31.知れる喜び

 お互いに、触れ合っている箇所を指で撫で合いながら、何から話そうかと考えていた気がする。私も、何から聞けばいいか分からなかった。

「……悪かった」

 赤井さんが、最初に口にしたのは謝罪の言葉。謝ることなんてないのに。ずっと、守ってくれていた。そばに、いてくれた。帰ってきてくれた。

「辛い思いをさせた。ずっと」

 もう十分、赤井さんの気持ちは伝わっている。私は首を振って、違うと伝える。

「決着が着くまでは、と思っていたが、仕事のせいじゃない。いつだって、身勝手だ」

 そこで私は、杯戸中央病院で偶然出会ったあの日、赤井さんに大きな気持ちの変化があったことを初めて知った。離れた方がいいと、考えたこともあったと聞いて泣きそうになる。それこそ身勝手だよと言うと、赤井さんは、そうだなと言って笑う。

 いつもと様子の違う彼を、見ていられなかった。赤井さんが今まで辛い思いを抱えていたんだと思うと堪らない。しかもそれは、私を大切に想うからだと伝わってくるから、思わず身体を捩じって赤井さんを抱きしめた。シャツから覗く彼の素肌は、汗が引いて少し冷たい。

「それが嫌だったら、もうずっと前に別れてる」
「……っ」
「身勝手で、不器用な、秀一さんを愛してるの。今までのことで、謝ることなんかないよ。私は、好きでそうしてた。好きだから側にいた。いくらでも待てた。我慢なんかしてない」

 目を合わせながらしっかりと伝えれば、赤井さんは僅かに微笑んで、私の頬を撫でてくれる。

「……名前には、敵わないな」

 目を細めながら、愛おしげに見つめられては、堪らない。私はぐっと顔を寄せて、赤井さんにキスをした。そうしていると、段々懐かしい空気感に戻ったような感覚になって、自然と身体が和らいでいく。

「だってね、」
「ん?」
「恋人の死も、爆弾処理も経験したんだよ?」
「……それは敵わないはずだな」

 すごいな、本当によくやったな。当時を思い出すように、赤井さんはたくさん賞賛の言葉をかけてくれた。その流れで、もう一つ種明かし。きっと、驚くに違いない。

「あと私……沖矢さんのこと気づいてたの」

 少し得意げに、彼を見上げてみる。そしてどんな反応をするかなと待っていたのに、赤井さんの表情が全然変わらない。

「え、もしかして知ってたの?」
「……ああ」
「……え?」
「分かるさ、それは」

 じゃあどうして言ってくれなかったのと、思わず視線で訴える。ということは、お互い分かっててあの関係を演じていたことだ。なんだか急に、恥ずかしくなってきた。

「俺がそうしたかったんだ。友人の沖矢のままでないと、気持ちが持たなかった」

 巻き込みたくなかったこと、そして、外では沖矢にならざるを得ない以上、正体を明かした上で沖矢を演じ続けるのは無理だったと。赤井さんは正直に、その胸の内を明かした。

「この姿で一度でも会っていたら、歯止めが利かなくなっていたよ」

 私は赤井さんにされるがまま、心地のいいその場所で、少し放心していた。お腹に回されている腕に力が込められ、こめかみにキスされるけれど、ぼーっとしたまま。

 そうだったんだ……。私が気づいていることに知っていたんだと思うと恥ずかしいけれど、でも確かに、言っている事は理解できる。

 私も、“沖矢さんの友人の名前”を演じていられたのは、赤井さんがそれに気づいていないと思っていたからだった。もし、あの時一度でも変装を取った赤井さんと会ってしまっていたら、次に沖矢さんと会う時にどうしていいか分からない。沖矢さんは、顔と声も赤井さんとは違う他人。顔は沖矢さんで、声は赤井さんになったらそれはそれで頭がおかしくなりそうだ。

 本当に、不思議な時間を過ごしていたんだな。そう思いながら、赤井さんが居なくなってからの日々を思い返した。

「っあ、安室さんは?……彼は大丈夫?」

 そう聞くと、赤井は苦笑いをする。私の聞き方が、必死すぎたのかもしれない。でも、安室さんから直接何かを言われた訳ではないけれど、赤井さんと似た職業の人なんだということは察している。だから、心配だった。

