15.気づきたくなかった ーホームー

 降谷はバーの階段を上がり、動揺する自身を鎮めるように夜風に当たる。ドクドクと、波打つ鼓動は決して、酔ったからではない。

 楠田陸道に、渡米記録はない。ならば一ノ瀬名前の恋人は、つまり……。しかしそれは、信じられないことで、信じたくもないことで、何かの間違いであってほしくて。そんなことありえないと心から思っているからこそ、候補にすらしていなかったのに。

 一ノ瀬名前が、赤井秀一の恋人だと?

 それでもうるさく音を立てる心臓が、全身を駆け巡っていく血液が、そうだと教える。全てのパズルピースが嵌ったかのように、全ての謎が紐解けてしまい、降谷は思わず口元を手で覆った。運命の悪戯にしては、あまりにもうまくでき過ぎている。

 何とか冷静さを取り戻しつつ、名前に不審に思われないように席に戻ると、彼女は壁にもたれ掛かって眠っていた。その無防備な姿に、妙に心が疼くのを感じ視線を外す。彼女が安室に対して全く警戒していないことが見て取れ、その、人を疑うことを知らぬ真っ直ぐな心を感じるからこそ、直視ができなかった。

 こんな風に出会わなければ……。

 そんな想いが一瞬湧き上がり、急いで頭を振りその妙な思考を払いのける。念のために名前の首筋に手を当て、数回、位置を変えて触れると、体温は高く、脈も少し早かったが、完全に眠っているようだった。

 ならばと、降谷は名前の鞄からスマホを取り出し、ケーブルを繋いでデータをコピーする。彼女の友人の一人としては、この無防備さは注意すべき点だったが、バーボンとしての任務は実に簡単に進めることができ、ありがたい。それと同時に、直近の連絡履歴や登録名を確認していくと“A”、“S”、“F”という頭文字を見つけ、眉を顰めた。今更この、怪しさでしかない番号を調べたところで、何も出ないと分かるからこそ気分が悪い。その抜けのなさから、降谷は思わず舌打ちをしてしまう。

 盗聴機を仕込もうかと思ったが、もはやそこまでする程ではないだろう。FBIの周辺を探った結果、そして彼女の様子からも、赤井がこの世にいる可能性は限りなく低いのだから。

 さて、どうしようかと、降谷は名前を見ながら思う。公安としての信念は強くあるが、彼女のことを考えれば考える程、思考が悪い方へ揺れた。あの憎き赤井の、唯一の弱みだ。彼が生きている時に出会えていれば、憎き赤井秀一が動揺する姿でも見れただろうか。彼女を手荒く人質にすれば……そんな毒に塗れた感情が、湧き上がってくる。

 しかし隣には、こちらの思惑など疑いもせず、無防備にも眠る名前。そしてもう既に、安室として、降谷零としても彼女を知りすぎてしまったが故に、赤井がいなくて良かったとも思ってしまう。これ程関係を深めている状況で、一体彼女に、何かできただろうか。

「名前さん、起きてください」
「……ん」
「名前さん!」

 何度も体を揺らすが、かなり深い眠りの底にいるようだった。酒に弱いのなら、男と二人で飲む時は控えろよ、と思うものの、こちらの作戦で酒を勧めた自分にも非があると分かっているため、あまり強く言える立場ではない。仕方がないが、彼女を抱えてタクシーに乗り家まで送るしかないと思うものの、どちらの家にするべきか。鍵は、鞄の中にあるだろう。セキュリティーが高いマンションだが、本人と鍵さえあればどうにでもなると思った。

 しかし、一人暮らしの女性の家に、意識のない彼女を連れて、許可なく入っていいものか。そう思い、降谷は名前を抱えてタクシーに乗った。



 安室の自宅に着いても眠っている名前にため息が漏れる気持ちだったが、彼女を背負い、降谷は玄関のドアを開ける。廊下に座らせるように彼女を降ろし、靴を脱がせていくと、どうやら目を覚ましたようだ。

「名前さん?」

 彼女が薄く薄く目を開いたのを見て、ひとまず水か、と足早にキッチンへ向かう。冷蔵庫から冷えたペットボトルを取り出すと、その蓋を開けながら彼は戻った。

「すみません、飲ませすぎました」

 その謝罪は恐らく聞こえていないようで、名前は何も言わず水を飲む。

「んー」

 まだ半分夢心地なのだろう。名前のうわ言をよそに、降谷は一度リビングへ行き機密情報がないか見渡した。今見られたとしても、記憶には残らなさそうだったが、念のための確認だ。そうして布団を捲り、彼女が横になれるスペースを空けて玄関に戻ると、思わず足を止める。

「目が、覚めたんですね」

 彼女は壁に手をついて、立ち上がっていた。この状況を説明しなくてはと思うものの、言葉がうまく出てこない。それよりも、今にも崩れ落ちそうな彼女の身体を支えるのが先だった。

 腰に手を回し、距離が近づくと、薄く目を開けた名前と至近距離で目が合う。酒のせいだろうか、目は潤んでいる。物欲しそうに見つめるその視線。見たことのない、艶のある表情。得体の知れない緊張感を感じ咄嗟に視線を外すと、ひとまず横になってください、と言いリビングへ移動させた。

 名前は降谷にしがみつくようにして、身体を近づけてくる。その行動に驚きながらも、ベッドに座らせると、彼女は降谷のシャツを掴んで離さない。

「名前さ、」
「や、」
「……え?」

 それは声というよりも、音だった。“いかないで”と、聞こえたその音は、誰に向けられたものだったのだろう。俯く名前の表情は見えない。意識があるのか、ないのか、正直分からなかった。

 ただ離さまいとシャツを握り、胸にすり寄ってくる彼女を、降谷は静かに抱き寄せていた。