28.願わずにはいられない ー君をー

 「名前さん?」

 翌日、降谷はコナンに宣言した通り、ポアロのアルバイトが終わった夕方、杯戸中央病院に来ていた。病室を覗くと、彼女は辛うじて起きているものの、俯いたまま動かない。憔悴、しきっている。そんな表現が合ってしまうほどに、彼女は今にも消え入りそうだ。

 右目の上辺りに当てられたガーゼに、右腕に刺さった点滴。改めて、彼女の身に起きたことを理解し、胸の奥が刺さる様に痛む。

 しかし、彼女は今、奇跡を起こしてここに存在しているのだ。その事実を噛み締めるように、降谷は一歩づつ前へ進む。近づいてもなお、彼女は心ここに在らずといった様子で、シーツを見つめている。一体、何を思っているのだろう。視線はまだ合わない。

「名前さん?」

 そこで彼女はようやく、顔を上げる。

「よく……頑張りましたね」

 降谷は、自然と名前の手に自分の手を重ねていた。労いの意味も込めて数回、撫でるように握っていいく。彼女の存在を、しっかりと確かめる意味も込められていたのかもしれない。しかし、彼女は俯いたままだ。

「名前さん?」
「……すみません、わたし、っ」

 視線は大きく揺れ、どこか、落ち着きがない。明らかに様子がおかしかった。その真意を図ろうと、降谷は名前のベッドに腰掛ける。

 彼女の気持ちが不安定なのは、見て取れた。脳の異常があるような話は聞いていなかったため、これが心因的なものだとすぐに分かる。ならばと、安定しない彼女の気持ちを落ち着かせるように、身体を引き寄せる。

「名前さん、大丈夫ですよ」

 肩を貸すように彼女の後頭部を支え、優しく、髪を梳くように撫でる。名前は肩で息をし、小刻みに身体が震えていた。泣いているのかもしれない。

「へんっ……なの、」
「ん?」
「っ……わかんない、ん……です、」
「分からない?」
「……彼、は、いないっ、のに、っ」

 亡くなったはずの恋人の存在が、幻覚なのではないかと、そう彼女が混乱しているのは明らかだった。

 あれだけ用意してやったというのに、奴は正体を明かしていないのか? そうとしか考えられない状況に、心の底から怒りが沸々と沸き上がってくる。俺が、黙認してやると、彼女のためにそばにいてやれと、わざわざ言ってやったというのに、これかと。

 ならば、もういい。あの男が彼女を支えないのであればそれでいい、勝手にしろと。降谷は一度身体を離し、名前の顔を覗き込む。彼女はもう、今にもその心が壊れてしまいそうだった。

「名前さん、」

 優しく声を掛け、彼女と視線を合わせる。

「一人じゃないです」
「……っ」
「僕がいますからっ」

 そうして降谷は、今度は肩ではなく、しっかりと彼女を抱き寄せた。



 次の日も降谷は夕方、病院へ足を運んでいた。昨日とは違い、手にはピンクの花束を手にして。それは色のない寂しい病室で、少しでも元気が出るようにとの思いからだ。気に入ってもらえるだろうかと、少し不安ながらも気持ちは穏やかだった。

「名前さん?」

 ノックをしてドアを開けると、名前は眠っていた。その姿に安堵する一方で、ベッドの真下に置かれている紙袋には、舌打ちをする。確認せずともその中身が分かってしまい、この時間を憎き男に邪魔されたようで不愉快極まりない。

 わざわざ返してもらうつもりはない、さっさと我々の前から消えてくれ。そう荒れ狂う彼の心も、手元の花束を見れば僅かに落ち着いていく。

「全く……」

 ならば彼女が寝ている内に車に置きに行こうと、紙袋を手にした。チラリと中身を確認すると、赤井に貸した全て、丸々返ってきている。つまりチョコレートも入っていた訳で、その瞬間また舌打ちをしていた。

 誰が、お前からのチョコレートなど食べるか。海外風のチョコレートに、寒気がする。持ち帰りたくはないそれはベッド横の棚の上に置き、降谷は紙袋と花瓶を手にして一度病室を後にした。



「あ、名前さん!どうです?ご気分は?」

 紙袋を置き、花瓶に花を生けて病室に戻ってくると、名前は起きていた。何やら顔色が良さそうだと、安心しながら歩み寄ると、彼女は胸に手を当てて、何かを握りしめている。

「名前さん?」

 視線を上げた彼女の瞳には、光が戻っていた。涙で潤んでいるものの、それが悲しみからくるものではない。口元も、何か喜びを噛み締めるかのようにして、僅かに微笑んでいる。

 彼女は、何かを握っている。そう気づいてベッド脇の棚に視線を向けると、チョコレートが無かった。

 しまった、そういうことか……っ!

