(番外編)朝日に照らされながら

(爆発事件前のお話)

 赤井は車道に停車させたスバル360の助手席側に立ちながら、名前がマンションから出てくるのを待っていた。まだ、日が昇っていないこの時間は、独特の静けさがある。煙草も吸わず、澄んだ朝の香りを体内に取り入れながら、深く呼吸をした。

 やがて、彼女がマンションのエントランスから駆け寄ってくる姿が目に入り、口元は自然と弧を描いてしまう。

「おはようございます、名前さん」
「おはようございます、すみません、遅くなってしまって……」

 名前はぺこりとお辞儀をしながら、小声でそう言った。朝だからだろうか、周りに迷惑にならないようにとヒソヒソ声で話す様子は、まるでこれから秘密の旅にでも出掛けるかのようだ。

 楽しげな表情を見て、やはり誘って正解だったのだと実感する。「今、来たところですよ」と、ありきたりな返事をしながら、彼女を助手席へと座らせ、自身は運転席へと乗り込んだ。これで、二人きりの空間だ。

「結構、外はまだ寒いですねっ!上着、間違えちゃったかな……?」
「そうですよね。名前さん、宜しければこちら、使われますか?」

 念のため用意していた防寒用の上着を後部座席から取ると、彼女の表情がパッと華やかになる。

「えっ、ありがとうございます!じゃあ……お借りしても?」
「もちろんですよ。すみません、こんな早くに誘い出してしまって」
「ううん!嬉しかったです……こんなの久しぶりで、」

 名前は照れたように笑うと、上着を膝の上に置いた。心が浮かれているような横顔を見てしまえば、その柔らかな頬へ口づけたくなるもの。だが、それは叶わない。目を細めるのみに留まり、赤井はハンドルを握った。

 休日だというのに、早朝に呼び出すとは悪いと思ったが、今日はどうしても会いたかったのだ。窓の外を眺めている名前は、一体どんな思いでこの日を迎えているのだろう。それは知り得ないことだが、どうかこれが良い思い出になったらいいと、思うしかなかった。



「綺麗……」

 車を走らせて約一時間。海岸沿いに出ると、少しだけ顔を出した太陽が、柔らかな光を放っていた。海面はキラキラと、その光が反射して白んで幻想的だ。街は、静か。まだこの光が届いておらず、人々は眠っているのだろう。赤井は、人気のない駐車場の脇に車を止めると、シートベルトを外す。

 名前をエスコートしようと思い外へ出るが、彼女は既に美しい朝日に導かれるように自ら外へ出てしまっていた。陽の光は、まだ柔らかいとはいえ力強い。彼女は目を細めて、遠くを眺めていた。

 風に髪が靡き、潮風が頬を撫でる。光に照らされた名前の横顔を見ていると、自分が沖矢であることを忘れてしまいそうだ。

「名前さん、お忘れですよ」

 助手席に置かれたままだった上着を、彼女の肩に掛けると、名前は笑いながら振り返る。

「あっ、ありがとうございます!」
「いえ……」
「沖矢さん、こんな素敵なところ知っていたんですねっ。ありがとうございます、連れ出してくれて……」
「……見たかったんですよ、貴方と」
「え?」
「いえ……朝日、見ていると心が癒されますよね」
「あ……そう、ですね、」

 波音が、程よく会話を掻き消していく。ありがたい反面、悔しいような思いが残っていく。それでも、二人きりで、こうした美しい景色を見られるというのは、何にも代えがたい。何より、人気のないこの場所、この時間であれば、不要な心配が要らず心から楽しむことが出来る。我ながら良い案だったなと、内心、笑みを浮かべていた。

 赤井は水平線を見つめるフリをして、彼女を見る。大きな上着を手繰り寄せるように、袖を通しているその動き一つ一つが愛おしい。自分の代わりに、彼女を温める手段あることに安堵する。

「降りましょうか、名前さん」

 そう言って手の平を上に向けて差し出すと、彼女はそっと上から重ねた。階段を降りていく間、彼女を気遣うように見上げては、一段一段、丁寧に降りていく。

 もう少し、長くあれ。そう思いながらも、靴の底はもう砂の感触がしていた。

 名前は微かに笑って、その手をぎこちなく離していく。失った体温が、残像としてまだ残っているのが、余計に切ない。彼は空を切るように拳を握ると、その手をポケットへとしまった。

