(番外編)安室さんと考える

(爆発事件前のお話)

日曜日の夕方、私はポアロに向かっていた。というもの絶妙に冷蔵庫の材料が足りなくて、今日の夕食が作れそうになかったからだ。そこで、ポアロで夕食を食べ、帰りにスーパーで今週の買い出しを済まそうと思いつく。日曜日の夜に外食なんて、少しワクワクする。

「いらっしゃいま……」
「安室さん、こんばんは!」
「名前さん」

夜だからか、お客さんはいなくて、店員も安室さんだけだった。いつもと違う雰囲気の夜のポアロ。私は軽くお辞儀をして、カウンターへ腰かけた。

「珍しいですね、こんな時間に」

安室さんが水を差し出しながら、そう声を掛けてくれた。夕食、作るの面倒になってしまって、と答えると、来てくださって嬉しいですと、相変わらずの優しい言葉をもらった。安室さんはカウンターに戻りながら、私の顔を覗いてくる。ちらっと、視線を向けると目が合った。

「名前さん、何か良いことでもあったんですか?」

顔に、出ていたかな?そう思うと気恥ずかしくて、視線を泳がせた。

「えっと……良いことっていうか、ちょっと嬉しいことがあって」
「へえー、何があったんです?」
「実は、怒られちゃって」
「え?」
「でもそれが嬉しくて。なんか、大丈夫になりました」

昨夜の、沖矢さんとの電話のことだった。おかげで、今日はなんだかとても穏やかに一日過ごすことができている。そのことを言うと、安室さんは少し拍子抜けしたような表情をしていた。あ、これでは伝わっていないと思って昨夜の出来事を話そうとすると、彼は感心したように続けた。

「へー。名前さん、すごいですね」
「……ん?」
「普通、頭では分かっていても、なかなかそうは思えないものですよ」
「あー。も、もちろん、私も理不尽に言われれると、本当に無理って思います!でも今回は、完全に私がいけなくて」

ちょっと恥ずかしくて、視線を下げながら笑うと、安室さんも笑って返してくれた。そうして、注文をしようとメニュー表に手を伸ばす。安室さんも、洗い物をしているみたいだった。二人だけのポアロは、とても静かだった。

「じゃあ、大事にしないとですね」
「……え?」
「その人ですよ。大人になっても、叱ってくれる人は大切ですから」

“大人になっても、叱ってくれる人は大切”。確かに、と安室さんの言葉が心に残った。あんな夜更けに、急に電話をして、酔っていた私の話を聞いてくれて。

「そうです、よね……大事にしなきゃ」

沖矢さんの存在を改めて認識しながら、ふと思い出す。安室さんにも、男の前で飲み過ぎるなと、叱られたことがあった。あの時の言葉も、もちろん胸に響いていた。だからこそ、自制できていたんだろうな……と今気づく。それに感謝しようと口を開きかけた時、安室さんが蛇口の水を止めて、憂いを含んだ表情で話し出した。

「大抵、人は怒ることもなく、何も言わずに去っていきます」

その何とも言えない空気感に、思わず手に持っていたメニューを置いた。

「挨拶をして、別れられる事のほうが少ない」

いつの間にか話の内容は、人との別れについてに変わっていた。そんな安室さんの言葉に、思い出すのは赤井さんのこと。

「挨拶をして、別れられることの方が少ない、か……そうですよね、本当に」

この会話を、上手く続けられる自信がなかった。安室さんが抱えるものの大きさを、この時少しだけ垣間見た気がした。こういう時、どんな言葉を掛けるべきか。そう考えるけれど、どんな言葉も助けにはなり得ないことは身をもって知っているから、何も言わない。そうして何も言わずに安室さんを見ていたら、彼と目が合った。思わず、微笑んで続きを待つ。でも、安室さんはニコッといつものように笑って、話題を変えた。

「そういえば名前さんは、いつも丁寧に挨拶していますよね」
「そうですか?うーん、確かに、何も言わずに離れるのはしたくないかもですね」

そう返すと、また間を置いて、安室さんは少し聞きづらそうに尋ねてきた。

「例の彼は、どうだったんです?」

安室さんが、こうして直接赤井さんのことに触れるのは初めてだった。“例の彼”と言われて、少し動揺した。ネックレスに触れながら、最後の留守電を思い出す。もう一度聞きたいと、何度も願ったあの留守電を。

「実は彼、その日の数日前に留守電を残してくれていたんです」
「……留守電?」
「はい。元気か?こちらは変わりない、みたいな事を言って最後、“笑顔が見たい”って言って、終わっていたんです」

あの時、もしかしたら赤井さんは何か感づいていたのかもしれない。赤井さんにしては、珍しい留守電メッセージだった。私が、最後に赤井さんの笑顔を見たのはいつだろう。写真がないから、ぼんやりとしか思い出せない。それでも、大好きだったことはちゃんと覚えている。声を上げて笑うことは滅多にないけれど、優しく、愛おしそうに微笑む赤井さんの笑顔を見る度に、私は嬉しくて幸せな気持ちになっていた。でも、そんな思い出に浸っていると、安室さんらしくない言葉が飛び出す。

「はっ、そんな言葉を残して、勝手にいなくなるとは、全く迷惑極まりないですね」
「……え」

私は、固まってしまう。予想外の毒づきに面食らってしまった。でもすぐに、これが安室さんの優しさからくる冗談だと分かって軽く笑う。

「え、そんな……容赦ないですね」
「……そうでしょうか?」

安室さんは、少し肩を竦めて誤魔化すように笑っていた。でも、きっといつまでも暗い気持ちで、引きずらないようにあえてそう言ってくれているんだと分かった。

「でも、その言葉もあって、笑顔でいなきゃって思えたから。私には必要でした」
「……そうですよね」

そうして私は、悩んだ末にナポリタンを注文した。安室さんが元気に、かしこまりましたー!と言う。静かな店内で、私はスマホを取り出して時間を過ごした。

そういえば最近頭の中で、沖矢さんのことを考えることが増えてきたと感じる。それは同時に、赤井さんへの想いを整理しつつあるということでもあるのかもしれない。私は椅子に背を預けながら、ネックレスにも触れた。でも、どれほど時間が経っても、やっぱり赤井さんの笑顔が見たくて堪らなかった。