 降谷の脳裏には、赤井が余裕そうに笑う姿が浮かび、また心がざわめき出していた。

 気に入らない、気に入らない。いつだって、余裕そうに構える奴の姿が一番腹が立つ。こちらの思いなど知らず、自分の思い通りに事を進めていく奴の神経が、行動が、全てが憎い。彼女は俺のものだと、わざわざ見せつけるためにこれを用意したのかと思うと、降谷は今すぐにでも赤井を殴りに行きたくて堪らなかった。

「安室さん……」

 しかし、優しく自分の偽名を呼ぶ名前の声で、降谷は我に返る。名前はいつも通り柔らかい表情で、微笑んでいる。

「昨日、言えなかった」
「……っ」
「私、安室さんの、おかげで……」

 両手でチョコレートを握りしめながら、名前はしっかりと言葉を選ぶように、話し出した。自分の思いを伝えようとする姿は、いつかの記憶と重なる。同時に、降谷の中のどす黒い感情が徐々に鎮まっていく。

「安室さんのおかげで、私は生きて……っ」

 その笑みは、荒れまくっていた心をいとも簡単に溶かしていった。生きている、という言葉を聞いて、込み上げてくるものは計り知れない。

「安室さんがいたから、です。本当に、ありがとうございます……本当に、」

 感謝の言葉よりも、安室透がいたから生きているのだと、言われた言葉が何よりも胸に響いていた。安室透の行動で救われたのだと、そう言われてしまっては、もう何も言い返せない。

 ただ、親しみを込めた笑顔で見つめてくる彼女が、今、愛おしくて仕方がない。

「名前さん……」

 もう、無理かもしれない。安室の仮面を外し、もう今は何も繕っていなかった。思うがままに、彼女のベッドの脇へと腰掛ける。

 改めて目を合わせると、彼女は目を丸くして、少し首を傾げているものだから、思わず笑ってしまいそうになる。いや……もう、笑っていたのかもしれない。こんな表情を、いつまでも見ていたいと思った。

「好きです、名前さん」

 まさか、こうなるとは思っていなかったのだろう。彼女は目を見開いて、固まっていた。もちろんその反応は想定内。かつて、今は恋愛する気になれないと彼女に伝えていたのだから当然だ。そうして自分で作ったはずの壁を、自分で崩していくことになるとは、誰も思いもしない。

「気づいたら惹かれていたんです」
「……っ」
「名前さんのこと、大切な人としてずっと……想っていたんです」

 そう言って、降谷は名前の手を握った。優しく、触れてもなお、拒絶の反応を見せないことから、もう少しだけ座る位置を彼女に近づける。そうして、ゆっくりと、まるで壊れ物に触れるかのようにそっと彼女を抱き寄せた。

「無事で、本当に……良かった」

 名前の耳元で、囁くようにそう漏らすと、名前は彼の脇腹に手を添えた。しかしそれは決して、抱き締め返す訳でも、強く握られる訳でもない。あくまで、友人としての優しさだ。

 その思いが分かっているからこそ、降谷は小さく笑う。もう、こうすることはできないだろう。そう思えば思う程、離れがたい。彼は名前の身体を慈しむように抱きしめ、想いを伝えていく。

「名前さん……」

 そして身体を少し離すと、名前の頰に触れ、顔を上げさせた。大切なことは、目を見て言いたい。

「好きです、とても」

 彼女を見つめながら想いを口にした時、降谷は初めて、自分の中に芽生えていたものの大きさを知った。そうして一度口にしたその言葉は、何度も溢れてしまう。

 “好きです”
 “ずっと、好きだった”

 しかし、この気持ちは、名前の気持ちを分かっていたからこそ、言えたこと。彼女の気持ちが十分すぎるほど分かったからこそ、言えたことだった。降谷は、何も言えずに戸惑っている名前の頬に触れ、優しく微笑む。

