夢。いつもの真っ黒な夢。わたしは何も持たない掌を見つめて、それから瞳を閉じる。
暗い。光が一切届かない暗闇。
まるで、海の底みたい。
***
「明日から暫く帰れねェ」
いつもより少し帰りが遅かった爆豪くんは、ご飯を食べ終わると神妙な表情でそう切り出した。食器を洗う手が止まる。爆豪くんが座っているソファーがギシ、と軋む音がした。
「大阪で大型の敵が暴れ回った事件あったろ」
「うん……」
「街の損壊が酷いのと、圧倒的に人手が足りねえんだと」
「……行方不明者も出てるんだよね」
手を拭いてから爆豪くんの隣に座る。肩に頭を預けると、抱き寄せてくれた。伝わる温もりにそっと瞳を閉じる。
「……気を付けて行ってきてね」
「……ああ」
爆豪くんの手がサイドの髪に触れて、梳くように繰り返し撫でてくれた。チクタク。時計の針の音だけが部屋に響く。
「なまえ、」
「……なあに」
「それ、やるよ」
「……このでっかい袋、何が入ってるの?」
ソファの下に置かれていた大きな袋。爆豪くんが帰って来た時に抱えていて、何が入っているのか実は気になっていたのだ。明日から大阪に行くと聞いて、爆豪くんが持って行く物だと思い込んでいたけど……。
「…………ぬいぐるみ?」
がさり。袋の中から出て来たのは大きいサイズのぬいぐるみ。……バク?思わず爆豪くんの顔を見ると、何も言わずに髪をぐしゃぐしゃと乱された。
「え、これ……」
「一週間は帰って来れねェからな」
「わざわざ、買ってきてくれたの?」
それに対する返答は無かった。爆豪くんはソファーのふちに肘を置いてそっぽを向く。爆豪くんの項とぬいぐるみの顔を見比べて、じわじわと頬が緩んだ。……甘やかされてるなあ、わたし。
「……この子、なんか爆豪くんに似てるね」
「はァ?どこがだよ」
「ちょっと目がつり上がってるし……ふふ、見れば見るほど似てるかも」
「……お前なァ……」
「よーし、名前つけてあげよう」
ちょっと目付きが悪いぬいぐるみとじーっと見つめ合う。……それにしても……本当に爆豪くんに似てるなあ……。
「んー……ばく、ばくごーくん……」
「ソイツに俺の名前付けンなよ」
「あ、バクタローとかどうかな」
「お前のネーミングセンスどうなってんだよ」
「ふふ。気に入った!今日から君はバクタローくんだー!」
「…………好きにしろ」
かわいい。バクタローくんはふかふかで柔らかくて、目つきの悪さに反してとても優しい感触だ。そんな所も爆豪くんみたい。お腹の部分に顔を埋めるとその心地良さに頬っぺたが緩む。バクタロー、さてはお主、いい生地を使っているな……!
そのまま堪能していると、急にわたしの腕の中からぬいぐるみが消えた。思ったより近い距離に不機嫌そうな顔をした爆豪くんがいて、わたしはこてんと首を傾げる。
「……爆豪くん?」
「俺が目の前にいるだろ」
「……ふふ」
「ニヤニヤすんな」
爆豪くんはバクタローをわたしとは逆側に置いてしまう。だから、ぬいぐるみにしたように爆豪くんを抱き締めた。彼特有の甘い匂い。体に回る逞しい腕、全部全部、わたしの大好きなもの。
「同棲してからよ、こんなに長く帰って来れねェのは初めてだな」
「……そうだね」
「……貘っつーのは、夢を喰ってくれるンだとよ。悪い夢を見た後に『この夢をあげます』って唱えると、二度とその夢を見ずに済むらしいぜ」
「あはは、だからバクのぬいぐるみなんだ……優しいなぁ……」
「……俺が居ない間はこいつで我慢しろ。悪夢を見たら喰ってもらえ」
「ありがと、爆豪くん」
「……明日の朝にはもう行かなきゃいけねェ。して欲しい事は今の内に言っとけよ」
頭上から優しい声が降ってくる。自然と抱き締める腕に力がこもった。押し寄せるのは不安。そう、不安だ。何に対して?……分からない。分からないけれど、今はただ爆豪くんの温もりを感じていたい。
「……朝まで、ぎゅってして欲しいな」
「は、……いつもしてやってンだろ」
居ない間もこの温もりを忘れないよう、強く、強く。
爆豪くんとわたしは、広いベッドの中でいつも以上に肌を寄せ合う。他愛もない日常の話をして、声を潜めて笑って、訪れる朝を待つ。いつもの様にわたしを抱き寄せてくれるがっしりとした腕。沢山の人を守る、少し傷付いたヒーローの腕だ。わたしも救われている。彼が毎晩こうして抱き寄せてくれるようになってから、わたしはあまり悪い夢を見なくなった。
「爆豪くん……」
「なンだよ。寝れねェのか」
「……うん」
ヒーロー。彼はヒーローだ。いつだって命懸けの職業。爆豪くんに限ってそんな事は起きないと思うけれど、いつ、この温もりが無くなったっておかしくない。……それなのにわたしはこうして彼に心配を掛けて、家で無事を祈る事しか出来ない。
爆豪くんの額と、わたしの額がぶつかる。至近距離で見る真っ赤な瞳。見る時によって色を変えるその瞳は、慈愛に満ちていた。ああ、吸い込まれそう。……このまま、吸い込まれてしまえたらいいのに。
「しょーもねェ事考えてる顔だな。一人は不安か?」
「ううん、不安は不安なんだけど、違くて……」
「なまえ、」
「……」
「…………一週間は長ェな」
「そう、だね」
わたし達は互いの隙間を埋めるみたいに、ぴったりと抱き合って息を吐いた。こういう時に、自分がいかに爆豪くんという存在に依存してるかを思い知る。たかが一週間、されど一週間。わたしの心は前に進んでいるようで進んでいないのかもしれない。
「キス、するか」
「……ん」
「目ェ閉じろ」
頬に触れる熱い手。彼の個性を感じる場所。汗ばんだ掌とカサついた唇の差に唇が重なった瞬間、つ、と目尻から涙が溢れた。親指がそっとそれを拭って、キスを覚えたての学生の頃みたいに触れるだけの拙い口付けを繰り返す。
爆豪くん。
爆豪くん。
好き。
離れたくないよ。
唇を通して互いの心に触れるみたいだ。悲しい訳じゃない、辛い訳じゃない。片目からぽろぽろと溢れる涙を爆豪くんは何度も掬った。何度も、何度も。言葉を交わさなくてもこうして口付けを交わすことで伝わってしまう。
「……なまえ、抱くぞ」
その晩、ゆっくりと時間を掛けて爆豪くんはわたしを抱いた。自身を刻み付けるように身体中に口付けて、それからわたしをぎゅうと抱き込んで汗ばんだ肌を寄せる。暫しの別れを惜しんで劣情をぶつけ合うわたし達を「大袈裟な」と人は笑うだろうか。
夜は明ける。
−……そして、お互いの居ない一週間が始まった。どうかこのまま幸せな日々が続きますように、なんて。
わたしが望むのはいつだって''不変''だ。これ以上は望まないから、変わらないで。