「わぁ、サクサクだ……っ」

 既に数歩先を歩き始めていた名前が、楽し気な声を出している。見ると彼女は砂に足を取られて、動きづらそうにしていた。その表情は少女のような笑みを浮かべているものの、少々危なっかしい。

「歩きづらいですね」

 そういう理由に託け、彼女の身体を支えに行く。背後から片腕で名前の腰に触れ、右手を包み込むように握る。一気に距離が近くなり、胸の鼓動が高まる。すると不覚にも、顔を上げた名前とは至近距離で見つめ合う恰好になってしまい、咄嗟に目を逸らす。

 それでも彼女に不快感を与えないよう「さあ?」と促してみると、名前は照れを隠すように俯きながら足を踏み出していく。表情は隠れているものの、笑みが浮かんでいるような気がしてならない。

 全く、そんな可愛らしい反応を見せてくれるなと思いながらも、軽く親指で彼女の手の甲を撫でてみると、愛らしい視線と交わった。

 ああ、これは……。一体、どこまでなら許されるだろうか。身勝手な欲は、尽きることがないのだから大変だ。

「ん、濡れてる……」
「ええ。今は、干潮に近い時間帯ですからね。ああ、靴……大丈夫ですか?」
「あ、はい!これは、汚れても全然、大丈夫なので……」

 そう言いながら彼女は沖矢の腕の中から離れると、しっとりと泥濘んだ砂浜の方へと一人進んでいく。靴底が沈んでいく感覚を楽しむように、一歩、一歩と踏み込む様子は微笑ましい。しかし、それ以上行くと、恐らく……。

「っ、名前さん、」

 しかし引き止めるのが遅く、打ち寄せた波が勢いよく彼女の足元を攻めていた。

「……わぁっ、!」

 名前が慌てて逃げ寄ってくると、濡れちゃいましたーっ、と顔をくしゃりとしながら身体を揺らす。濡れたと、口ではそう言っているものの、むしろ余計にはしゃいでいるものだから、堪らなくなる。どうして、そんなにも君は……。

「ふふっ!ね、沖矢さんも、」

 名前の手招きに、赤井も一歩、前へと踏み出す、彼女に呼ばれるならば、どこへでだって行くさと、靴が汚れるのも構わずぐんぐんと進んだ。そして、左腕を彼女の腰に回し、二人揃ってもう少し前へと歩いていく。

「えっ!こ、これ以上は、まずいですって!」

 波が引いたタイミングで一気に、二、三歩、進むと、さすがに危機感を感じたのか名前が慌て出す。この位置では次に来る波で、確実に靴が浸かるだろう。それでも、彼女の細い腰をしっかりと掴んで、離してやらない。

「だめだめだめっ、これ、絶対……っ!」
「誘ったのは名前さんですよ?」

 そうして迫りくる波に、名前は身体をぎゅっと縮めた。その瞬間、赤井は左腕に力を込め、彼女の身体を持ち上げる。そのまま左脇に名前を乗せるように、右へと傾く。ぐわっと、浮き上がった浮遊感に驚いたのか、暴れる名前を落とさないように抱きながら、赤井は、久しぶりに感じる彼女の体温をしっかりと味わっていた。海水は一気に彼の靴の中へと浸透し、足先が冷えていく。

 しかし、この状況が作り出せるのであれば、いくらでも濡れてやろう。なんなら彼女を抱いたまま、この冷え切った早朝の海に突き進んでもいい。名前が濡れない場所までなら、どこまででも行けると思うほど、他のことがどうでも良くなっていた。

「おっ、沖矢さん!?」
「海は楽しいですね」
「そ、そうじゃ、なくてっ……お、降ろして、くだ、っ!」

 名前は赤井の左肩を掴むようにしてバランスを取り、必死に身体を強張らせている。そんな彼女を抱え、赤井は数歩下がっていき、乾いた砂の上へと彼女を降ろした。

「え、っ……ちょっ……な、なんてこと……っ!ど、どうするんですか、靴!?」

 まるで自分事のように慌てふためく名前を見て、何故か気分が良くなる。頬がが赤く染まっているのは、抱きかかえられたせいだと思いたい。

「平気ですよ。このくらい」
「いや……でも、」
「しかし……冷えますね、これはさすがに」
「……っ、もう!……おきやさん、っ!」

 肩を竦めながら冗談を口にすると、彼女は呆れるように赤井を見ている。そして明らかに色の変わった靴を見て、ツボに入ってしまったのか、やがて声を漏らし笑うものだから、二人してしばらく笑い合う。