「彼も、無事だよ」
「っ、そっか……よかった……」

 彼の本名は、降谷と言うらしい。日本の公安警察と説明されてもピンとは来なかったけれど、とても優秀な人みたいだ。確かに、そうなんだろうなと思う。

 そうして私たちは、沈黙した。赤井さんは、特に何かを聞こようとはしない。

 私にとって安室さんは、やっぱり、ただの友人ではなかった。恋人とは違う。けれど彼の健康を、幸せを、ずっと祈っている。そんな存在。

 彼のおかげで助けられたことは数知れず、どこか共鳴してしまうその心の奥底には、お互いが気づいていた気がする。だから、恋愛する気がないと言っていた彼が病院で口にした告白には驚いたけれど、その気持ちを強く拒むことはできず、その後も友人で居続けていた。

 それについて、どう説明しようかと次の言葉を探していると、赤井さんが頬にキスをしてくれる。

「名前、」
「……?」
「名前は今、此処にいる。それが全てだ」
「……っ」
「そうだろう?」

 赤井さんは、多くを語らない。でも、その少ない言葉の中から、彼の気持ちを汲み取ることは十分できた。

 彼の言葉を受け止め、私は数回頷く。そうして、互いに引き合うように唇を合わせた。何度か、触れるだけのキスをして、見つめ合う。さっきの、荒れ狂うような触れ方とはまるで違う、一つずつ確かめるような繊細なキスに、くすりと笑ってしまう。赤井さんも、喉を鳴らして、心地良さそうにしていた。

「他に気になることはないか?」

 そう聞かれて悩んだ末に私は、電気消したいと、小声で頼んだ。赤井さんも納得の表情をしている。

「そうしよう、」

 部屋の電気が消され、カーテンも閉めれられていく。でも、まだ外は明るい。昼間を感じてしまって恥ずかしいけれど、もういっか。

 ベッドに戻ってくる赤井さんは、シャツを羽織るだけでとても様になっている。久しぶりの姿に見惚れていると、赤井さんはお財布からいくつか小袋を取り出し、枕元に投げ置く。

「え……っ」
「ああ、そのつもりで来ていたさ」

 ベッドに散らばる小さな袋をちらりと見て、身体が一気に熱くなる。その数にも恥ずかしくなって、顔を隠した。

 そんな私を気にする様子はなく、赤井さんは私を跨ぐように膝をつき、両手で私の頬を包み込む。恋焦がれるような眼差しで見つめられて、一気に身体の熱が上がった。そうして二人、至近距離で微笑み合い、引き寄せられるように口付けていく。触れるようなキスから、ゆっくりと深くへ。

「……んっ」

 じっくりと解きほぐされていくような口付けに、思わず瞳が潤むけれど、これは嬉しさと、気持ち良さの顕れだ。そのままベッドへと、身体を預ける。

 赤井さんも先ほどよりずっと穏やかで、じっくりと丁寧に進めてくれていた。赤井さんの唇が首筋から鎖骨へと移り、また頬に戻ってくる。

「赤井さん……」

私は彼の頬に手を添えて、そっと撫でた。

「おかえりっ」

 その言葉に、彼の瞳が大きく揺れる。そして時間が止まったかのように、固まってしまった。どうしたのだろうと、思っていると、彼は深く息を吐き出し俯いてしまった。

「……いや、」

 そう言って、深く呼吸を繰り返している。それはまるで、迫り来る感情を抑えようとしているよう……。そんなの私が、泣いてしまう。

 私と出会う前から、もっともっと前から、ずっと追っていたんだから。とても想像できないけれど、それがようやく果たせたのだから、こうして二人で会うこと以上の想いが今、彼にあるのは当たり前。そんな彼にかける言葉が見つからずにいると、赤井さんがふっと笑う。

「……上手く進まないな、今日は」

 どうしても中断してしまうこの流れに対する言葉に、少し空気が柔らかくなった。

 ムードに欠けてしまうけれど、それが愛おしくて。この、浮き沈みする感情を、多分お互い楽しんでいた気がする。多分それは彼も同じで、今回は身体が離れることはなく、優しく頬を撫でてくれた。

 そうしてしばらく見つめ合いながら、気持ちを整え直す。そっと彼の髪に触れれば、同じように髪を撫でてくれた。

「名前、」
「ん?」
「もう一度、言ってくれ」

そう、甘えるように言う彼の姿は、きっと私しか知らない。

「おかえり……秀一さんっ!」

彼は目を細めて笑った。

「ああ。ただいま、名前」

そうしてもう一度、ゆっくりと唇を重ね合わせていった。