安室さんからの告白を受けてから、数日経つ。けれど今も時折、あの時のことを思い出す。気持ちに応えられなかったことが申し訳なくて、胸が痛んだ。あんな風に、見つめられるとは思ってもいなかった。それに、あくまで友人だとお互いに言い合っていても、心のどこかで頼ってしまっていた部分はあったのだと思う。だから、彼を強くは拒めなかった。
でも、私の想いは一つしかない。赤井さんは生きている。あれは、幻聴ではない。何より今、この手に握りしめているチョコレートが証拠。ならば私はいつまでも、彼を信じて……。
すると、コンコン、と病室のドアが二回ノックされ、私は顔を上げた。
「名前さん?」
ガラガラと、ドアが開けられた瞬間、私は咄嗟に視線を外す。まさか、沖矢さんだとは思わなかった。私はまだ、沖矢さんに会う準備が出来ていない。どうして……彼は此処に? 私は……どうしたらいい?
「大丈夫、ですか? 名前さん」
ベッド脇まで歩み寄ってくる沖矢さんに、返事もできないまま、私は俯く。頭に浮かんでいることは、とても飛躍しすぎていて、信じられない。でも、そうとしか思えなかった。
“赤井さんは生きている”。 そして彼と、顔と声以外、とても似ている人もいる。そうして今までの記憶と、それが彼だったなら、という思いを重ね合わせれば、答えは簡単。そもそもあの時、映画館の女子トイレに私がいると知っていたのは、二人しかいないのだから……。
でもそれを直接、確かめるのは憚られた。何より、現に今、彼は沖矢昴としてここにいる。沖矢さんとして、私に会いにきてくれているのだから……。
「無事……だったんですね、沖矢さん」
恐る恐るそう聞くと、一拍空いたのち、彼は口を開いた。
「……ええ。すみません。途中で避難させられてしまい、その後の名前さんの行方も分からず」
「いえ、」
「あの……座っても、構いませんか?」
私は彼の顔を見ることが出来なくて、視線を外したまま数回頷いた。
沖矢さんはベッド横の椅子へ腰掛けるけれど、今までにない緊張感がここにあった。互いに相手の出方を伺うような、そんな空気。彼は、どうするつもりなんだろう。私は、どうすれば……。
「綺麗ですね」
すると沖矢さんは、この沈黙を断ち切るように、棚に置かれている花に視線を向けた。
「っあ、……安室さんが、くださって、」
少し気まずい思いでそう言うと、そこで初めて沖矢さんと目が合う。その瞬間、言葉にできない感情が駆け巡っていく。
どうして、今まで気づかなかったのだろう。沖矢さんの眼鏡の奥にある瞳は見えないけれど、確かに感じる、心を熱くするもの。そして微かな香り、雰囲気。声も、顔も違うけれど、どう考えても彼だ。聞かなくても分かるほど、確信してしまった今、私は言葉を失う。
「そうでしたか……すみません、手ぶらで来てしまい」
肩を竦めながら笑う沖矢さんに、かける言葉が見つからない。今、話したいのはそういうことじゃなかった。手ぶらでも、なんでも、来てくれただけで嬉しい。本当はすぐにでも抱き着きたいくらいだった。だって、赤井さんなんだから。でも、私にはそれを確認する勇気が出ない。そもそも、それを聞いては、いけないような気がしていた。じゃなきゃ、こんな風に会話をしているはずがない。そう気づいたとき、私はハッとする。
きっと、赤井さんは沖矢さんで居なければいけないんだ。
「っ……あの、沖矢さん、」
その時、以前沖矢さんが言っていた言葉を思い出し、私は顔を上げた。ようやくあの時の彼の気持ちが、痛い程よく分かったような気がする。
「あんまり……深く、考えないでくださいっ」
「……っ!」
「そのっ……つまり、安室さんのこと!」
私は慌てて誤魔化すけれど、沖矢さんは口を少し開けて、驚いているようだった。これはもちろん、安室さんとの関係を誤解されないようにではなく、かつて彼が言っていたように、この曖昧な関係について考えなくていい、という意味で言っていた。
そう……沖矢昴の正体に、気づいていないふりをする。それが私の出した答え。彼が沖矢昴の姿で来たのならば、それを受け入れようと。安室さんの名前を出したのは、あくまでも鋭い彼に悟られないようにするために、咄嗟に付け足したことだ。
でもそう言いながら、私は過去の自分を振り返って頭を抱えたくなっていた。今まで、なんてことをしてしまっていたんだ。
安室さんからこうして花束を頂いていることもそうだけれど、私が“沖矢さん”に、心惹かれ始めていたところも見せている。それを、今まで彼はどんな気持ちで見ていたのだろう。そんな私は今なんと、言ったらいい?
「そのっ……本当に、友達……なんです」
本当は沖矢さんについても、安室さんと私との関係性についても、ちゃんと話したいのに、相手が“沖矢さん”なのだから、言葉は限られてしまう。そのもどかしさに、言い淀んでいると沖矢さんは、フッと笑った。
「分かっていますよ、名前さん」
その声が優しくて、私は目を丸くする。
「十分、分かっています……」
「……っ」
「にしても、愛されていますね、ピンクの花束とは……」
「え、」
“愛されている”と言う言葉にびくりと、反応してしまうと、また彼は笑った。それは、赤井さんとはまた違う、沖矢さんそのもの。だからその冗談めいた言い方に、私はホッと肩を撫で下ろしていた。どうやら、上手く、いったのかもしれない。これで、きっと良かったんだ。そう思って、私は少し誤魔化すように話題を変えていった。
会話は、入院中、親が見舞いに来た事や、病院食で美味しかったものなど……。その間、ずっと沖矢さんは僅かに笑みを浮かべながら、聞き役に徹してくれていた。でも私も数日間病院に籠り切りのため、長くは話せない。
「……名前さん、本当に無事で何よりです」
「沖矢さんも……無事で、本当に、良かったです」
沖矢さんはこの場を切り上げるように、ありきたりな別れの挨拶をして立ち上がった。ああ、もう、行ってしまうんだ。そう思うと、どうにか引き止めたかったけれど、これ以上何も浮かばない。そうして寂し気な表情をしていると、沖矢さんに呼ばれた。
「名前さん、」
「……?」
「ありがとう」
その言葉の真意は、掴めなかった。急な感謝の言葉に、頭にはてなマークを立てながら沖矢さんを見つめていると、彼はまた笑う。
「……元気をもらえました」
そう言われて私も釣られて笑った。良かった、良かった。本当に、これで良かったんだと、安心する。
「こちらこそ……です!」
「……ところで名前さん、退院の日は迎えが必要でしょうか?」
「あっ……えっ、と、」
「ああ、彼ですね。そんな気がしていましたよ。どうか名前さんは、気になさらず」
まさか、沖矢さんがこうしてお見舞いにきてくれるとはあの時思いもしなかったから、安室さんにお迎えをお願いしてしまっていた。こうして、赤井さんを目の前にして言うのはかなり気まずいのだけれど、「気になさらず」と言われてしまっては、何も言えなかった。
「ただし退院後は、買い出しや身の回りのことはしっかりと、お手伝いしますので」
「は、はい……っ!」
“しっかりと”が、強調されていたような気がして、少しドキッとしてしまうけれど、口元の緩みが隠しきれない程、心の中は嬉しかった。
沖矢さんだけれど、彼は赤井さん。たとえその姿が見えなくても、存在していることが分かるだけでこんなにも心が満たされてしまう。私は沖矢さんが部屋を出て行った後も、しばらく扉を見つめていた。