「それにしても、名前さんは軽いですね。すぐにでも攫ってしまえそうです」
「……え?」
「本当ですよ」
「……こ、怖い事言わないでくださいよ!でもっ、私は、沖矢さんがそんなに力持ちなことに驚きました」

 何か運動でもされていたんですか?と、聞いてくる彼女の質問には上手く答えながら、一旦車へと戻って行った。



 赤井は近くの自販機で缶コーヒーと、ホットココアを買うと、名前にココアを手渡した。嬉しそうに笑っている様子に安心しながら、二人、朝日を見ながらベンチへと腰掛ける。

「あの……ありがとうございます、沖矢さん」

 名前はココアのプルタブを開けながら、徐に切り出した。その声は、先程までとは少し違う。赤井はその雰囲気を感じ取り、口にしようとしていたコーヒーを下げながら、真横を見る。

「今日……実は私、誕生日なんです」

 当然、知っていたことだったため、赤井は驚かない。むしろこの日に、誰よりも早く会いたいが故に、誘っていたのだ。この言葉を、一番に言いたいがために。

「おめでとうございます、名前さん」

 日本に帰ってきてから彼女は、東都に友人が居ないと溢していた。そんな彼女が、一人寂しく、この日を迎えないようにしたい。まして、“安室透”になど会わせてやるものか。今日をしっかりと、“沖矢昴”でもいいから自分で満たしてやりたい。そして今年の誕生日も悪くなかったと、思っていて欲しい。

「ありがとうございます……だから嬉しかったんです。今日、誘ってもらえて」

 彼女らしい笑顔を取り戻し、名前は一口、ココアを啜った。冷えた海風が、顔に吹き付ける。眩しさが、増していく。

「貴方が……」
「ん?」
「貴方が生まれたこの日に、感謝しなくてはいけません」
「……大袈裟じゃ、ないですか?」
「そんなことはありませんよ、名前さん」
「……?」
「本当に、そう思っています」

 “貴方はかけがえのない人です”
 名前の瞳を見つめながらそう言うと、彼女は瞬きの回数を増やし、視線を泳がす。

 踏み込みすぎているのは分かっていたが、今日を過ごしてやはり、そう思うのだ。自分にとって、彼女は無くてはならない存在なのだと。

 しかし彼は、フッと笑顔を見せて、その言葉の意味合いを調整していく。名前に、答えを求めるようなことはしたくはないのだ。

「ほら、名前さんは、この世に一人しかいませんからね」

 赤井は紳士らしく微笑み、コーヒーに口をつける。全く、何をしているんだと思う反面、こうする他ないのだから仕方がない。彼は、決して勝敗の付かない綱引きを、続けていく覚悟を決めているのだから。

「……おきや、さん」

 そう言って、沖矢の言葉を深読みしている彼女を見兼ねて、赤井は「おや、」と小さく声を発する。

「……え?」
「名前さん、見てください。今、魚が跳ねましたよ」

 ベンチから立ち上がって、遠くの海を指すと、名前も後に続いてくる。

「ほんとに……?っ、あ!本当だ!」
「今のはかなり、高く跳ねましたね」
「凄い!……あ!またっ!」

 一匹が跳ねると、その衝撃に合わせてか、何匹かが続いていく。広い海を目を凝らして見ていると、確かに、波に見えて実は結構魚は跳ねているようだ。

「本当に居るんですね!この海に、魚が!」
「ええ……見えないだけで、実はちゃんと、いるんですよ、此処に」
「……ん、それ、」
「どうしたんです?」
「ううん、でも……なんだかそれ、哲学みたいですよね」
「……そうでしょうか?」
「はい、だって……見えないけど、実は存在しているって、深いなぁと」
「……しかし、実際に居ますよ」
「え?」
「ほら、今も、魚が跳ねました」

 再度、海へ視線を向けさせると、彼女は力が抜けたように、フッと笑う。

「確かに、居ますね!ちゃんと!」

 そっかー、いるんだー、と言いながら、ぐーっと上に伸びをする彼女は、気持ち良さげだった。ならば、もう少しこのまま……。