「……言って?ちゃんと」

 そして、俺を振ってくれと、降谷は思う。

 その時、名前の瞳が僅かに潤んでいる事に気づき、ハッとした。思っていたより深い位置に安室透がいたのかもしれないと、今更ながらに気づく。しかし、今の仕事をしている以上、どうしようもできない。どの道、同じ結末だったのだろうと自分を納得させるしかなかった。

 だからこそ彼女の口から、安室透を、そして降谷零を拒む様を、最後まで見届けていたい。

「っ……ごめん、なさい」
「……っ」
「私っ、待っている人がいるんです……。その人を、愛しているから、っ」

 彼女は最後まで、涙を流さなかった。そこには強い意志を感じられて、降谷は負けるように視線を外す。分かっていたことだが、それでも受け止めるのは想像よりも痛みが生じていた。それでも安室透らしく、笑って誤魔化してみせる。

「振られちゃいました」

 名前は申し訳なさそうに目を伏せたまま、何も言えずにいる。優しいのだろう。その優しさと、強さに惹かれていたのだ。

 こうして振られてもなお、彼女への愛おしさは変わらない。これは、簡単に消えるものでもないだろう。それでも気持ちを伝え、振ってくれたことで、きちんと消化できそうだと思えた。そして降谷は最後に、名前の髪に触れ、流れるようにその手を後頭部に添える。

「名前さん……ありがとう」

 もっと、いろんな表情を知りたかったな。貴女は、どんな顔をするんだろう。そんな思いを抱えているとは知らず、無防備に見つめてくる名前に、さすがにそれは狡いだろうと言いたくなった。もっと拒絶してくれないと、困るじゃないかと。さらに、こんな時にすら思い浮かんでしまった赤井の姿に、その唇を奪ってしまおうかという、汚れた気持ちも顔を覗かせてくる。これは、奴への当てつけだと。

 しかし、それを行動に移すことはできなかった。せめて、彼女には、自分のこんな黒い部分を知らないでいて欲しい。そして、もう少しだけ、友人で居させて欲しかった。

 そして降谷は、そっと、彼女の頬に顔を寄せていく。名前が視線を下げたのを確認し、彼女の柔らかな頬へ触れるだけのキスをした。

「……っ」

 その感触を味わうように、再度、今度はまるで唇を重ねるかのように、その頬に口付ける。

 それはあまりにも未練がましい。こんなこと、するつもりはなかった。さっぱりと、終えるはずだったのだと、降谷は自分の行動に目を背けるようにベッドからスッと立ち上がり、頭を掻く。この重苦しい空気を変えなければ……。

「全部、奴のせいです」
「……え?」
「いえ、こっちの事情で。でもすみません、嫌な思いを」

 彼女の顔を見れず、そう謝ると、名前は何も言わず放心している。

「え?もしかして、良かったんですか?」

 そう言って揶揄えば、違います、と今度はようやく鋭い視線を向けられ、僅かに空気が和らぐ。

「冗談です。でも今のを、許してもらえるなら、またポアロに」

 そう言うと、名前は僅かに頷いて笑顔を見せた。

「でも、その男とは来ないでくださいね、誤って熱湯をかけてしまうかも」
「え……こわい、」

 そうして少し見つめ合った後、少しだけ笑いあった。もうそこには、いつもの空気感が戻っていた。

「そうだ、退院の日、よろしければ自宅までお送りしますけど?」
「あ……」
「シフトが被っていなければ、ですが」
「じゃあ……どうしよう。お願いしても……?」

 少し遠慮がちに見上げてくる名前に、思わず以前のように、その額を小突いてみようと思った。しかし怪我をしているため、当然それはできない。

「ありがとう、でいいんですよ」

 いつかのやり取りと同じように、彼女は照れたように笑っていた。その笑顔を見て、降谷は少し気分が軽くなる。これで良かったのだと、腑に落ちるようだった。

「じゃあ……僕、帰りますね」
「あ、待って安室さんっ」
「……?」
「本当に、ありがとう。それと、これからも……っ」

 その先の言葉はなかったが、それで十分。
 降谷は静かに病室を後にしながら、彼女がこれからも、笑顔であってほしいと、心から願った。