03.涙の訳

 杯戸中央病院の周辺の三つの事件については、公安が捜査していた。組織絡みの事件であることは明らかだったが、これを足掛かりに組織を追い詰めるには証拠不十分であるため表向きは事故として片付けている。降谷は立場上、バーボンの手柄になるよう事件の後始末の名目で確認作業に回っていたのだが、まさか、それとは別に不審な存在を見つけることになるとは思いもしなかった。

“あっ、いえ!何でも……っすみません!”

 そう言って身体を震わせながら、杯戸中央病院の駐車場を逃げるように去っていった名前の事は当然、要注意人物としてマークした。極めて丁重に、安室透の話し方で声を掛けたにも関わらず、まるで悪人にでも見つかってしまったかのような反応は明らかに不自然だった。

 風見に探らせた一ノ瀬名前の情報は、一見何の疑いもないように思われたが降谷の違和感を取り除くにはまだ足りない。もうしばらく彼女の周辺を探ってみようと考えていた最中、今日もまた、杯戸中央病院にて彼女を見つけるものだから偶然とは不思議なものだ。

「……おや?」

 病院の待合室に並べられた長椅子へ一人腰掛けている彼女の視線は、どこか遠くを見ている。表情に色が全くなかった。昨日、あれ程分かりやすい驚きと恐怖の表情を見せていた彼女と同一人物だとは思えなかった。

 彼女はあの三つの事件の被害者ではあるが、昨日病院へ来たのはあくまで経過観察。身体に異常はないと聞いている。彼女の親族は東都の郊外で健康に暮らしていることが分かっているため、除外だ。ならば知り合いの見舞いか? アメリカの大学を卒業し、数年の就労後、半年程前に帰国したという彼女の友好関係はまだ洗えていなかった。

 名前の唯ならぬ表情に降谷の思考は一時逸れたものの、彼はスッと視線を病院の監視カメラに戻す。今日の目的は彼女ではない。

「あれか、」

 風見が昨日手配した杯戸中央病院の防犯カメラには、例の三つの事件が起こっていたあの日、赤井が病院の受付付近に立ち不自然に数秒、遠くを見て立ち尽くしていた姿が映っていた。赤井を知っているからこそ、あの状況下において彼をそうさせたのには訳があるはずなのだ。その理由を知るために、わざわざもう一度ここへ足を運んでいた。

「ん?」

 しかし、映像に映っていた赤井の視線の先を追うように顔を向けると、丁度一ノ瀬名前が座っている。さらに先程まで色の無い疲弊した様子だった彼女だが、いよいよ表情を歪ませていくものだから降谷は目を見張った。

 口元を手で多い、溢れてやまない無数の涙を溢しながら肩を震わす姿から何故か、目が離せない。彼女は、もう耐えきれないというように苦しい表情を浮かべ大粒の涙を流し、呼吸を乱していく。その様子に、彼の足は自然と名前の方に向かっていた。

「大丈夫ですか?」

 ハンカチを差し出してみるも、その声は彼女に届いていないようだ。それどころではないと言った感じで、ひたすら涙を流している。さて、どうしようかと、降谷は顎に手を置いて考えた。

 安室透と一ノ瀬名前は、昨日奇妙な出会いをしており初対面ではない。彼女は念のためシロであることを確認したいグレーな存在であり、繋がりを持つことは多少なりともメリットになる。安室透の性格を鑑みれば問題ないだろうと、彼は静かに彼女の横に腰かけた。

「ゆっくり、呼吸を……」

 そっと背中に手を当てるように、もう一度声を掛けると、落ち着きを取り戻した彼女がゆっくりと視線を上げる。互いの目が合えば、彼女は小さく困惑の声を出し、表情を引きつらせた。あまりにも分かりやすい反応を見せられるものだから、降谷は内心ほくそ笑む。一ノ瀬名前は組織の存在を知りうる可能性があると、結論付けるには十分すぎる反応だった。

「っ、あ……」
「大丈夫ですか?」
「す、すみません、大丈夫です……あの、帰ります、っ」

 また不自然に立ち去ろうとしている姿に、ここで行かせる訳ないだろうと、彼は名前の腕を掴んで引き止める。

「とても、大丈夫そうには見えませんが?」

 そう聞かれても何も言い返せないのだろう。ただ下を向いて彼女は沈黙していた。ここはアプローチの方法を変えてみる方が良さそうだ。

「今日は、診察ですか?」
「……え?」
「病院へは、ご自身の診察で?」
「っ……は、はい」

 思わぬ質問に困惑しているのだろう。彼女はややあって肯定して見せたが、その言葉が嘘であることは明確。

「へえー。では、お会計が済んでいないのにここを出るのは、良くないですね」
「……っ」
「それとももうお済でしたか?では会計が終わってから随分と長く、座ってらっしゃったようですが。どなたかを待っていらっしゃるのでしょうか?」
「っ……それは、」
「しかし待ち人を待たずして、貴女は今立ち去ろうとしている。これほどの涙を流しながら」

 そこまで詰めれば、彼女は今にも震えだしそうな表情で動揺の色を見せた。

「つまり診察でもなく、人を待っている訳でもない。何か理由があって此処にいるのでは?」

 一ノ瀬名前が組織の敵である可能性は元々薄かったが、その反応を見て、やはり違うなと確信する。彼女は儚く、一人で立っているのもやっと。どう見ても誰かに守られて生きる側の人間だ。図星というように、言い返す言葉が見つからないのか黙り込む彼女を見られればもう満足だった。降谷は掴んでいた腕を離し、再度安室の口調に戻してみせる。

「すみません。職業柄癖つい、踏み入ったことを」
「……いえ、っ」
「申し遅れましたが、僕は安室透と申します。探偵をしているんです。何か事情がおありのようですので、宜しければお話を伺わせてください」

 そう言って名刺を差し出すも、彼女は受け取ろうとしない。少しやり過ぎただろうか。かなり警戒されていることが見て取れ、軌道修正を要した。

「困らせるつもりはなかったんです。ただ、以前お会いしたことのある女性が一人、涙を流していたら、誰だって力になりたいと思います」

 わざとらしく、柔らかく笑ってみせるも、名前は名刺を受け取ろうとしない。しかしここは少し強引に、そうしてきちんと印象を残しておく必要がある。

「人探し、事故や事件の調査、その他なんでも扱っています。人に話すだけでも、楽になると思いますし、ね?」

人当たりの良い笑顔を作って名刺を握らせると、彼女は突き返すことはしなかった。失礼しますと、そのか細い声だけが降谷の耳に残った。



「ああ、風見か?」

 降谷は名前が病院を出るその姿を見届けてから愛車に戻り、今後の方針をまとめた。

 赤井の不可解な行動の真相は分からずじまいだったが、どうやら一ノ瀬名前の周囲に組織を知る人物がいるという事実だけは確かだろう。彼女の、降谷を見る目は異常だった。

「一ノ瀬名前について追加で、行動パターンも調べて欲しい。あとこれからしばらく公安の車を借りるよ」
「分かりました」
「あと、彼女を尾行する際はあえて大胆に頼む。ストーカーだと思わせるくらいで構わない」
「……分かりました」

 彼女の涙の理由は一体何なのか。半年前に帰国した彼女は東都にはまだ、知り合いは少ないとみたが、だから余計に分からない。彼女は何を隠している?

 得体の知れない謎が妙に頭に残り続けたまま、降谷は次にベルモットへ電話をかけた。