32.あなたに出会えて

 あれから時間は過ぎ、私は秀一さんと婚約した。仕事は今月末で退職。アメリカでの生活が始まる。

 お世話になった工藤ご夫妻にも挨拶に行き、そこで初めて彼らの息子さんである工藤新一君にも会うことができた。コナン君には会えなかったけれど、彼らが伝えておいてくれるらしい。こうして日本にいる間に、お世話になった人達への挨拶はできていた。彼、以外……。

 少しだけ心残りなのは秀一さんが現れて以来、一度も安室さんと連絡が取れていないことだった。一度ポアロに足を運んでみたけれど、当然のごとく彼は仕事を辞めていた。メッセージも入れたけれど、既読にはならない。もう安室さんでいる必要がないのだから、それは当然で、何も言えなかった。

 勝手に、全てが終わっても友人であり続けると思っていた。でも、こうして連絡が取れなくなってしまったということは、そういうことなのだろう。“降谷さん”、とその本当の名前を呼べないまま日本を離れるのはやはり寂しい。そんなこと、秀一さんには言いづらくて話題にしていないけれど、彼は気づいていそうだ。



 そして、もう日本で過ごす最後の週末。秀一さんと二人、ゆっくり過ごしていたら私のスマホが鳴った。

 それは非通知の番号。秀一さんも、机に置いてある私のスマホの表示を見ている。

「……出た方がいい」

 彼は、それだけ言うと、スマホを手にして私に手渡してくれた。非通知なんて不審だけれど、秀一さんがそう言うならと私はその言葉に導かれるようにスマホを受け取って、恐る恐る通話ボタンを押す。

「……もしもし?」
“名前さん?”

 懐かしい安室さんの声に、言葉が出ない。秀一さんを見ると、変わらず優しく笑っていた。分かっていたの?と、目で伝えると、彼は静かに頷く。その表情に、私も笑って返した。

「安室さん……」

 横では、秀一さんが立ち上がっている。

“名前さん、安室じゃないです。降谷ですよ”
「……知ってます」

 そう返すと、安室さんは少し笑っていた。

“……実は今、名前さんのマンションの近くにいるんです。少し、会えませんか?”

 私はチラリと、秀一さんへ視線を送る。彼は私の視線に気づくと、片手で煙草を持ってそれを揺ら揺らと振っていた。行っておいでと、言ってくれているようだった。

「っ……はいっ、下、行きますね」

 私は電話を切りながら、秀一さんの方へ寄っていく。

「っ、秀一さん」
「ああ、ゆっくり話してくるといい。俺は、後で行くよ」

 それだけ言うと、彼はベランダへと向かっていく。私は、赤井さんの後ろ姿にありがとうを言って、外へ出て行った。



 マンションのエントランスを出ると、彼の姿が目に入る。その格好は見たことのないグレーのスーツ姿で、雰囲気もちょっぴり違った。

「あむ、っ……降谷さん!」

 自然と出てしまう、安室という苗字をなんとか引っ込めて、降谷さんを呼ぶけれど口に馴染まない。変な感じだった。

 私は、軽く会釈して待っている彼の元へ駆け寄るけれど、いざ目の前にすると言葉が出てこない。

 もちろん、心配していた。でも秀一さんから無事だとは聞いていたから、それを言うのも違う気がする。連絡してほしかった、そう思うけれど、私たちは恋人ではない。ただ、こうして会いに来てくれたことがとても嬉しかった。

「良かったですっ……出発する前に会えて」

 そう伝えると、降谷さんは少し申し訳なさそうに俯いて笑った。

「すみません。いろいろと立て込んでいて」

 それはきっと違うと、感じる。私はあくまで、安室さんの友人で、安室さんをしなくてよくなったから、同時に連絡も絶ったのだろう。でも、彼はそんなこと言うはずがない。優しい人だから。そう思っていると、降谷さんが顔を上げた。

「いや、本当はもう、連絡しないでおこうと、思っていました」

 冷たく、突きつけられた真実に、胸が痛んだ。降谷さんの友人ではなかったのだと、面と向かって言われると流石に辛い。

「でも、無理だった……っ」

 ただ、そう言って、切なく笑う降谷さんの表情は、私の知っている彼そのものだった。彼はずっと、一人で何かを背負っている。そんな彼の力になれたらと、思っていたんだ……。

「結婚すると聞いて、お祝いがしたくて、」

 でも、突然彼から飛び出して来た言葉に、私は目を丸くする。

 お祝い。そんな事、言われると思わなくて、胸が熱くなった。私は込み上げてくる涙を堪えるようにして待っていると、彼が車の中から、大きな花束を取り出す。それは入院したときに、渡してくれたあの花束に似たピンク色。

 降谷さんは、両手で抱える程の大きさのその花束を、ガサガサと音を立てながら私に差し出した。

「ご結婚、おめでとうございます」
「っ……ありがとう、!」

 豪華な花束を受け取ると、それはずっしりと重量がある。自然の、花の香りが優しく漂ってくる。降谷さんは、変わらず微笑んでいた。

「出発はいつなんですか?」
「……今週末ですっ」
「ああ、結構、ギリギリだったんだな」

 行違わなくて良かったと、軽く笑う彼を見て、私は涙が零れそうだった。今、目の前にいる彼は、服装は違うけれど話し出すと意外にも安室さんとあまり変わらない。そう思ったら、色んな思い出が蘇ってきていた。でも泣いてちゃダメだ。大事なことを言わなければいけない。

「降谷さんのおかげで……っ」
「ん?」
「降谷さんのおかげで、私は守られてたって」

 秀一さん曰く、もし降谷さんの初期の判断が違っていたら、私の身も、秀一さんの任務も、かなり危険になっていたそうだ。つまり彼は私の心の支えでいてくれただけでなく、命の恩人でもあった。

 降谷さんは私のことを、爆弾処理よりももっと前から、守ってくれていたのだ。

「はっ、それは勝手な思い込みだな」
「……え?」
「それは僕のミス、ですから」

 その意味が分からず、降谷さんを見つめ返しているけれど、笑って誤魔化されてしまう。

「いや、気にしないでください。それに、感謝されるほどのことは何もしていない」
「でも……っ」
「むしろ、僕の方が貴女に感謝していますよ名前さん……」
「……?」
「貴女に、出会えて良かった」

 ″出会えて良かった”。

 そう言われた時、心が震えた。この言葉に、全てが集約されていた気がする。

 もうこれ以上、深くは聞けなかった。もっと伝えたいこともあった。でも、彼の言う“出会えて良かった”という言葉は、私にも当てはまること。もうそれだけ、伝わればいいや。そう思って、私も笑った。

「私も、出会えて良かったです。降谷さん」