、その声色は怒りに満ちている。彼女が息を詰めたのを、電話越しに感じていた。

「どういう、意味なんですか」

 再度、彼女の酔いを完全に冷ますように、苛立ちを含みながら尋ねる。もちろん、彼女が本気ではないことも分かっていた。沖矢と、どうこうしたいという訳ではないことも。それでも、まるで誰でもいいからと、言っているように聞こえた名前の発言を、見過ごす訳にはいかない。

「いくら酔っているとはいえ、そんなこと軽々しく言うものじゃない。話なら、いくらでも聞きますから。だから、そんなこと……しようと思うな」

 沖矢の口調で優しく諭すものの、最後はしっかりと念を押して。

「ごめん、なさい」
「……っ」
「本気で、言った訳じゃ、なく、て」

 たどたどしい彼女の声に、彼自身の熱も少しずつ冷めていく。

「分かっていますよ。その気持ちが本気なら、そもそもこんな電話、掛けていないはずでしょうから」

 彼女は、何かのきっかけで自棄を起こしてしまったのだろう。そうと分かっていても、冗談めいて沖矢を誘った瞬間、怒りは込み上げた。相手が沖矢じゃなければと思うと、見過ごせない。そして、二度とそんなこと考えてくれるなと、釘を刺しておきたかった。

「ただ、約束してください。そんなことしないと」

 強く、しかし優しい声で念を押すと、名前は素直に返事をする。

「……おきやさん、ごめんなさい」
「分かっているなら、いいんです」
「ん……おこってる?」
「もう、怒っていませんよ」

 そう言うと、名前は少し安心したようだった。ありがとう、沖矢さん、と先ほどよりも随分冷静な声で話している。

「それで、何があったんです?」

 最後に、彼女がこうなった原因を確認したかった。しかし、名前は珍しく少し言い淀んだ。

「ひみつ、です」
「名前さん」
「でも、怒ってほしかったのかも、な」
「……はい?」
「うれしかったです」

 わざとなのか、無意識なのか。結局名前は、こうなった肝心の理由を話そうとしなかった。それでも、何かから脱したような、そんな清々しささえ感じる声に、どうやらこれで良かったらしいと思うしかない。

 ただ、「ありがとう、沖矢さん」と、弱弱しい声で言われるものだから、赤井はぐっと唇を噛み締めた。

「貴女が……大事だからですよ」

 本当は、もっと大胆な言葉を言ってしまいたかった。どのみち、明日には覚えていないだろう。だとしても、貴女を愛しているからだとは、とても言えない。

 沖矢昴と名前を、曖昧な関係で居続けさせるためには、こう言うしかなかった。

「一人じゃないです。側に、いますから」

 今の名前が何をしようと、彼女の自由だ。それでも、自分を大事にしてほしい。愛を、受ける存在だと、分かっていて欲しかった。

 この言葉は、どこまで聞こえているのだろうか。夜も、もう遅い。名前から返答がこないことから、睡魔が襲っているのだろうとも感じる。

「だから、さっきの約束、忘れないでくださいね」
「……は、い」
「眠れそうですか?」
「うん、すごく、眠たいです」

 沖矢さん、ありがとう、と言いながら、ごそごそと、彼女がベッドに横になる音が聞こえてくる。ああ、きっとすぐに眠りに落ちるだろう、そう思いながら彼女の名前を呼ぶと、もう返事はなかった。

 全くこんなことが起こるとは、思いもしなかった。それでも一人、踏みとどまり沖矢に頼ってきた彼女が、今とても愛おしい。

「名前さん?」

 呼び掛けても反応しないことを確認し、彼は変声機を切る。どうか、その眠りが安らかなものであるように、願いを込めて……。

「おやすみ」

 届いていないはずの声ではあるが、彼女に向かって囁くことができた事実は、胸を熱くする。

 おやすみ名前。またな。